私の大切なブログ読者Unknown氏から「太平洋戦争についての見解を一度お願いしたいです。良識ある貴殿の意見を聞いてみたいと思いました」というコメントをいただきました。
実はこの問題は徳川幕府末期にさかのぼって日本の近代化への歩みの中で位置付けて再検証すべき重要な問題です。残念ながら日本の近代史の学者もマスコミもまた司馬遼太郎などの歴史小説家もフェアで論理的整合性を最重要視した歴史認識の方法論を持っていないようです(ひょっとしたらいるのかもしれませんが、そういう方の日本近代史を私は読んだことがありません)。
まず、いちゃもんをつけるわけではありませんがUnknown氏はおそらく意識せずに「太平洋戦争」という言葉をお使いになったと思いますが、太平洋戦争と言った場合「日米戦争」と同意語であり、あの時代の日本の戦争の一部だけを切り取って評価するのは歴史認識の方法として妥当ではないと思いますので、どうして日本が世界一の巨大軍事国家アメリカに無謀な戦争を仕掛けるに至ったのかの歴史的背景をできるだけ手短に述べたいと思います。なおあの時代の日本の戦争については朝日新聞は「アジア太平洋戦争」(もともとはこの表記は「岩波用語」とされています)と表記を統一しており、読売新聞は「昭和戦争」と表記を統一しています。こうした表記はその表記自体に日本が行った戦争についての歴史認識が反映されており、私はどちらの歴史認識にも同意できないため「あの戦争」という言い方をしています。
では日本が近代化への歩みを開始した徳川幕府末期の検証から始めます。徳川幕府の鎖国体制(これは外交政策です)が崩壊したのは、1853年6月3日にアメリカのペリーが大艦隊を率いて浦賀に強行入港し、国書を徳川幕府につきつけ、幕府が受理したのがきっかけです。
実はそのかなり以前からヨーロッパ列強やロシアなどが徳川幕府に「開国して通商関係を結びたい」と申し入れてきていましたが、幕府はすべて拒絶してきました。一番遅れて日本にやってきたのがアメリカで、一気に日本への攻勢を強めるためペリーを派遣したというわけです。この時代の世界史的背景を少し述べておきますと、ロシアも含めヨーロッパ列強がアジアとアフリカを支配下に置くための植民地政策(帝国主義とも言います)を一斉に取りだした、世界史の中でも最も暗黒と言える時代でした。その典型的な証拠がアフリカの国境線です。五大陸のうち国境線が直線で引かれているのはアフリカだけです。アフリカ人はさまざまな部族がそれぞれの部族の勢力圏をあまり意識せず、たがいにその勢力圏を尊重するといった部族間の関係が続いていました。だからヨーロッパ列強がアフリカの分割支配に乗り出した時に国境を直線で決めたというのが歴史的事実です。ちょっと横道にそれますが、イラクのフセインがクウェートに侵攻した時主張した「もともとクウェートはイラクの支配下にあった」というのはある程度歴史的事実と言ってもいいのです。
さて初めて外国の国書を受け取ってしまった徳川幕府は翌月諸大名にアメリカの国書を示し意見を求めました。このことはもはや徳川幕府は政権担当能力を失っていたことを意味します。そして翌年3月3日、徳川幕府はペリーとの間で日米和親条約(神奈川条約ともいう)を結び、下田・函館の2港を開港しました。
アメリカとだけ和親条約を結び、他のヨーロッパ列強には鎖国を続けるというわけにはいきません。徳川幕府は次々と和親条約を結び事実上鎖国体制は崩壊しました。ただし幕府は諸外国に開港しただけで、まだ通商関係は結んでいませんでした。しかし諸外国の軍事的圧力に屈して鎖国体制の廃止に追い込まれた幕府への批判の声は徐々に日本中に広まっていきました。ただし、この時点では幕府の弱腰外交に対する批判が中心で、攘夷運動はまだ始まっていません。このことは記憶にとどめておいてください。
和親条約の締結で先陣を切ったアメリカは56年8月以降、総領事のハリスに命じ日本との間に通商条約を結ぶよう幕府に働きかけます。当時の外交担当者の老中・堀田正睦は58年1月、孝明天皇の勅許を得るため京都に向かいましたが、鎖国をやめたことに対して反発した公家たちの抵抗により天皇は勅許を下さず、堀田は老中職を解任されました。
堀田の後を継いだのが大老・井伊直弼です(就任は58年4月)。井伊は朝廷に無断で同年6月19日アメリカとの間に日米修好通商条約を結んでしまいます。この通商条約はアメリカの巨大な軍事力を背景に締結されたわけですから平等な通商関係であろうはずがありません。そのため鎖国を解除した徳川幕府に対する批判(当然保守的反発です)が、一気に攘夷運動に転換していくのです。そして翌7月、朝廷は幕府の条約調印を責め、不満の旨を水戸藩他13藩に伝えました。
その後幕府は当然ですがヨーロッパ列強(イギリス・フランス・オランダ・ロシア)とも同様の不平等条約を締結しました(「安政五カ国条約」と言われています)。一方井伊は過激な攘夷論を主張し始めたものを弾圧し、橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰らを処刑するなど、いわゆる「安政の大獄」を行いました。
こうした井伊直弼の幕政に猛烈に反発したのが水戸藩の志士たちでした。水戸藩はよく知られているように徳川御三家でありながら水戸光圀以来勤皇思想(間違えないでください。「尊王」思想ではありません。その違いに気が付いていない歴史家が大半を占めているため、明治維新の原動力を「尊王攘夷」という4字熟語でくくってしまい、その結果歪んだ歴史認識を近代歴史の専門家も抱いてしまっているからです。その典型的な例を示します。以下に引用する文章は山川出版社が発行した「Story日本の歴史・近現代史編」の本文の冒頭です)。
