先の総選挙で安倍総理は解散の大義について、当初は2年も先の消費税増税分の使途について「国の借金返済を先延ばしにして、幼児を含む若年層の社会保障の充実に充てる」ことで国民の信を問うつもりだった。
解散の大義とは、選挙の争点を意味する。が、野党はこの「争点」に乗らず、メディアも「大義なき解散」と批判した。結局、安倍総理は「国難突破解散」と位置づけ、「国難とは少子化と北朝鮮対策」とした。のちに安倍総理は少子化を「少子高齢化」と変更したが、少子化はともかくとして、高齢化が国難とはどういう意味か。安倍総理の口からも政府の要職にある政治家の口からも一向に「高齢化対策」が明らかにされていない。高齢者に偏っていた社会福祉政策を全世代型にするということなので、年金だけが頼りの高齢者の医療負担割合を現役世代と同様3割に引き上げ、高額の医療費がかかる高度医療を高齢者には自主的に辞退してもらって、長寿化に歯止めをかけるということなのか。言っておくが、長寿化は平均寿命が延びていることを意味し、高齢化は平均年齢が上昇していることを意味する言葉だ。政治家もメディアもこの二つのカテゴリーをごっちゃにしている。
私は前にブログで「ゴルフができる高齢者は経済的にも恵まれている人たちだ。そういう人たちのゴルフ場利用税を無料にしている今の制度を改めて有料化するとともに、自助努力で健康を維持するためのジムやフィットネスクラブの利用者に一定の支援をしたらどうか」と提案したことがあるが、そうすれば結果的に高齢者の医療費も削減できると思う。
高齢者対策は置いておくとして、いま政府が取り組んでいる少子化対策は「幼児教育の無償化」のようだ。それにしては、政府が考えている「幼児教育の無償化」は本当に少子化対策になるのだろうか。
政府は当初、無償化の対象を認可保育園に通う幼児に限定する予定だった。が、保護者(幼児の父母)が猛反発。あわてて認可外の保育施設も原則、無償化の対象にすることにしたという。
保護者が反発したのは当然だ。「そもそも認可保育園に通えること自体、恵まれたケース。認可園に入れなくて困っている家庭が多いのに、恵まれている人たちをさらに手厚く支援するというのは考え方が逆立ちしているのではないか」というのが保護者たちの声だ。
そういう保護者の反発が出るような、恵まれた人たちをさらに優遇するようなことを考えること自体、政治家や官僚が考える政策に哲学がないからだ。
そもそも、何のために幼児教育の無償化を行うのか。少子化に歯止めを打つために、子供を産み、育てやすい環境を整備するのが目的だったのではないか。
政治の世界ではしばしば「目的」と「手段」がごちゃごちゃになる。たとえば2020年に開催される東京オリンピック。
いまでも都民だけでなく日本国民の多くは「なぜ今膨大な金を使って東京でオリンピックなのか?」という疑問を抱いている。1964年の東京オリンピックは戦後復興のシンボルとしての意味もあったし、新幹線や高速道路網など交通インフラ整備のきっかけにもなった。そうした大義名分が、今回の東京オリンピックには何もなかった。メディアの中には批判的な考えもあったようだが、声を大にして批判を口にすることははばかられた。そういう雰囲気に社会全体がなってしまったからだ。
オリンピックの東京開催が決まってから、妙な位置づけが行われた。「復興オリンピック」ということになったのだ。
その可笑しさをだれも指摘しない。「復興」とは言うまでもなく東北大震災による大災害の回復を指す。東北大震災が生じたのは2011年3月11日だ。
一方石原慎太郎都知事が東京オリンピックの招致を目指して都議会で招致活動を行うことを決定したのは2006年3月だ。まさか大震災の5年も前に、東北で大震災が生じることを予測してオリンピックの招致構想を立てたわけではあるまい。その矛盾が明らかになったのがボート競技会場問題。日本唯一の国際ボート競技場として公認されている宮城県の長沼ボート場が開催地として名乗りを上げた。が、「選手村が設置される東京から350kmも離れている」という理由で選ばれなかった。もし長沼ボート場が選ばれていれば、唯一の被災地での競技になったのにだ。
オリンピック村から遠い、という理由の可笑しさも指摘する人もいなかった。宮城県は被災者のための仮設住宅を選手村にするとしてモデルルームすら作っていた。が、JOCに言わせれば選手村は選手たちの国際交流の場であり、地方に選手村を作っても国際交流が出来ない」ということだ。が、オリンピック選手の国際交流は同じ競技仲間に限られている。選手同士の国際恋愛も競技が違えば成立しない。宮城県にボート選手だけの選手村を作っても、何の不都合も生じない。そういう指摘をメディアもしなかった。
要するに「復興オリンピック」と命名すれば、膨大な無駄遣いが問題化されることはないだろうという、それだけの理由しか考えられない。名前だけは「復興」だが、東京オリンピックを東北大震災の復興に結び付けるものは、少なくとも現在は何もない。
