今日オバマ大統領が来日する。今夜は銀座の「次郎」で寿司をつまみながら、安倍総理はオバマ大統領との会談に臨むつもりのようだ。が、首相官邸の応接室のような場所ではなく、カウンターの席に隣り合って座り寿司をつまむくらいでは、日米間に横たわっている諸問題を解決するため腹を割って話し合うつもりは、安倍総理もないようだ。ま、腹の探り合い、で終始するだろう。
当然、「次郎」にはメディア関係者は入れない。裁判と同じで、二人が握手しながら席に座るところまでを、おそらくNHKのカメラマンがメディアを代表して撮影し、そのあとは密室になる。
朝日新聞の記者だけではないと思うが、メディアの政治記者は政治家にぶら下がって情報を得ることだけが仕事だと思っているようだ。政治家、とくに政治部の記者がぶら下がるような大物政治家の発言は、鵜呑みにしてはいけないということぐらいわきまえておいてほしい。
大物政治家がうそつきだと言いたいのではない。スキャンダルが生じた場合は「秘書が」「家内が」と責任逃れの答えしか返さないが、政局とか外交などについての発言は、その発言がどういう影響を発揮するかを考えて喋っている。その場合、政治家の頭のなかは国益・党益・自身の選挙などが大半を占めている。だから、発言をうのみにするのではなく、「この問題で、なぜ政治家はこういう発言をしたのか」と考える習慣を身に付けておかなければならない。そういう訓練が、メディアは記者教育の基本にしなければいけない。
まず政治記者は、パワー・ポリティクスという言葉を理解しておく必要がある。この言葉を知らなかったら、それだけで政治記者として失格である。この言葉は、ウィキペディアによればイギリスの国際政治学者マーティン・ワイトの著書『パワー・ポリティクス』(第1版1978年)が初出とされている。そんなに古い話ではない。しかし、私はまだ学生だった1960年代にはこの言葉をすでに知っていたから、もっと古くから一般用語として認識されていたのではないかと思う。
私のおぼろげな記憶では、パワー・ポリティクスという言葉は使わなかったかもしれないが、1920年代後半に草稿を書いたとされているプロイセンの将軍で陸軍大学校校長を務めたカール・フォン・クラウゼヴィッツが現した『戦争論』(未完成の原稿をクラウゼビッツの妻のマリーが編集した)に、すでにパワー・ポリティクスの理解が込められていたと思う。クラウゼビッツはこの有名な著書で、これまた有名になった戦争についての定義を書いた。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というのがその定義である。
私はこの有名な定義をこう書き換えたい。
「戦争とは、外交手段による国際間の問題(紛争)解決が行き詰まった時、武力によって問題を解決しようとする政治の形態である」と。
そこで外交的に大きな力を発揮するのがパワー・ポリティクスなのである。
ウィキペディアによれば、マーティン・ワイトはパワー・ポリティクスについてこう解説している。
「主権国家同士が軍事・経済・政治的手段を用いて互いに牽制しあうことで自らの利益を保持しようとする国際関係の状態を指す。諸国家は世界の資源を巡って争い、他国や国際社会全体の利益よりも自国の利益を優先する。その手段は、核兵器の開発・保有、先制攻撃、恫喝外交、国境地帯への軍隊の配備、関税障壁や経済制裁など多岐にわたる」
この解説からも明らかなように、パワー・ポリティクスは人類の歴史始まっ
て以来の紛争(国際間だけとは限らない)を有利に解決するための手段として強者がとってきた政治手法なのである。そのことについての基本的理解がないと、オバマ大統領・プーチン大統領・習近平国家主席・朴大統領、そして日本の安倍総理の行動や発言がどういう意味を持って行われているのかが理解できない。
なぜ世界でアメリカの発言力が最も大きいのか。アメリカが常に正論を主張しているからではない。アメリカの軍事力が他を圧倒しているからなのだ。それが現在のパワー・ポリティクスの現実だ。
朝日新聞の記者はこう書いている。
「日本の歴代政権は基本的に米国の方針に従うことを日本の『外交方針』としてきたが、安倍政権では『果たして米国にだけに頼っていて、日本は生きていけるのか』という疑問が政府高官らに広がりつつある」
この記事を書いた記者は歴代日本政府の対米姿勢の上面だけしか見ていないから、日本が外交方針を変えようとしているかに見えてしまう。安倍総理が目指しているのはアメリカ離れではなく、むしろ「日本もアメリカから頼られる存在になる」ことが日本の安全保障をより強固なものにでき、それが日本の国益だと考えていることへの理解が及ばない。
今までの日本政府は一方的にアメリカに追随していれば、アメリカがいざというときには日本を守ってくれると考えてきた。「パワー・ポリティクスはそんな義理人情の世界ではない」ということを理解したのが安倍総理なのだ。日米間のきしみはそこから生じだしたと言ってよい。