1858年(安政5)年6月、日米修好通商条約が締結された。「遺勅」調印(天皇の勅許を得ずに通商条約に調印したこと)と、開港による経済的混乱はそれまで別々であった尊王論と攘夷論を一体化し、反幕的意識が下級武士を中心に生み出された。安政の大獄に憤激した志士が大老井伊直弼を暗殺した1860(安政7)年3月3日の桜田門外の変は尊王攘夷運動の本格的幕開けとなった。
この本の著者名は「日本史教育研究会」とされ、24人の主に私立高校の日本史教師によって書かれています。さらに山川出版社といえば歴史書(教科書を含む)の最高権威とされている出版社です。
さて桜田門外の変の実態は勤皇派の水戸藩の浪士たち(彼らは類が水戸藩に及ぶことを恐れ脱藩した志士です)が中心になって行った暗殺事件でした。ひとりだけ薩摩藩士も加わりましたが、この攘夷運動がきっかけになり反幕勢力が各藩に生まれていきます。中でも突出したのが長州藩でした。毛利藩(のちの長州藩)は関ヶ原の戦いで戦争には参加しなかったけれども西軍の総大将でした(毛利藩は大阪城にたてこもっていました)。そのため領地の大半を削られ、以来徳川幕府に対する遺恨の念を遺伝子的に受け継いできた藩です。
その長州藩にとって、この幕末の混乱は徳川幕府を倒す絶好のチャンスが来たと考えたのは当然でした。もう政権担当能力を失いつつあった徳川幕府を倒すための大義名分として長州藩が担ぎあげたのが名目上(当時)の最高権威だった朝廷でした。長州藩が歴史的事実として勤皇主義(これは水戸藩に代表されるように政権交代は目的にしていません)であったことも、尊王主義(これは政権を朝廷に返還するという政権交代を目的とした思想です)であったこともありません。
当時大大名は自分の藩に城を構えていただけでなく、江戸と京都に藩邸を持っていました。江戸の藩邸は参勤交代のため、京都の藩邸は朝廷がある京都の安寧を守るためでした。このことが長州藩にとって幕末の混乱期に乗じることができた最大の要因でした。そして長州藩は燎原之火のごとく広がっていった攘夷運動を巧みに利用し、攘夷派の公家たちを味方につけ朝廷内に大きな影響力を形成していったのです。それを苦々しく見ていたのが、のちに連合する薩摩藩でした。
この時期日本は政治的に大混乱しています。長州藩の工作が成功し62年9月には朝廷が攘夷を決定し、これを受けて諸外国と通商条約を結んで鎖国体制を解除したはずの徳川幕府も翌63年5月10日に攘夷の決行を決断しました。また長州藩も一応攘夷派であることを「証明」するため同じ5月に下関で米・仏・蘭艦船を砲撃しています。しかしただ攘夷の姿勢を見せるためだけの砲撃でしたから外国艦船には何の損傷も与えていません。このしっぺ返しは当然あり、64年8月には英・仏・米・蘭の4国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩はすぐ謝っています。
実はその間に京都で大きな政変が起きています。朝廷を牛耳っていた長州藩を苦々しく見ていた薩摩藩が京都守護を命じられていた会津藩に働きかけ長州藩の朝廷内での振る舞いに反発していた公家らを抱き込み、63年8月18日に突然行動を起こして長州藩士を京都から追放してしまいました。このとき攘夷派の公家7人も京都を追われ(「七卿落ち」)、長州藩は京都での足場を完全に失いました。さらに再びひそかに京都に潜入した長州藩士が64年6月5日、新撰組に襲われ多くの藩士が命を落としました(「池田屋事件」)。
これで長州藩は一気に硬化、再び京都を制するべく進軍し、7月19日、薩摩藩や会津藩と戦い、散々な敗北を喫します。いわゆる「蛤御門の変」(あるいは「禁門の変」)と呼ばれている事件です。その直後徳川幕府は第1次長州征伐を行い、長州藩は「ごめんなさい」をして許されています。
長州藩と2度にわたって戦った薩摩藩はもともと尊王派でも佐幕派でもなく、いわば中立的立場をとっていました(公武合体論が主流になった時期もあります)。まして攘夷派でもなく、攘夷派藩士の有馬新七らを「上意」により殺害しています(62年4月の寺田屋事件)。また同年8月21日には薩摩藩の大名行列を乗馬して横切ったイギリス人3人を薩摩藩士が殺傷するという事件を起こし(生麦事件)、翌63年7月にはイギリス艦隊から報復攻撃を受けました(薩英戦争)。この敗戦で薩摩藩の実権を西郷隆盛や大久保利通らの改革派が握り、イギリスとの友好関係を結んで若手藩士をイギリスに派遣してイギリスの近代軍事技術を学ばせると同時に近代兵器を輸入し、日本最大の軍事大藩になったのです。
その薩摩藩と長州藩の間を取り持ったのが坂本龍馬であったことはよく知られています。ただ坂本龍馬を英雄にしてしまった司馬遼太郎は歴史小説家としては絶対にやってはいけない事実の歪めを行っています。彼の小説『竜馬が行く』は龍馬という実名を「竜馬」と書きかえることでフィクションであると言いたいのでしょうが、そうすることで事実を歪めることが許されると考えていたのだとしたら読者に対する裏切り行為です。ここで明らかにしておく明確な事実は、坂本が薩摩藩と長州藩を取り持ったのは彼自身のビジネスのためだったということです。坂本は日本で最初に(疑似)株式会社を創設した人物であることは事実ですが、彼が作った亀山社中(のち海援隊)の第1の社是は「手段を選ばず利益を求めよ」でした。要するに豊作だった長州の米を薩摩に売り、その代償として長州は薩摩の近代兵器と軍事技術を買う、その仲立ちをすることで商社として利益を上げることが坂本の本当の狙いだったのです。