いったい、東京にオリンピックを招致する目的はなんだったのか。旗を振った石原氏は、招致目的については何も語っていないようだ。私は招致目的について考えられるあらゆるキーワードを駆使してネット検索したが、結局わからなかった。わかったのは「オリンピック招致ありき」という経緯だけだった。どなたかご存知の方があれば教えていただきたい。
本来、目的があって、その目的を達成するための手段が講じられる。が、しばしば本来の目的がどこかに置き去られて、いつの間にか手段が自己目的化することがある。
最初の目的を「第1目的」とすれば、第1目的を実現するための手段は「第1手段」となる。が、「手段の自己目的化」によって「第1手段」がいつの間にか「第2目的」にすり替えられる。そして「第2目的」を実現するための手段であるはずの「第2手段」が、また自己目的化して「第3目的」になる。このサイクルは際限なく続く。
幼児教育の無償化問題に戻す。国の謝金返済(財政再建)という2年後に予定されている消費税増税の「第1目的」を反故にしても、幼児教育の無償化を行うのはなぜか。安倍総理が解散の大義とした「少子化対策」であるならば、その目的を達成するための手段として「幼児教育の無償化」方法も考えるべきだろう。
だとすれば、そもそも保護者の反発を受ける前に、認可保育園に通園する幼児だけを無償化の対象にするという発想がなぜ出てくるのか。
そもそも「幼児教育無償化」がなぜ必要なのか、という「哲学」がないから、保護者の反発を受けて今度はばらまき政策に出ることにした。認可外保育園はもとより、企業が自前で設置した保育所やベビーシッターなども対象にするという。
無償化の範囲を拡大することに反対するわけではないが、どういうケースを優遇の対象にするかを考えるほうがもっと優先事項ではないか。たとえば保護者の所得によって優遇に差をつけるとか、第2子、第3子…と幼児が多い家庭の認可保育園への優先入園枠を設けるとか、「第1目的」を常に基本に据えていれば保護者の反発を受けるようなことはなかったはずだ。
今国会の文科委員会では加計学園問題で与野党が紛糾している。野党もしっかりしてもらいたいことは、本来の目的はなんだったのかという基本線を問うこと重視してもらいたいということだ。
加計学園問題はさまざまなことがごっちゃになっているため、何が本質なのかが国民に見えにくくなっている。野党側は安倍総理の「お友達優遇」をあぶりだしたいのだろうが、どの問題をどう追及していけば本丸を攻めることが出来るのかをよく考えてほしい。この問題は改めて来週のブログで書く。
解散の大義とは、選挙の争点を意味する。が、野党はこの「争点」に乗らず、メディアも「大義なき解散」と批判した。結局、安倍総理は「国難突破解散」と位置づけ、「国難とは少子化と北朝鮮対策」とした。のちに安倍総理は少子化を「少子高齢化」と変更したが、少子化はともかくとして、高齢化が国難とはどういう意味か。安倍総理の口からも政府の要職にある政治家の口からも一向に「高齢化対策」が明らかにされていない。高齢者に偏っていた社会福祉政策を全世代型にするということなので、年金だけが頼りの高齢者の医療負担割合を現役世代と同様3割に引き上げ、高額の医療費がかかる高度医療を高齢者には自主的に辞退してもらって、長寿化に歯止めをかけるということなのか。言っておくが、長寿化は平均寿命が延びていることを意味し、高齢化は平均年齢が上昇していることを意味する言葉だ。政治家もメディアもこの二つのカテゴリーをごっちゃにしている。
私は前にブログで「ゴルフができる高齢者は経済的にも恵まれている人たちだ。そういう人たちのゴルフ場利用税を無料にしている今の制度を改めて有料化するとともに、自助努力で健康を維持するためのジムやフィットネスクラブの利用者に一定の支援をしたらどうか」と提案したことがあるが、そうすれば結果的に高齢者の医療費も削減できると思う。
高齢者対策は置いておくとして、いま政府が取り組んでいる少子化対策は「幼児教育の無償化」のようだ。それにしては、政府が考えている「幼児教育の無償化」は本当に少子化対策になるのだろうか。
政府は当初、無償化の対象を認可保育園に通う幼児に限定する予定だった。が、保護者(幼児の父母)が猛反発。あわてて認可外の保育施設も原則、無償化の対象にすることにしたという。
保護者が反発したのは当然だ。「そもそも認可保育園に通えること自体、恵まれたケース。認可園に入れなくて困っている家庭が多いのに、恵まれている人たちをさらに手厚く支援するというのは考え方が逆立ちしているのではないか」というのが保護者たちの声だ。
そういう保護者の反発が出るような、恵まれた人たちをさらに優遇するようなことを考えること自体、政治家や官僚が考える政策に哲学がないからだ。
そもそも、何のために幼児教育の無償化を行うのか。少子化に歯止めを打つために、子供を産み、育てやすい環境を整備するのが目的だったのではないか。
政治の世界ではしばしば「目的」と「手段」がごちゃごちゃになる。たとえば2020年に開催される東京オリンピック。