安倍総理がそのことに気づいたのは靖国参拝に対する米政府の反応だった。これまでも中曽根氏や小泉氏など在任中に靖国参拝をしてきた総理は何人もいる。が、これまでの日本の総理の靖国参拝に対して米国政府が「失望した」などと「同盟国」のリーダーに対して非礼な言葉を発したことは一度もなかった。そもそも「同盟国」のリーダーの行動に対して政府高官が「失望した」などという言葉を発すること自体が異例中の異例であり、非礼極まる行為だということにすら気づかない感覚は、政治記者として「鈍感」のレベルを超えている。
しかも安倍総理は、第1次内閣発足時から憲法解釈変更によって「集団的自衛権の行使容認」を念願にしてきた。このとき安倍総理の頭の中にあったのは「固有の権利として集団的自衛権はあるが、憲法9条の制約によって行使できない、という奇妙な憲法解釈を理由に日本が米韓防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」というものだった。
実際石油ショックを神風に変えて技術立国への道を確立した日本がアメリカ産業界にとって脅威になってきたとき、アメリカ国内で猛烈な「ジャパン・バッシング」が吹き荒れた時期がある。それまでは日本製品がアメリカ中に氾濫するようになっても「しょせん物まね」と高をくくっていたアメリカが、自分たちが石油ショックを克服するための技術開発に注力しなかった自己責任を棚に上げて、日本に対する「安保タダ乗り」論が一気に噴き出したのである。「日本はアメリカのために血を流そうとしないのに、アメリカを経済分野で苦境に追い込んでいる日本のために、なぜアメリカが血を流さなければならないのか」というアメリカ人の反日感情の爆発が「安保タダ乗り」論である。
アメリカが日本、とくに沖縄に軍事基地を重点的に配備してきたのは「日本防衛」を口実にしつつ、実際はアメリカのパワー・ポリティクス政策のためである。が、日本もまた日米安保条約を防壁にして経済力の強化に注力してきたのも事実である。これはアメリカのパワー・ポリティクスを逆手にとった手法といわれても仕方がない政策だった。そういう意味では、「アメリカ人が日本のために血を流してくれるのなら、日本人もアメリカのために血を流す覚悟がある」という姿勢をアメリカに示すことによって米国の対日感情を好転させたいと願う安倍総理の姿勢には私も共感を覚える。
だが、そのためには現行憲法が占領下において制定され、日本が独立を回復したのちも、当時の吉田内閣が経済復興を最優先するために主権国家としての尊厳も責任も放棄したまま憲法を改正せずに放置してきたことについて、安倍総理は正直に国民に謝り、主権国家としての権利、義務、責任はどうあるべきかを国民とともに考え、そのうえで今日の日本が国際社会に占める地位にふさわしい貢献、なかんずく環太平洋の平和と安全に対して日本が負うべき責任や義務について国民の意思を問う姿勢が必要なのだ。
私は湾岸戦争で、日本が国際平和のために何の貢献もできなかっただけでなく、犯罪集団ではなくフセイン政権という国家権力によって日本の民間人141人が人質として拘束されたとき、当時の海部内閣が日本人の命を守るために何もしなかったことを、外国人はどう見ていたか。クウェートがイラクの占領から解放されたとき、世界の主要紙に感謝広告を掲載した中で日本はクウェートが感謝した国から外された。「カネしか出さず、軍事的支援をしなかったから」と知ったかぶりの記事を書いたジャーナリストは多かったが、私は「自国の国民の安全すら守ろうとしなかった日本」を侮蔑することがクウェートの意図だったと思っている。
私がこのとき書いた『日本が危ない』(コスモの本)のまえがきで、平和ボケした日本政府についてこう書いた。
私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
海部内閣が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなか
ったに違いない。
もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
私はこれまで安倍総理の「集団的自衛権行使容認」のための方策をことごとく批判してきた。そもそも、集団的自衛権についての従来の政府解釈(国会答弁での)そのものが間違っており、間違った解釈を正さずに憲法解釈の変更で「集団的自衛権」なるものを行使できるようにするといった姑息な方法をとるべきではない、というのが私の基本的スタンスである。
集団的自衛権は国連憲章51条に明確に規定されており、日本はいつでも行使できる権利である。いや、日本だけでなく、すべての国連加盟国は他国から攻撃された場合、いつでも行使できることを定めたのがこの規定だ。
日本語を知っている人なら、だれでもすぐ分かりそうなものだが、「自衛」とは「自己防衛」のことである。他国を防衛することではない。『広辞林』も自衛の意味について「自分を防衛すること」と簡単に説明しているだけだ。それ以外の解釈はありえない。問題はこの「自己防衛」の範囲をどこまで認めるかである。国際間の紛争ではなく、個人間の争いで考えると分かりやすい。(続く)
