小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

電通の新人女性社員の過労自殺を無駄死に終わらせないために。

2016-12-31 01:41:13 | Weblog
今年最後のブログを投稿する。
 12月24日の午後9時から放送のNHKスペシャルを見た。討論番組で、『私たちのこれから#長時間労働』というタイトルである。ご覧になった私のブログ読者も多いだろう。
 NHKのオフシャル・サイトでは、この番組の目的をこう書いている。

 大手広告会社・電通の新入社員だった女性が過労自殺した問題などをきっかけに、あらためて是正を求める声が高まる長時間労働。しかし長年指摘され続けながら解消されてこなかったことも事実だ。一体何が解決を阻んでいるのか? 国が10月に初めて公表した『過労死白書』では、先進国で最悪レベルにある正社員の長時間労働が変わっていない現状が示されたうえで、「残業が減らない理由」として「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要」が業種を超えて多く挙げられている。長時間労働に依存しながら利便性やスピードを求めてきた社会のあり方は? さらに長時間労働の是正は、人口減少時代での労働力確保や少子化対策という観点からも待ったなしの課題だ。番組では、是正を阻む「壁」とそれを乗り越える方策を、専門家・市民による徹底討論、そして生放送での視聴者の声を交え、具体的に探っていく。

 その意気やよし、と言いたいところだが、不完全燃焼or消化不良の番組だったと結論付けざるを得ない。
 安倍総理が成長戦略の柱と位置付けている「働き方改革」の一環として日本の賃金制度を「同一労働・同一賃金」に切り替えることを打ち出したのは今年の9月10日に開かれた「働き方改革実現会議」の席である。それ以前はサービス残業や長時間労働、正規・非正規の賃金格差などについては学識者・経営者団体・労働者団体などによる「労働政策審議会」(労政審)が中心になって議論を重ねてきたが、労政審を事実上形骸化して政府主導で作ったのが「働き方改革実現会議」である。
 実は2014年4月、政府の「産業競争力会議」(議長・安倍総理)が、成果主義賃金制(「残業代ゼロ」政策)の導入を経済界に働きかけたことがある。その政策目的は社員の賃金を労働時間の長短で決めるのではなく、労働の成果を基準に賃金を決めるという賃金政策の導入にあった。
 当時私は集団的自衛権問題にかかりきりになっており、この「新賃金政策」をブログで取り上げたのは5月21日から3日連続で投稿した『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』という題名の記事が最初である。年末年始、暇を持て余している方は読んでいただきたいが、そういう方は少ないと思われるので要点を述べる。ただし、3回連続の記事の文字数が実数で2万字を超えており、要約するにしてもかなりの長文にならざるを得ないと思う。できるだけ簡略化するつもりなのでご容赦願いたい。

 現行の労働基準法によれば、1日の労働時間は原則8時間、週40時間以内と定められている。その労働時間を超えた時は残業代が発生する。時間外労働に対する割増賃金(残業代)の割増率は25%以上だったが、2010年4月から長時間労働を防ぐため月60時間を超えた残業に対する割増率は50%以上に改定された。いうなら企業に対する懲罰的割増率を労働基準局が設定したのである。が、悪徳企業はこれを逆手に取った。残業が月60時間を超えた場合、超過労働をサービス残業として、会社に申告する残業時間を月60時間以内に収めさせるというせこいやり方を取り出したのだ。電通の新人女性社員の過労自殺も、そうして生じた。
 安倍総理が直々「議長」として作り上げた産業競争力会議の「成果主義賃金制度」(残業代ゼロ政策)は、一応対象を年収1000万円以上の社員に限定しているが、年収が1000万円に満たない社員でも、労働組合の合意が得られれば残業代ゼロ社員の対象にするという。もちろん本人の同意が必要とされてはいるが…。