いまでも都民だけでなく日本国民の多くは「なぜ今膨大な金を使って東京でオリンピックなのか?」という疑問を抱いている。1964年の東京オリンピックは戦後復興のシンボルとしての意味もあったし、新幹線や高速道路網など交通インフラ整備のきっかけにもなった。そうした大義名分が、今回の東京オリンピックには何もなかった。メディアの中には批判的な考えもあったようだが、声を大にして批判を口にすることははばかられた。そういう雰囲気に社会全体がなってしまったからだ。
オリンピックの東京開催が決まってから、妙な位置づけが行われた。「復興オリンピック」ということになったのだ。
その可笑しさをだれも指摘しない。「復興」とは言うまでもなく東北大震災による大災害の回復を指す。東北大震災が生じたのは2011年3月11日だ。
一方石原慎太郎都知事が東京オリンピックの招致を目指して都議会で招致活動を行うことを決定したのは2006年3月だ。まさか大震災の5年も前に、東北で大震災が生じることを予測してオリンピックの招致構想を立てたわけではあるまい。その矛盾が明らかになったのがボート競技会場問題。日本唯一の国際ボート競技場として公認されている宮城県の長沼ボート場が開催地として名乗りを上げた。が、「選手村が設置される東京から350kmも離れている」という理由で選ばれなかった。もし長沼ボート場が選ばれていれば、唯一の被災地での競技になったのにだ。
オリンピック村から遠い、という理由の可笑しさも指摘する人もいなかった。宮城県は被災者のための仮設住宅を選手村にするとしてモデルルームすら作っていた。が、JOCに言わせれば選手村は選手たちの国際交流の場であり、地方に選手村を作っても国際交流が出来ない」ということだ。が、オリンピック選手の国際交流は同じ競技仲間に限られている。選手同士の国際恋愛も競技が違えば成立しない。宮城県にボート選手だけの選手村を作っても、何の不都合も生じない。そういう指摘をメディアもしなかった。
要するに「復興オリンピック」と命名すれば、膨大な無駄遣いが問題化されることはないだろうという、それだけの理由しか考えられない。名前だけは「復興」だが、東京オリンピックを東北大震災の復興に結び付けるものは、少なくとも現在は何もない。
いったい、東京にオリンピックを招致する目的はなんだったのか。旗を振った石原氏は、招致目的については何も語っていないようだ。私は招致目的について考えられるあらゆるキーワードを駆使してネット検索したが、結局わからなかった。わかったのは「オリンピック招致ありき」という経緯だけだった。どなたかご存知の方があれば教えていただきたい。
本来、目的があって、その目的を達成するための手段が講じられる。が、しばしば本来の目的がどこかに置き去られて、いつの間にか手段が自己目的化することがある。
最初の目的を「第1目的」とすれば、第1目的を実現するための手段は「第1手段」となる。が、「手段の自己目的化」によって「第1手段」がいつの間にか「第2目的」にすり替えられる。そして「第2目的」を実現するための手段であるはずの「第2手段」が、また自己目的化して「第3目的」になる。このサイクルは際限なく続く。
幼児教育の無償化問題に戻す。国の謝金返済(財政再建)という2年後に予定されている消費税増税の「第1目的」を反故にしても、幼児教育の無償化を行うのはなぜか。安倍総理が解散の大義とした「少子化対策」であるならば、その目的を達成するための手段として「幼児教育の無償化」方法も考えるべきだろう。
だとすれば、そもそも保護者の反発を受ける前に、認可保育園に通園する幼児だけを無償化の対象にするという発想がなぜ出てくるのか。
そもそも「幼児教育無償化」がなぜ必要なのか、という「哲学」がないから、保護者の反発を受けて今度はばらまき政策に出ることにした。認可外保育園はもとより、企業が自前で設置した保育所やベビーシッターなども対象にするという。
無償化の範囲を拡大することに反対するわけではないが、どういうケースを優遇の対象にするかを考えるほうがもっと優先事項ではないか。たとえば保護者の所得によって優遇に差をつけるとか、第2子、第3子…と幼児が多い家庭の認可保育園への優先入園枠を設けるとか、「第1目的」を常に基本に据えていれば保護者の反発を受けるようなことはなかったはずだ。
今国会の文科委員会では加計学園問題で与野党が紛糾している。野党もしっかりしてもらいたいことは、本来の目的はなんだったのかという基本線を問うこと重視してもらいたいということだ。
加計学園問題はさまざまなことがごっちゃになっているため、何が本質なのかが国民に見えにくくなっている。野党側は安倍総理の「お友達優遇」をあぶりだしたいのだろうが、どの問題をどう追及していけば本丸を攻めることが出来るのかをよく考えてほしい。この問題は改めて来週のブログで書く。
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