当然、「次郎」にはメディア関係者は入れない。裁判と同じで、二人が握手しながら席に座るところまでを、おそらくNHKのカメラマンがメディアを代表して撮影し、そのあとは密室になる。
朝日新聞の記者だけではないと思うが、メディアの政治記者は政治家にぶら下がって情報を得ることだけが仕事だと思っているようだ。政治家、とくに政治部の記者がぶら下がるような大物政治家の発言は、鵜呑みにしてはいけないということぐらいわきまえておいてほしい。
大物政治家がうそつきだと言いたいのではない。スキャンダルが生じた場合は「秘書が」「家内が」と責任逃れの答えしか返さないが、政局とか外交などについての発言は、その発言がどういう影響を発揮するかを考えて喋っている。その場合、政治家の頭のなかは国益・党益・自身の選挙などが大半を占めている。だから、発言をうのみにするのではなく、「この問題で、なぜ政治家はこういう発言をしたのか」と考える習慣を身に付けておかなければならない。そういう訓練が、メディアは記者教育の基本にしなければいけない。
まず政治記者は、パワー・ポリティクスという言葉を理解しておく必要がある。この言葉を知らなかったら、それだけで政治記者として失格である。この言葉は、ウィキペディアによればイギリスの国際政治学者マーティン・ワイトの著書『パワー・ポリティクス』(第1版1978年)が初出とされている。そんなに古い話ではない。しかし、私はまだ学生だった1960年代にはこの言葉をすでに知っていたから、もっと古くから一般用語として認識されていたのではないかと思う。
私のおぼろげな記憶では、パワー・ポリティクスという言葉は使わなかったかもしれないが、1920年代後半に草稿を書いたとされているプロイセンの将軍で陸軍大学校校長を務めたカール・フォン・クラウゼヴィッツが現した『戦争論』(未完成の原稿をクラウゼビッツの妻のマリーが編集した)に、すでにパワー・ポリティクスの理解が込められていたと思う。クラウゼビッツはこの有名な著書で、これまた有名になった戦争についての定義を書いた。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というのがその定義である。
私はこの有名な定義をこう書き換えたい。
「戦争とは、外交手段による国際間の問題(紛争)解決が行き詰まった時、武力によって問題を解決しようとする政治の形態である」と。
そこで外交的に大きな力を発揮するのがパワー・ポリティクスなのである。
ウィキペディアによれば、マーティン・ワイトはパワー・ポリティクスについてこう解説している。
「主権国家同士が軍事・経済・政治的手段を用いて互いに牽制しあうことで自らの利益を保持しようとする国際関係の状態を指す。諸国家は世界の資源を巡って争い、他国や国際社会全体の利益よりも自国の利益を優先する。その手段は、核兵器の開発・保有、先制攻撃、恫喝外交、国境地帯への軍隊の配備、関税障壁や経済制裁など多岐にわたる」
この解説からも明らかなように、パワー・ポリティクスは人類の歴史始まっ
て以来の紛争(国際間だけとは限らない)を有利に解決するための手段として強者がとってきた政治手法なのである。そのことについての基本的理解がないと、オバマ大統領・プーチン大統領・習近平国家主席・朴大統領、そして日本の安倍総理の行動や発言がどういう意味を持って行われているのかが理解できない。
なぜ世界でアメリカの発言力が最も大きいのか。アメリカが常に正論を主張しているからではない。アメリカの軍事力が他を圧倒しているからなのだ。それが現在のパワー・ポリティクスの現実だ。
朝日新聞の記者はこう書いている。
「日本の歴代政権は基本的に米国の方針に従うことを日本の『外交方針』としてきたが、安倍政権では『果たして米国にだけに頼っていて、日本は生きていけるのか』という疑問が政府高官らに広がりつつある」
この記事を書いた記者は歴代日本政府の対米姿勢の上面だけしか見ていないから、日本が外交方針を変えようとしているかに見えてしまう。安倍総理が目指しているのはアメリカ離れではなく、むしろ「日本もアメリカから頼られる存在になる」ことが日本の安全保障をより強固なものにでき、それが日本の国益だと考えていることへの理解が及ばない。
今までの日本政府は一方的にアメリカに追随していれば、アメリカがいざというときには日本を守ってくれると考えてきた。「パワー・ポリティクスはそんな義理人情の世界ではない」ということを理解したのが安倍総理なのだ。日米間のきしみはそこから生じだしたと言ってよい。
安倍総理がそのことに気づいたのは靖国参拝に対する米政府の反応だった。これまでも中曽根氏や小泉氏など在任中に靖国参拝をしてきた総理は何人もいる。が、これまでの日本の総理の靖国参拝に対して米国政府が「失望した」などと「同盟国」のリーダーに対して非礼な言葉を発したことは一度もなかった。そもそも「同盟国」のリーダーの行動に対して政府高官が「失望した」などという言葉を発すること自体が異例中の異例であり、非礼極まる行為だということにすら気づかない感覚は、政治記者として「鈍感」のレベルを超えている。