しかし、坂本龍馬の目的は別として結局薩摩藩に対する恨みを抱き、なかなか「ウン」と言わなかった長州藩の桂小五郎が薩摩藩の西郷隆盛と通商関係を結ぶことにしたのは、薩摩藩の持つ近代兵器と軍事技術がなければ長州藩の軍事力を高めることができないという厳然たる事実を認めざるを得なかったからです。
こうして薩摩藩から近代兵器と軍事技術を導入した長州藩は再び徳川幕府に対して反旗を翻します。幕府は諸藩に命じ第2次長州征伐を行いましたが、薩摩藩は幕府の命に従わず中立を守りました。もし幕府側が優勢な戦局になっていたら薩摩藩はどういう行動に出ていたでしょうか。赤子でもわかる話ですね。
それはともかく近代武装化し、さらに高杉晋作が事実上封建制度の根幹をなしていた士農工商の身分差別を排して奇兵隊や力士隊など、武士以外の戦力を作り上げ、幕府軍をコテンパンにやっつけたことで、事実上明治維新が成功することが決まったのです。
ここまで検証してきたことで、明治維新を実現した革命エネルギーが「尊王攘夷」という4字熟語でくくられるようなものではなかったということがお分かりいただけたと思います。
私は2月9日に投稿したブログ「論理的思考力について私のブログ読者に挑戦します③」の中でこう書きました。覚えていらっしゃるでしょうか。
「その方法とは、世の中のあらゆる仕組みや事象について、常に幼児のごとき素直さで(つまり一切の価値観や宗教観、あるいは常識とされていることなど)疑問を持つことである」と。
歴史研究家でもなければとくに歴史に詳しいわけでもない私が明治維新を実現した革命エネルギーについてこれだけの検証ができたのは幼児のごとき素直さで、たった一つの事実について疑問を持ったからです。
その疑問とは「尊王攘夷」と4字熟語でくくられてきた革命エネルギーの「攘夷」思想が、明治維新が実現した途端、なぜ煙のように消えてしまったのか、という疑問です。この疑問を持てば、あとは山川出版社の『日本史少年表』で事実を確認していくだけで明治政府がどういう性格の政府にならざるを得なかったのかが論理的結論として誰にでも理解できます。でも一応続けます。
長州軍の圧倒的勝利で薩摩藩は薩長連合を公然化し、薩長を中心とする「官軍」(すでに朝廷は薩長を始め諸藩に「王政復古の大号令」を67年12月9日に発令していました)が68年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と戦火を交え、完膚なきまでに幕府軍を破りました。その
後官軍は何らの抵抗も受けず江戸城に向けて進軍を開始し、江戸城総攻撃の前夜、幕臣の勝海舟が西郷隆盛を指名して会談し、無血開城を決定しました。ここでもちょっとした疑問を持っていただきたいのですが、勝はなぜ西郷を指名したのだろうか、という疑問です。
勝は、これは私の論理的推測ですが、もし官軍が江戸城総攻撃に出たら、旗本を中心に徳川家への忠誠心に凝り固まって江戸城に立てこもっている幕府軍は死に物狂いの反撃に出る。そうなると日本中が戦火の海になり、日本侵略の機会を虎視眈々と狙っている欧米列強によって日本が分割支配されかねない。それだけは何としても防ぎたい。しかし徳川家への忠誠心に凝り固まって籠城している旗本たちに無血開城を納得させるには徳川家の存続とある程度の経済的基盤を保証してもらうことを条件にしなければ彼らを「ウン」と言わせることができない。この条件を呑んでくれる相手は、徳川憎しの怨念に凝り固まっている長州の桂小五郎では無理だ。官軍の総攻撃によって日本中が火だるまになった時の危機感を共有できるのは西郷しかいない。そう勝は考えたに違いない。
一方西郷のほうは勝の提案をのんだ場合、自分の命が長州藩士に狙われるだろうと思ったに違いない。が、あとから分かることだが、西郷は「命もいらぬ、名誉もいらぬ、金もいらぬ」という生きざまを貫いた人物だった。勝の提案に一言の注文もつけずに「分かった。総攻撃は中止する」と言ったに違いない。勝が抱いた危機感を西郷も抱いたからであろう。
いずれにせよこうした状況の中で明治維新が実現し、明治政府は欧米列強が植民地拡大競争をますます激化させている状況の中で近代化への道を歩まざるを得なくなりました。明治政府にとって、まず取り組まなければならない最大の課題は徳川幕府が欧米列強の圧倒的軍事力に屈服して結ばされた不平等条約の解消でした。国家戦略として「富国強兵・殖産興業」を掲げたのもそのためです。
そしてこの国家戦略の一つ「富国強兵」がその後日本が軍国主義国家への道しるべになったのも当然の論理的結論でした。まず日本が侵略戦争への道に踏み出そうとしたのは早くも73年(明治6年)です。日本が近代化への道を歩みだした時期、隣国の朝鮮は「鎖国攘夷」を国是にしていました。70年ごろから明治政府は朝鮮に開国を求めてきましたが、朝鮮は話し合いにも応じず73年にはかえって排日運動が激化しだしたのです。それに呼応するように日本で征韓論が巻き起こり、その中心人物だった西郷隆盛や板垣退助は政争に敗れて下野しています。