 欧米諸国は基本的に同一労働同一賃金制度を導入している。日本のような単一民族国家ではなく、多民族国家が圧倒的に多いからである。そのため民族間の格差を解消するために人種や性別・学歴・年齢・勤続年数を問わず「同じ労働価値を提供した労働者には同じ賃金を支払う」という制度が根付いたと考えられる。
 日本と同様単一民族の韓国は超学歴社会で、学歴によって一生が決まるとさえ言われている。日本もかつては学歴社会と言われていたが、欧米文化の浸透によって学歴社会はかなり影を薄めてきた。ただ、日本は高度経済成長時代を経て男女を問わず高学歴化が進み、バカでもチョンでも大学に入れる時代になってしまった。ただし、日本でも欧米でも超一流大学の学生の大半を占めるのは富裕層の子供たちである。その点だけは一致しているのだが、「超」とまではいかなくても一応有名大学への入学は、日本は狭き門であり、欧米とくにアメリカは比較的門戸を広く開けている。その結果、日本の高校生は受験勉強に必至で、青春を謳歌できるのは大学に入ってからである。一方とくにアメリカの有名大学は、入学は比較的容易でも、卒業するのは極めて狭き門である。そのためアメリカの若者たちが青春を謳歌するのは高校生時代であり、大学に入ったあとは卒業証書をもらうために猛勉強しなければならない。
 日本人の多くは欧米でも支配層の白人たちは高学歴社会を形成していると思っているようだが、とんでもない錯覚である。実は一流企業のエリートサラリーマンになったり、政府(州政府も含む)のエリート職員になれるのは、人種のいかんを問わずやはり一流大学の卒業者が大半を占めている。そして大学に入れなかったり(白人社会にも貧困家庭はある)、卒業する能力がなかった白人は工場や建設現場で肉体労働に従事している。当然その世界では白人といえども黒人やヒスパニック系労働者たちとのし烈な就職競争を勝ち抜かなければならない。「悪貨は良貨を駆逐する」のたとえは就職戦線でも同様で、同じ仕事なら低賃金で雇える黒人やヒスパニックが白人から仕事を奪うのは当然である。米大統領選で、トランプ氏が劇的な地滑り的勝利を収めたのは、トランプが大統領になれば、黒人やヒスパニック系労働者に奪われた仕事を、白人の肉体労働者に取り戻してくれるだろうとの期待が大きかったことを意味する。
 また一流大学出のエリート学生の育て方も日本とアメリカとでは大きく違う。日本は知識の詰め込みが教育だと思っている学校や教師が多い(小学校から大学まで)。私はかつてブログで『なぜ小学生に台数の面積計算式を覚えさせる必要があるのか』という記事を書いたことがある。計算式はこうである。
   (上辺+下辺)×高さ÷2
 こういうくだらない計算式を覚えさせることが学力の向上につながると文科省の知識偏重タイプの役人は考えたようだ。
 私なら、そんな計算式を記憶させようとはしない。こういう考え方をするように生徒を指導する。
 同じ大きさの台形が、頭の中に二つあると思ってごらん。そのうちの一つを上下ひっくり返し、二つの台形をピタッとくっつけてみよう。そうすれば平行四辺形(ひし形)ができるね。平行四辺形の面積は一辺(上辺でも下辺でもいい)×高さで、これは長方形の面積と同じだよね。だけど、この平行四辺形の面積は台形2個分だから、2で割らなければならない。そうすれば台形1個分の面積が簡単に計算できるよね。
 この考え方は、台形の面積計算式の論理的説明でもある。公式を覚えることより、公式が作られたプロセスを理解させることのほうが、どれだけ子供たちが論理的な考え方をするための訓練になるか。
 日本の教育方針は基本的に江戸時代からの継続である。江戸時代は、藩の教育施設(藩校)や庶民の教育施設としての寺小屋などが中心だった。いずれも儒教的精神によって運営されており、子供たち(多くは6歳以上から)に知識を教えることが目的だった。そうした教育施設が全国各地に網羅されており、江戸時代の日本人の識字率は世界でも群を抜いていた。