しかも安倍総理は、第1次内閣発足時から憲法解釈変更によって「集団的自衛権の行使容認」を念願にしてきた。このとき安倍総理の頭の中にあったのは「固有の権利として集団的自衛権はあるが、憲法9条の制約によって行使できない、という奇妙な憲法解釈を理由に日本が米韓防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」というものだった。
実際石油ショックを神風に変えて技術立国への道を確立した日本がアメリカ産業界にとって脅威になってきたとき、アメリカ国内で猛烈な「ジャパン・バッシング」が吹き荒れた時期がある。それまでは日本製品がアメリカ中に氾濫するようになっても「しょせん物まね」と高をくくっていたアメリカが、自分たちが石油ショックを克服するための技術開発に注力しなかった自己責任を棚に上げて、日本に対する「安保タダ乗り」論が一気に噴き出したのである。「日本はアメリカのために血を流そうとしないのに、アメリカを経済分野で苦境に追い込んでいる日本のために、なぜアメリカが血を流さなければならないのか」というアメリカ人の反日感情の爆発が「安保タダ乗り」論である。
アメリカが日本、とくに沖縄に軍事基地を重点的に配備してきたのは「日本防衛」を口実にしつつ、実際はアメリカのパワー・ポリティクス政策のためである。が、日本もまた日米安保条約を防壁にして経済力の強化に注力してきたのも事実である。これはアメリカのパワー・ポリティクスを逆手にとった手法といわれても仕方がない政策だった。そういう意味では、「アメリカ人が日本のために血を流してくれるのなら、日本人もアメリカのために血を流す覚悟がある」という姿勢をアメリカに示すことによって米国の対日感情を好転させたいと願う安倍総理の姿勢には私も共感を覚える。
だが、そのためには現行憲法が占領下において制定され、日本が独立を回復したのちも、当時の吉田内閣が経済復興を最優先するために主権国家としての尊厳も責任も放棄したまま憲法を改正せずに放置してきたことについて、安倍総理は正直に国民に謝り、主権国家としての権利、義務、責任はどうあるべきかを国民とともに考え、そのうえで今日の日本が国際社会に占める地位にふさわしい貢献、なかんずく環太平洋の平和と安全に対して日本が負うべき責任や義務について国民の意思を問う姿勢が必要なのだ。
私は湾岸戦争で、日本が国際平和のために何の貢献もできなかっただけでなく、犯罪集団ではなくフセイン政権という国家権力によって日本の民間人141人が人質として拘束されたとき、当時の海部内閣が日本人の命を守るために何もしなかったことを、外国人はどう見ていたか。クウェートがイラクの占領から解放されたとき、世界の主要紙に感謝広告を掲載した中で日本はクウェートが感謝した国から外された。「カネしか出さず、軍事的支援をしなかったから」と知ったかぶりの記事を書いたジャーナリストは多かったが、私は「自国の国民の安全すら守ろうとしなかった日本」を侮蔑することがクウェートの意図だったと思っている。
私がこのとき書いた『日本が危ない』(コスモの本)のまえがきで、平和ボケした日本政府についてこう書いた。
私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
海部内閣が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなか
ったに違いない。
もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
私はこれまで安倍総理の「集団的自衛権行使容認」のための方策をことごとく批判してきた。そもそも、集団的自衛権についての従来の政府解釈(国会答弁での)そのものが間違っており、間違った解釈を正さずに憲法解釈の変更で「集団的自衛権」なるものを行使できるようにするといった姑息な方法をとるべきではない、というのが私の基本的スタンスである。
集団的自衛権は国連憲章51条に明確に規定されており、日本はいつでも行使できる権利である。いや、日本だけでなく、すべての国連加盟国は他国から攻撃された場合、いつでも行使できることを定めたのがこの規定だ。
日本語を知っている人なら、だれでもすぐ分かりそうなものだが、「自衛」とは「自己防衛」のことである。他国を防衛することではない。『広辞林』も自衛の意味について「自分を防衛すること」と簡単に説明しているだけだ。それ以外の解釈はありえない。問題はこの「自己防衛」の範囲をどこまで認めるかである。国際間の紛争ではなく、個人間の争いで考えると分かりやすい。(続く)
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