歴史的には朝鮮は現中国の事実上支配下にありました。天下を統一した豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出し失敗したのも朝鮮を中国が守ったからです。日本にとって朝鮮を支配下に置くためには中国と戦って勝つことが絶対的条件だったのです。
それでは日本がどういうきっかけで中国(当時は清国)と戦争するチャンスをつかんだのかを検証します。94年、朝鮮で官吏の腐敗と農民への重税に反発した農民が一斉に蜂起し農民軍は首都ハンソンに迫る事態が生じました。農民軍の鎮圧に窮した政府は清に応援を要請したのです。明治政府は農民軍に正義があると考え(そういう考え方自体が清に対して戦争を仕掛ける口実なのです)、軍隊を朝鮮に派遣し、清軍と戦って破りました。そして朝鮮を日本の支配下に置くため清軍が撤退した後朝鮮王宮を占拠し、朝鮮と中国との従来からの従属関係を断ち切らせました。その後も日本は清との戦争を継続し(これからがいわゆる「日清戦争」です)、圧倒的な軍事力で清国に勝ちます。この勝利で日本は欧米列強から仲間入りを認められ、徳川幕府が欧米列強と結んだ不平等条約は解消されます。
それで明治政府が欧米列強との不平等条約の解消のため始めた「富国強兵」の国家戦略の目的は実現できたのです(もう一つの国家戦略である「殖産興業」は政官財癒着の鉄のトライアングルの形成につながっていくのですが、この問題はまた別の機会に書きます)。
しかし欧米列強と一応肩を並べた日本はアジアへの侵略を国家戦略にします。その場合、日本のアジア支配にとって最も脅威だったのは満州を勢力下におさめ、さらに南下政策を進めようとしていたロシアでした。一方アヘン戦争で清に勝ち中国に大きな権益を持っていたイギリスは、やはりロシアの南下政策を脅威に感じていました。こうして対ロシアの利害関係が一致したことにより1902年1月30日、日英同盟が成立しました。
その結果日本はイギリスの後ろ盾を得て日本はロシアに宣戦布告しました。しかし戦争を仕掛けるには侵略戦争が当たり前だった当時でも一応大義名分が必要です。実は日清戦争で勝利した日本は清から遼東半島を割譲されていました。しかしロシア・フランス・ドイツの3国干渉により遼東半島は清に返還しました。その遼東半島の旅順にロシア軍が要塞を築き朝鮮半島へのにらみを利かせだしました。ロシアが旅順に要塞を築いたことは国際法に違反したとして日本はロシアに宣戦布告したのです。
私はこの日露戦争で日本が負けていれば、中国や朝鮮での権益を失っていたでしょうが、軍国主義への更なる傾斜は止まっていただろうと考えています。実際旅順攻撃の責任者だった乃木希助大将は日本軍兵士の莫大な損失を被っています。イギリスが、当時世界最強とされていたロシアのバルチック艦隊をイギリスの制海権領域を通過させないという協力をしてくれたため、日本海軍が万全の準備を整えることができ、世界の海戦史上の奇跡とまで言われる大勝利を収めることができ、乃木将軍も英雄の仲間入りを果たしてしまったのです。
その後は日本の世論が日本の更なる軍国主義への傾斜をあおって行きました。そもそもロシアに勝ちながら得たものが戦果としては不十分だと政府を責める世論が圧倒的だったのです。もちろんそういう世論の形成にあずかったマスコミの責任は小さくありません。マスコミは日本が初めて負けた「あの戦争」についてだけ一生懸命検証し、あるいは「誤った報道をして読者を裏切った」(朝日新聞・船橋洋一主筆)などとしおらしい「反省」をしていますが、もし朝日新聞が読者を裏切らず、戦争の真実を伝えていたら、政府や軍からの弾圧を受ける前に読者から見離され朝日新聞社は間違いなく倒産していました。
日米戦争を意味する、いわゆる「太平洋戦争」も、アメリカが日本につきつけたハル・ノートが、日本がアメリカに宣戦布告せざるを得ないことを目的にしたものであることはいまでは明らかです。当時日本陸軍の前線はアジア全域に伸び切っており、到底アメリカと戦える状態にないことを百も承知で、日本が絶対呑めない条件を突きつけ、日本から戦争を仕掛けざるを得ない状況に追い込むことがハル・ノートの目的でした。ただアメリカにとっての誤算だったのは日本海軍の軍事力を軽視していたことでした。そのため日本海軍の暗号電文を解読していながら、パールハーバーに集積していたアメリカ艦隊に警戒態勢を取らせなかったことです。その自分たちの怠慢を不問にして日本の野村・来栖アメリカ大使の怠慢で宣戦布告がパールハーバー攻撃に遅れたことで日本を卑怯な国と極め付け、いまだに年配のアメリカ人が「リメンバー・パールハーバー」という反日感情を抱いている状況の改善の努力をしていないことは極めて遺憾としか申し上げるしかないと思っています。
さらに広島・長崎に原爆を投下し、なんの戦争責任もない数十万人を虐殺した行為について、「1日も早く戦争を終わらせるため。アメリカ軍兵士の損傷を最小限にするため」などという口実でいまだに正当化していることにも私は許しがたい怒りを抱いています。
またやはり戦争を早期に終結させるためという口実でソ連に対日参戦を要請し、日本軍兵士の多くが極寒のシベリアに抑留され、さらに国際的に日本の領土と認められている北方4島をいまだに占領されている原因を作ったことについても、アメリカはいまだに日本に謝罪していません。
戦後の日本が世界一平和な国として過ごしてこられたのはアメリカの核の傘で守られてきたという紛れもない事実として私はアメリカに感謝していますが、「あの戦争」で犯したアメリカの過ちについて、未だにアメリカが正当化していることに対し、歴代総理がアメリカに謝罪を要求したことがないことを極めて遺憾に思っています。