 こうした教育の目的が明治維新以降も継続され、尋常小学校から大学まで一貫した教育体制が作られたものの、「教師は知識を教え、生徒は知識を覚える」ことが教育の目的とされてきた。当然画一的な思考法と、それをベースにした画一的な労働力の育成によって明治以降の近代化は進められていく。敗戦後の日本でも、そうした教育方針は温存され、受験勉強もより多くの知識を身に着けることが重視され、その結果日本の学生は大学で何を学ぶかではなく、どの大学に入学できるかが受験勉強の最大の目的になってきた。日本の学生が青春を謳歌できるのは大学に入ってから、という状態になったのはそのためである。
 一方アメリカの場合は、「自分の頭で考える」能力の開発を教育の中心に据えてきた。そのためディベートという討論教育が高校時代から盛んに行われている。この教育制度は、論争に勝つことが目的であるためレトリック手法(屁理屈を考え出す能力)を身に付けることになりかねず、私はあまり評価していないが、アメリカ社会では人の目の前で殺人を犯しても「私はやっていない」と言い張ることが権利として認められており、そういう社会で生き抜くためにはレトリック手法を身に付けることが大切なのかもしれない。
 そうした日本とアメリカの教育についての基本方針の違いが、雇用・賃金の体系にも大きく反映されてきた。日本型雇用形態として重視されてきた「年功序列・終身雇用」の考え方の原点が、日本特有の知識重視の教育にあったことだけ、とりあえず理解していただきたい。もっとも、そうした画一的教育によって生み出された画一的労働力が、明治維新以降の日本の近代化の原動力になったことは否めない歴史的事実だし、敗戦後の「世界の奇跡」とまで言われた経済復興と高度経済成長を支えてきたことも否定できない。
 が、日本の高度経済成長時代、「世界の工場」の地位を揺るぎないものにした日本の画一的労働力も、その後韓国に「世界の工場」の地位を奪われ、そして中国がその地位につき、今では「世界の工場」はインドやタイ、ベトナム、ミャンマーへと拡散しつつあり、さらに南米諸国やアフリカ諸国にも拡散しようとしている。そうした時代の潮流の中で安倍総理が打ち出したのが「成果主義賃金制度」であった。
 だが、成果主義賃金とはどういう制度なのか、肝心の安倍総理が自ら議長を務めた産業競争力会議から具体的な説明は一切なかった。ために、マスコミをはじめ政党や労働団体から疑問が噴出した。
 たとえば朝日新聞デジタルは14年4月22日8時配信の記事で「仕事の成果などで賃金が決まる一方、法律で定める労働時間より働いても『残業代ゼロ』になったり、長時間労働の温床になったりする恐れがある」と指摘。自民と連立与党を形成している公明党も菅官房長官に「長時間労働の常態化につながりかねない」と懸念を表明。連合も猛烈に反発した。
 このあたりで成果主義賃金という、世界に例を見ない新しい賃金制度について説明しておく必要がある。成果主義賃金は「残業代ゼロ」制度だという誤解が生じた。確かにそういう誤解を生みかねない要素もあった。
 だが、成果主義賃金制度が目指したものは、年功序列型賃金から、労働の成果を基準に賃金体系を決めようというのが本来の目的だった。それなら、なぜ安倍総理は欧米型の「同一労働同一賃金」の賃金・雇用体系を導入しようとしなかったのか。安倍総理は、いきなり「同一労働同一賃金」制度を導入するとか経済界や労働団体から猛反発が生じるだろうと考えたのだと思う。しかし私は意味不明な成果主義賃金を持ち込むなら、日本型雇用・賃金体系を廃棄して、欧米型の同一労働同一賃金を日本に根付かせるべきだと考えた。言っておくが、安倍総理が成果主義賃金制度を持ち出した時点では、まだ「働き方改革」の「は」の字もなかった時だ。
 ここで「同一労働同一賃金」とはどういう意味なのかを整理しておこう。こんなわかりやすい言葉が、実は大きな誤解を生むことになったからだ。当時書いたブログの記事をそのまま引用する。