実はこの問題は徳川幕府末期にさかのぼって日本の近代化への歩みの中で位置付けて再検証すべき重要な問題です。残念ながら日本の近代史の学者もマスコミもまた司馬遼太郎などの歴史小説家もフェアで論理的整合性を最重要視した歴史認識の方法論を持っていないようです(ひょっとしたらいるのかもしれませんが、そういう方の日本近代史を私は読んだことがありません)。
まず、いちゃもんをつけるわけではありませんがUnknown氏はおそらく意識せずに「太平洋戦争」という言葉をお使いになったと思いますが、太平洋戦争と言った場合「日米戦争」と同意語であり、あの時代の日本の戦争の一部だけを切り取って評価するのは歴史認識の方法として妥当ではないと思いますので、どうして日本が世界一の巨大軍事国家アメリカに無謀な戦争を仕掛けるに至ったのかの歴史的背景をできるだけ手短に述べたいと思います。なおあの時代の日本の戦争については朝日新聞は「アジア太平洋戦争」(もともとはこの表記は「岩波用語」とされています)と表記を統一しており、読売新聞は「昭和戦争」と表記を統一しています。こうした表記はその表記自体に日本が行った戦争についての歴史認識が反映されており、私はどちらの歴史認識にも同意できないため「あの戦争」という言い方をしています。
では日本が近代化への歩みを開始した徳川幕府末期の検証から始めます。徳川幕府の鎖国体制(これは外交政策です)が崩壊したのは、1853年6月3日にアメリカのペリーが大艦隊を率いて浦賀に強行入港し、国書を徳川幕府につきつけ、幕府が受理したのがきっかけです。
実はそのかなり以前からヨーロッパ列強やロシアなどが徳川幕府に「開国して通商関係を結びたい」と申し入れてきていましたが、幕府はすべて拒絶してきました。一番遅れて日本にやってきたのがアメリカで、一気に日本への攻勢を強めるためペリーを派遣したというわけです。この時代の世界史的背景を少し述べておきますと、ロシアも含めヨーロッパ列強がアジアとアフリカを支配下に置くための植民地政策(帝国主義とも言います)を一斉に取りだした、世界史の中でも最も暗黒と言える時代でした。その典型的な証拠がアフリカの国境線です。五大陸のうち国境線が直線で引かれているのはアフリカだけです。アフリカ人はさまざまな部族がそれぞれの部族の勢力圏をあまり意識せず、たがいにその勢力圏を尊重するといった部族間の関係が続いていました。だからヨーロッパ列強がアフリカの分割支配に乗り出した時に国境を直線で決めたというのが歴史的事実です。ちょっと横道にそれますが、イラクのフセインがクウェートに侵攻した時主張した「もともとクウェートはイラクの支配下にあった」というのはある程度歴史的事実と言ってもいいのです。
さて初めて外国の国書を受け取ってしまった徳川幕府は翌月諸大名にアメリカの国書を示し意見を求めました。このことはもはや徳川幕府は政権担当能力を失っていたことを意味します。そして翌年3月3日、徳川幕府はペリーとの間で日米和親条約(神奈川条約ともいう)を結び、下田・函館の2港を開港しました。
アメリカとだけ和親条約を結び、他のヨーロッパ列強には鎖国を続けるというわけにはいきません。徳川幕府は次々と和親条約を結び事実上鎖国体制は崩壊しました。ただし幕府は諸外国に開港しただけで、まだ通商関係は結んでいませんでした。しかし諸外国の軍事的圧力に屈して鎖国体制の廃止に追い込まれた幕府への批判の声は徐々に日本中に広まっていきました。ただし、この時点では幕府の弱腰外交に対する批判が中心で、攘夷運動はまだ始まっていません。このことは記憶にとどめておいてください。
和親条約の締結で先陣を切ったアメリカは56年8月以降、総領事のハリスに命じ日本との間に通商条約を結ぶよう幕府に働きかけます。当時の外交担当者の老中・堀田正睦は58年1月、孝明天皇の勅許を得るため京都に向かいましたが、鎖国をやめたことに対して反発した公家たちの抵抗により天皇は勅許を下さず、堀田は老中職を解任されました。
堀田の後を継いだのが大老・井伊直弼です(就任は58年4月)。井伊は朝廷に無断で同年6月19日アメリカとの間に日米修好通商条約を結んでしまいます。この通商条約はアメリカの巨大な軍事力を背景に締結されたわけですから平等な通商関係であろうはずがありません。そのため鎖国を解除した徳川幕府に対する批判(当然保守的反発です)が、一気に攘夷運動に転換していくのです。そして翌7月、朝廷は幕府の条約調印を責め、不満の旨を水戸藩他13藩に伝えました。
その後幕府は当然ですがヨーロッパ列強(イギリス・フランス・オランダ・ロシア)とも同様の不平等条約を締結しました(「安政五カ国条約」と言われています)。一方井伊は過激な攘夷論を主張し始めたものを弾圧し、橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰らを処刑するなど、いわゆる「安政の大獄」を行いました。
こうした井伊直弼の幕政に猛烈に反発したのが水戸藩の志士たちでした。水戸藩はよく知られているように徳川御三家でありながら水戸光圀以来勤皇思想(間違えないでください。「尊王」思想ではありません。その違いに気が付いていない歴史家が大半を占めているため、明治維新の原動力を「尊王攘夷」という4字熟語でくくってしまい、その結果歪んだ歴史認識を近代歴史の専門家も抱いてしまっているからです。その典型的な例を示します。以下に引用する文章は山川出版社が発行した「Story日本の歴史・近現代史編」の本文の冒頭です)。
1858年(安政5)年6月、日米修好通商条約が締結された。「遺勅」調印(天皇の勅許を得ずに通商条約に調印したこと)と、開港による経済的混乱はそれまで別々であった尊王論と攘夷論を一体化し、反幕的意識が下級武士を中心に生み出された。安政の大獄に憤激した志士が大老井伊直弼を暗殺した1860(安政7)年3月3日の桜田門外の変は尊王攘夷運動の本格的幕開けとなった。
この本の著者名は「日本史教育研究会」とされ、24人の主に私立高校の日本史教師によって書かれています。さらに山川出版社といえば歴史書(教科書を含む)の最高権威とされている出版社です。
さて桜田門外の変の実態は勤皇派の水戸藩の浪士たち(彼らは類が水戸藩に及ぶことを恐れ脱藩した志士です)が中心になって行った暗殺事件でした。ひとりだけ薩摩藩士も加わりましたが、この攘夷運動がきっかけになり反幕勢力が各藩に生まれていきます。中でも突出したのが長州藩でした。毛利藩(のちの長州藩)は関ヶ原の戦いで戦争には参加しなかったけれども西軍の総大将でした(毛利藩は大阪城にたてこもっていました)。そのため領地の大半を削られ、以来徳川幕府に対する遺恨の念を遺伝子的に受け継いできた藩です。
その長州藩にとって、この幕末の混乱は徳川幕府を倒す絶好のチャンスが来たと考えたのは当然でした。もう政権担当能力を失いつつあった徳川幕府を倒すための大義名分として長州藩が担ぎあげたのが名目上(当時)の最高権威だった朝廷でした。長州藩が歴史的事実として勤皇主義(これは水戸藩に代表されるように政権交代は目的にしていません)であったことも、尊王主義(これは政権を朝廷に返還するという政権交代を目的とした思想です)であったこともありません。
当時大大名は自分の藩に城を構えていただけでなく、江戸と京都に藩邸を持っていました。江戸の藩邸は参勤交代のため、京都の藩邸は朝廷がある京都の安寧を守るためでした。このことが長州藩にとって幕末の混乱期に乗じることができた最大の要因でした。そして長州藩は燎原之火のごとく広がっていった攘夷運動を巧みに利用し、攘夷派の公家たちを味方につけ朝廷内に大きな影響力を形成していったのです。それを苦々しく見ていたのが、のちに連合する薩摩藩でした。
この時期日本は政治的に大混乱しています。長州藩の工作が成功し62年9月には朝廷が攘夷を決定し、これを受けて諸外国と通商条約を結んで鎖国体制を解除したはずの徳川幕府も翌63年5月10日に攘夷の決行を決断しました。また長州藩も一応攘夷派であることを「証明」するため同じ5月に下関で米・仏・蘭艦船を砲撃しています。しかしただ攘夷の姿勢を見せるためだけの砲撃でしたから外国艦船には何の損傷も与えていません。このしっぺ返しは当然あり、64年8月には英・仏・米・蘭の4国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩はすぐ謝っています。
実はその間に京都で大きな政変が起きています。朝廷を牛耳っていた長州藩を苦々しく見ていた薩摩藩が京都守護を命じられていた会津藩に働きかけ長州藩の朝廷内での振る舞いに反発していた公家らを抱き込み、63年8月18日に突然行動を起こして長州藩士を京都から追放してしまいました。このとき攘夷派の公家7人も京都を追われ(「七卿落ち」)、長州藩は京都での足場を完全に失いました。さらに再びひそかに京都に潜入した長州藩士が64年6月5日、新撰組に襲われ多くの藩士が命を落としました(「池田屋事件」)。
これで長州藩は一気に硬化、再び京都を制するべく進軍し、7月19日、薩摩藩や会津藩と戦い、散々な敗北を喫します。いわゆる「蛤御門の変」(あるいは「禁門の変」)と呼ばれている事件です。その直後徳川幕府は第1次長州征伐を行い、長州藩は「ごめんなさい」をして許されています。
長州藩と2度にわたって戦った薩摩藩はもともと尊王派でも佐幕派でもなく、いわば中立的立場をとっていました(公武合体論が主流になった時期もあります)。まして攘夷派でもなく、攘夷派藩士の有馬新七らを「上意」により殺害しています(62年4月の寺田屋事件)。また同年8月21日には薩摩藩の大名行列を乗馬して横切ったイギリス人3人を薩摩藩士が殺傷するという事件を起こし(生麦事件)、翌63年7月にはイギリス艦隊から報復攻撃を受けました(薩英戦争)。この敗戦で薩摩藩の実権を西郷隆盛や大久保利通らの改革派が握り、イギリスとの友好関係を結んで若手藩士をイギリスに派遣してイギリスの近代軍事技術を学ばせると同時に近代兵器を輸入し、日本最大の軍事大藩になったのです。
その薩摩藩と長州藩の間を取り持ったのが坂本龍馬であったことはよく知られています。ただ坂本龍馬を英雄にしてしまった司馬遼太郎は歴史小説家としては絶対にやってはいけない事実の歪めを行っています。彼の小説『竜馬が行く』は龍馬という実名を「竜馬」と書きかえることでフィクションであると言いたいのでしょうが、そうすることで事実を歪めることが許されると考えていたのだとしたら読者に対する裏切り行為です。ここで明らかにしておく明確な事実は、坂本が薩摩藩と長州藩を取り持ったのは彼自身のビジネスのためだったということです。坂本は日本で最初に(疑似)株式会社を創設した人物であることは事実ですが、彼が作った亀山社中(のち海援隊)の第1の社是は「手段を選ばず利益を求めよ」でした。要するに豊作だった長州の米を薩摩に売り、その代償として長州は薩摩の近代兵器と軍事技術を買う、その仲立ちをすることで商社として利益を上げることが坂本の本当の狙いだったのです。