 ここで読者に理解していただきたいことは「同一労働」の意味である。アメリカにおける「同一労働」は労働の結果としての成果、つまり会社への貢献度が基準となっているということだ。つまりAさんが10時間働いて生み出した成果と、Bさんが5時間働いて生み出した成果がまったく同じならば、時間当たりの賃金はBさんはAさんの2倍になるということなのである。そのことをとりあえずご理解いただいて、日本の雇用・賃金体系はどうあるべきかについて考えてみたい」
 この年、大企業は9年ぶりにベースアップに踏み切った。安倍総理の要請に応じて、言うなら政経労の三者そろい踏みで実現したベースアップだった。
 このベースアップにメディアもそろって好感を示した。「憲法違反の賃上げ」だということを知りながら、その指摘すら行わずに諸手を挙げて支持した。「お前らアホか」と言いたい。「憲法違反の賃上げ」ということを知らなかったとしたら、もっとアホと言わなければならない。
 憲法に違反している法律は、言うまでもなく労働基準法である。労働基準法では、賃金の形態を「基準内賃金」と「基準外賃金」に分類している。
 基準外賃金のほうから説明しよう。その方がわかりやすいからだ。
 労働基準法で基準外賃金の対象とされているのは、主に三つだ。扶養家族手当、住宅手当、通勤手当、である。すべて「属人的要素」つまり個々の従業員の個人的な諸事情に対して支給されている手当で、会社で仕事をした労働力に対する対価として支給される賃金ではない。そういう意味では年齢・学歴・勤続年数を基準にした基本給は、本来「基準外賃金」である。これらの要素は「職務遂行に要する労働力の価値」とは無関係だからだ。
 これに対して基準内賃金は、基準外賃金を除くあらゆる名目の手当てを含む賃金を指す。労働基準法では、時間外労働(残業、休日出勤など)に対する割増賃金の割増率の基準になる賃金である。
 ところが今春9年ぶりに行われたベースアップは、本来の意味での基準内賃金の底上げではない。慣行として連合(旧総評系)などが容認してきたせいもあるのだろうが、日本におけるベースアップは基準外賃金の中の基本給(年齢・学歴・勤続年数)に物価変動を加味して自動的にアップすることにしたということである。こうしたベースアップは本来、労働基準法に違反している。
 が、日本の労働基準法は「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取り扱いをしてはならない」(第4条)としているだけで、年齢・学歴・勤続年数の「3基準外賃金」についての差別的取り扱いは認めている。はっきり言って憲法違反の法律だが、労働組合側も慣行として容認してきたし、輸出関連の大企業に対して安倍総理が要請したベースアップも、総理自身はそのことを百も承知で行っている。
 そう言い切れるのは、竹中平蔵氏が著書『日本経済の「ここ」が危ないーーわかりやすい経済学教室』で、「安倍晋三内閣(※第1次)で同一労動同一賃金の法制化を行おうとしたが、既得権益を失う労働組合や、保険や年金の負担増を嫌う財界の反対で頓挫した」と述べていることからも明らかである。

 成果主義賃金制導入の失敗で、再び安倍総理が第1次内閣時に法制化しようとして頓挫した同一労働同一賃金の法制化の試みを再復活させようとしていることが読者にもお分かりになったと思う。
 ここで明らかにしておく必要があると思うが、「基本給」という名目の賃金は欧米諸国にはない。日本の基本給は年齢・学歴・勤続年数によって自動的に決められており、ベースアップや時間外労働の割増賃金、賞与、退職金などの算出基準になっている。なぜ日本だけが「基本給」という賃金を認めてきたかというと、すでに述べたように画一的教育によって育成された画一的労働力を産業振興のベースにしてきたからだ。
 一方日本の労働基準法は、すでに明らかにしたように憲法違反の法律である。