しかし、坂本龍馬の目的は別として結局薩摩藩に対する恨みを抱き、なかなか「ウン」と言わなかった長州藩の桂小五郎が薩摩藩の西郷隆盛と通商関係を結ぶことにしたのは、薩摩藩の持つ近代兵器と軍事技術がなければ長州藩の軍事力を高めることができないという厳然たる事実を認めざるを得なかったからです。
こうして薩摩藩から近代兵器と軍事技術を導入した長州藩は再び徳川幕府に対して反旗を翻します。幕府は諸藩に命じ第2次長州征伐を行いましたが、薩摩藩は幕府の命に従わず中立を守りました。もし幕府側が優勢な戦局になっていたら薩摩藩はどういう行動に出ていたでしょうか。赤子でもわかる話ですね。
それはともかく近代武装化し、さらに高杉晋作が事実上封建制度の根幹をなしていた士農工商の身分差別を排して奇兵隊や力士隊など、武士以外の戦力を作り上げ、幕府軍をコテンパンにやっつけたことで、事実上明治維新が成功することが決まったのです。
ここまで検証してきたことで、明治維新を実現した革命エネルギーが「尊王攘夷」という4字熟語でくくられるようなものではなかったということがお分かりいただけたと思います。
私は2月9日に投稿したブログ「論理的思考力について私のブログ読者に挑戦します③」の中でこう書きました。覚えていらっしゃるでしょうか。
「その方法とは、世の中のあらゆる仕組みや事象について、常に幼児のごとき素直さで(つまり一切の価値観や宗教観、あるいは常識とされていることなど)疑問を持つことである」と。
歴史研究家でもなければとくに歴史に詳しいわけでもない私が明治維新を実現した革命エネルギーについてこれだけの検証ができたのは幼児のごとき素直さで、たった一つの事実について疑問を持ったからです。
その疑問とは「尊王攘夷」と4字熟語でくくられてきた革命エネルギーの「攘夷」思想が、明治維新が実現した途端、なぜ煙のように消えてしまったのか、という疑問です。この疑問を持てば、あとは山川出版社の『日本史少年表』で事実を確認していくだけで明治政府がどういう性格の政府にならざるを得なかったのかが論理的結論として誰にでも理解できます。でも一応続けます。
長州軍の圧倒的勝利で薩摩藩は薩長連合を公然化し、薩長を中心とする「官軍」(すでに朝廷は薩長を始め諸藩に「王政復古の大号令」を67年12月9日に発令していました)が68年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と戦火を交え、完膚なきまでに幕府軍を破りました。その
後官軍は何らの抵抗も受けず江戸城に向けて進軍を開始し、江戸城総攻撃の前夜、幕臣の勝海舟が西郷隆盛を指名して会談し、無血開城を決定しました。ここでもちょっとした疑問を持っていただきたいのですが、勝はなぜ西郷を指名したのだろうか、という疑問です。
勝は、これは私の論理的推測ですが、もし官軍が江戸城総攻撃に出たら、旗本を中心に徳川家への忠誠心に凝り固まって江戸城に立てこもっている幕府軍は死に物狂いの反撃に出る。そうなると日本中が戦火の海になり、日本侵略の機会を虎視眈々と狙っている欧米列強によって日本が分割支配されかねない。それだけは何としても防ぎたい。しかし徳川家への忠誠心に凝り固まって籠城している旗本たちに無血開城を納得させるには徳川家の存続とある程度の経済的基盤を保証してもらうことを条件にしなければ彼らを「ウン」と言わせることができない。この条件を呑んでくれる相手は、徳川憎しの怨念に凝り固まっている長州の桂小五郎では無理だ。官軍の総攻撃によって日本中が火だるまになった時の危機感を共有できるのは西郷しかいない。そう勝は考えたに違いない。
一方西郷のほうは勝の提案をのんだ場合、自分の命が長州藩士に狙われるだろうと思ったに違いない。が、あとから分かることだが、西郷は「命もいらぬ、名誉もいらぬ、金もいらぬ」という生きざまを貫いた人物だった。勝の提案に一言の注文もつけずに「分かった。総攻撃は中止する」と言ったに違いない。勝が抱いた危機感を西郷も抱いたからであろう。
いずれにせよこうした状況の中で明治維新が実現し、明治政府は欧米列強が植民地拡大競争をますます激化させている状況の中で近代化への道を歩まざるを得なくなりました。明治政府にとって、まず取り組まなければならない最大の課題は徳川幕府が欧米列強の圧倒的軍事力に屈服して結ばされた不平等条約の解消でした。国家戦略として「富国強兵・殖産興業」を掲げたのもそのためです。
そしてこの国家戦略の一つ「富国強兵」がその後日本が軍国主義国家への道しるべになったのも当然の論理的結論でした。まず日本が侵略戦争への道に踏み出そうとしたのは早くも73年(明治6年)です。日本が近代化への道を歩みだした時期、隣国の朝鮮は「鎖国攘夷」を国是にしていました。70年ごろから明治政府は朝鮮に開国を求めてきましたが、朝鮮は話し合いにも応じず73年にはかえって排日運動が激化しだしたのです。それに呼応するように日本で征韓論が巻き起こり、その中心人物だった西郷隆盛や板垣退助は政争に敗れて下野しています。
歴史的には朝鮮は現中国の事実上支配下にありました。天下を統一した豊臣秀吉が朝鮮征伐に乗り出し失敗したのも朝鮮を中国が守ったからです。日本にとって朝鮮を支配下に置くためには中国と戦って勝つことが絶対的条件だったのです。