安倍総理は第1次内閣の時から基本給制度を廃止して同一労働同一賃金制度を導入しようとしたこともすでに書いた。が、アベノミクスの最大目的として掲げた「デフレ脱却」のために日銀・黒田総裁に命じて円安誘導と金融緩和を行い、膨大な為替差益を生じた輸出関連の大企業にベースアップを要請した。だがベースアップは基本給のかさ上げであり、安倍総理が目指してきた同一労働同一賃金(すなわち基本給の廃止を意味する)と明らかに矛盾している。
 安倍・黒田ラインによる「円安誘導・金融緩和」はデフレ脱却によって日本の工業製品の国際競争力を回復することが目的だった。安倍・黒田ラインは、日本の工業製品の国際競争力が回復すれば、従業員の賃金が上昇するだけでなく、円安によって日本の工業製品の国際競争力が回復し、メーカーは生産力を増大するために設備投資を行い、それが下請け企業にも波及して再び日本は高度経済成長時代の活気を取り戻すだろうと夢見た。が、そうはならなかった。
 アベノミクスが失敗した理由は、今年9月1日と10日に2回に分けて書いた長文のブログ記事『アベノミクスはなぜ失敗したのか』に書いたので繰り返さないが、若者の自動車離れが急速に進み、家電製品の花形だったテレビはすでに全家庭に普及しており、国内需要が伸びたのはスマホだけという状況の中で、スマホの普及によってパソコンの需要も急激に減少するといった事態も生じ、日本メーカーはリスクが大きい輸出拡大のための設備投資には走らなかったためだ。結果、日本のメーカーは為替差益でぼろ儲けをしただけというのが、アベノミクスが招いた結果だった。
 そのことをいまだにわかっていない安倍・黒田ラインは、さらに金融緩和を進め「マイナス金利」という致命的な金融政策をとった。その結果金融機関はどういう方策に走ったか。不動産関連投資への節操なき融資である。昨年から今年にかけて金融機関が行った不動産関連投資は、バブル期の不動産関連投資を上回る規模にまで達した。その結果が、都心部や武蔵小杉などに林立したタワーマンションである。
 先日テレビの報道番組で見たが、給料がなかなか上がらないため、不動産投資に走るサラアリーマンや主婦が急増しているという。タワーマンションの部屋をローンで買って賃貸に回し、賃貸収入とローン返済の差額を小遣いの足しにするのが目的のようだ。が、少子高齢化で、賃貸物件の需給関係が崩れだした。投資家は期待していたほど家賃収入が得られず、ローンは返済しなければならず、自転車操業にもならない赤字になっているという。
 家賃収入を当てにして不動産投資に走った投資家は、当然ながら一部屋だけではなく、複数の物件をローンで買っている。彼らがローン返済に行き詰まって破綻(自己破産)するのは目に見えている。そのつけは無節操に不動産関連の融資を行ってきた金融機関が払うことになる。来年はバブル崩壊後の金融機関の危機的状況を上回る状態に、金融機関は陥る。日本の金融機関で生き残れるのはどこだろうか。メガバンクと言えども安穏とはしていられないはずだ。

 話がちょっと横道にそれすぎた。同一労働同一賃金の話に戻る。
 同一労働同一賃金についての私の基本的立ち位置を明らかにしておく。一刻も早く法制化すべきだ、というのが私の考えだ。今までさんざん安倍総理に対する批判をしておいて何事かと思われる方が多いと思う。
 私が安倍総理の賃金政策を批判してきたのは、彼には賃金政策についての確たる哲学がないことを証明しただけだ。
 少子高齢化は、いかなる政策によっても歯止めをかけることは不可能である。その理由は、これもさんざんブログで書いてきたが、少子高齢化が始まったのは大家族制が崩壊して核家族制に移行したこと。また女性の高学歴化が進み、女性の生き方・価値観が大きく変化したこと。この二つの要因が重なったことに尽きる。
 私が結婚した時代は、女性は仕事を辞めて家庭に入るのが通例だった。そのころすでに核家族化は始まっていたが、少子化も同時に進みだした。大家族時代には新しい子供ができれば、その子の兄や姉は祖父母が面倒を見てくれたが、核家族化の下では母親一人でたくさんの子供の面倒は見きれない。私の世代で、すでに女性の合計特殊出生率は2.0前後になっていたと思う。
 その後、女性の大学進学率が急上昇を始める。また当時は基本給に男女差があったが、男女雇用均等法の施行により基本給における男女差がなくなった。同時に会社の女性社員に対する扱いも大きく変化する。従来は女性社員は男性社員の補助的扱いをされていたが、女性社員にも男性社員と同様の権利と責任が生じるようになった。結果、女性は母親になって子供を育てることより、社会で自分の能力を高め、働き甲斐を強く求めるようになった。少子化の原因はそうした社会構造の変化による。
 だが、バカな政治家は保育園を作れば、保育園が祖父母代わりになって小さな子供の世話をして、母親が子供を作りやすくなるだろう考えた。理論的には、そうなる可能性も否定はできないが、実際には保育園に子供を預けることができた母親は次の子供づくりに頑張るのではなく、社会復帰して仕事にやりがいを求めるようになった。一人っ子家庭が増え、女性の合計特殊酒精率が1.5を切ったのはそういう社会構造の変化のためである。はっきり言えば、保育所を作れば作るほど合計特殊出生率は低下する。政治家は票のため、選挙のとき真逆の政策を訴えている。これはもうバカを通り越して詐欺と同然だ。
 さらに問題なのは、日本の労働生産性はOECD(先進国)で最低ランクに位置付けられていることだ。日本人の能力が他の先進国より劣るのであれば、労働生産性が低いのは当然だが、そんなことはない(と思いたい)。
 日本人は勤勉だといわれている。二宮尊徳以来、日本の教育方針の重要な一つに「勤勉さ」を重視するようになった。「勤勉さ」を測る尺度は労働時間しかない。机にしがみついて、仕事をしているふりをすることが「勤勉さ」の証明になる。そういう悪しき伝統が、知識重視型の教育方針と相まって日本社会に根付いてきた。
 そうした発想を転換させなければならない。安倍総理が第1次内閣以来の信念ともいえる同一労働同一賃金制度導入が、そうしたことを目的としたものなら、私は大歓迎である。が、だとしたら大企業にベースアップを求めた理由がまったくわからない。何度も繰り返すが、ベースアップは世界に例を見ない日本特有の年功序列賃金体系の根本をなす基本給の底上げを意味するからだ。その部分に手を付けずに同一労働同一賃金制度の導入はあり得ない。安倍総理に哲学がない、と決めつけざるを得ないのはそのためだ。
 電通の痛ましい過労自殺事件を契機に、日本の経営者や管理職は発想を大転換してもらいたい。机にしがみつく時間を基準にした「勤勉さ」を部下に求めることは罪悪だと考えてもらいたい。むしろ残業時間が多い部下を指導できない上司は「無能だ」という烙印が押されるような企業風土を構築してもらいたい。過労自殺した彼女の死を無駄にしないということは、単に会社の消灯時間を早めることではない。短い勤務時間内に密度の濃い仕事をやり、きめられた勤務時間になればさっさと退社する社員が大きな顔をできるような企業風土を構築することに、企業が本気で取り組めば、彼女の死は無駄ではなかったことになる。またそういう企業風土の構築に日本が成功すれば、本当の意味の同一労働同一賃金制度は、法律で制度化しなくても自然にそうなる。当然日本の労働生産性は世界一とまでは言わないが、世界のトップクラスに入れるだけの能力を日本人は持っている、と私は考えている。
 またそういう時代を迎えることができれば、正規・非正規の社員格差も自然消滅する。会社にとっても、正規・非正規に分けて社員を採用する意味がなくなるからだ。

 今年最後のブログが、当初考えていた以上に長くなってしまった。その上12月14日に投稿したブログ『緊急提言ーー「カジノ法」(IR法)に私は条件付きで賛成する。その条件とは…』の読者が2週間経っても増え続けており、なかなか更新できないでいる。最悪大晦日の早朝には強行更新するつもりだが、正月休みに「頭の体操」をするくらいの軽い気持ちで読んでいただければと願う。
 最後になったが、私のブログの読者に「よいお年を」。