それでは日本がどういうきっかけで中国(当時は清国)と戦争するチャンスをつかんだのかを検証します。94年、朝鮮で官吏の腐敗と農民への重税に反発した農民が一斉に蜂起し農民軍は首都ハンソンに迫る事態が生じました。農民軍の鎮圧に窮した政府は清に応援を要請したのです。明治政府は農民軍に正義があると考え(そういう考え方自体が清に対して戦争を仕掛ける口実なのです)、軍隊を朝鮮に派遣し、清軍と戦って破りました。そして朝鮮を日本の支配下に置くため清軍が撤退した後朝鮮王宮を占拠し、朝鮮と中国との従来からの従属関係を断ち切らせました。その後も日本は清との戦争を継続し(これからがいわゆる「日清戦争」です)、圧倒的な軍事力で清国に勝ちます。この勝利で日本は欧米列強から仲間入りを認められ、徳川幕府が欧米列強と結んだ不平等条約は解消されます。
それで明治政府が欧米列強との不平等条約の解消のため始めた「富国強兵」の国家戦略の目的は実現できたのです(もう一つの国家戦略である「殖産興業」は政官財癒着の鉄のトライアングルの形成につながっていくのですが、この問題はまた別の機会に書きます)。
しかし欧米列強と一応肩を並べた日本はアジアへの侵略を国家戦略にします。その場合、日本のアジア支配にとって最も脅威だったのは満州を勢力下におさめ、さらに南下政策を進めようとしていたロシアでした。一方アヘン戦争で清に勝ち中国に大きな権益を持っていたイギリスは、やはりロシアの南下政策を脅威に感じていました。こうして対ロシアの利害関係が一致したことにより1902年1月30日、日英同盟が成立しました。
その結果日本はイギリスの後ろ盾を得て日本はロシアに宣戦布告しました。しかし戦争を仕掛けるには侵略戦争が当たり前だった当時でも一応大義名分が必要です。実は日清戦争で勝利した日本は清から遼東半島を割譲されていました。しかしロシア・フランス・ドイツの3国干渉により遼東半島は清に返還しました。その遼東半島の旅順にロシア軍が要塞を築き朝鮮半島へのにらみを利かせだしました。ロシアが旅順に要塞を築いたことは国際法に違反したとして日本はロシアに宣戦布告したのです。
私はこの日露戦争で日本が負けていれば、中国や朝鮮での権益を失っていたでしょうが、軍国主義への更なる傾斜は止まっていただろうと考えています。実際旅順攻撃の責任者だった乃木希助大将は日本軍兵士の莫大な損失を被っています。イギリスが、当時世界最強とされていたロシアのバルチック艦隊をイギリスの制海権領域を通過させないという協力をしてくれたため、日本海軍が万全の準備を整えることができ、世界の海戦史上の奇跡とまで言われる大勝利を収めることができ、乃木将軍も英雄の仲間入りを果たしてしまったのです。
その後は日本の世論が日本の更なる軍国主義への傾斜をあおって行きました。そもそもロシアに勝ちながら得たものが戦果としては不十分だと政府を責める世論が圧倒的だったのです。もちろんそういう世論の形成にあずかったマスコミの責任は小さくありません。マスコミは日本が初めて負けた「あの戦争」についてだけ一生懸命検証し、あるいは「誤った報道をして読者を裏切った」(朝日新聞・船橋洋一主筆)などとしおらしい「反省」をしていますが、もし朝日新聞が読者を裏切らず、戦争の真実を伝えていたら、政府や軍からの弾圧を受ける前に読者から見離され朝日新聞社は間違いなく倒産していました。
日米戦争を意味する、いわゆる「太平洋戦争」も、アメリカが日本につきつけたハル・ノートが、日本がアメリカに宣戦布告せざるを得ないことを目的にしたものであることはいまでは明らかです。当時日本陸軍の前線はアジア全域に伸び切っており、到底アメリカと戦える状態にないことを百も承知で、日本が絶対呑めない条件を突きつけ、日本から戦争を仕掛けざるを得ない状況に追い込むことがハル・ノートの目的でした。ただアメリカにとっての誤算だったのは日本海軍の軍事力を軽視していたことでした。そのため日本海軍の暗号電文を解読していながら、パールハーバーに集積していたアメリカ艦隊に警戒態勢を取らせなかったことです。その自分たちの怠慢を不問にして日本の野村・来栖アメリカ大使の怠慢で宣戦布告がパールハーバー攻撃に遅れたことで日本を卑怯な国と極め付け、いまだに年配のアメリカ人が「リメンバー・パールハーバー」という反日感情を抱いている状況の改善の努力をしていないことは極めて遺憾としか申し上げるしかないと思っています。
さらに広島・長崎に原爆を投下し、なんの戦争責任もない数十万人を虐殺した行為について、「1日も早く戦争を終わらせるため。アメリカ軍兵士の損傷を最小限にするため」などという口実でいまだに正当化していることにも私は許しがたい怒りを抱いています。
またやはり戦争を早期に終結させるためという口実でソ連に対日参戦を要請し、日本軍兵士の多くが極寒のシベリアに抑留され、さらに国際的に日本の領土と認められている北方4島をいまだに占領されている原因を作ったことについても、アメリカはいまだに日本に謝罪していません。
戦後の日本が世界一平和な国として過ごしてこられたのはアメリカの核の傘で守られてきたという紛れもない事実として私はアメリカに感謝していますが、「あの戦争」で犯したアメリカの過ちについて、未だにアメリカが正当化していることに対し、歴代総理がアメリカに謝罪を要求したことがないことを極めて遺憾に思っています。
貴重なお時間をいただいての返信ありがとうごさいました。
御高説には確かにと思える箇所がいくつもありました。
無理なお願いに応えていただいて本当にありがとうごさいました