淡彩スケッチ ひとりあそび

  へたはへたなりに 楽しんでいます    ( by satoyama )
  

生野銀山町   [629]

2014-06-25 09:22:33 | 淡彩スケッチ
      生野銀山へ行って来た。
      兵庫県を南北に縦断する播但道路沿いの、瀬戸内側と日本海側の分水嶺に
     当たる位置にある。

      案内のチラシによると
      「開坑807年と伝えられ1200年余の歴史を持つ。
      織田・豊臣・徳川の直轄を経て明治政府初の直轄鉱山となる。
      銀を中心に採掘され、歴代の政権の財政基盤を担った。
      明治元年仏人技師の指導で経営の近代化がはじまる。
      明治22年に皇室財産に。
      明治29年に三菱合資会社に払い下げられ、昭和48年の閉山まで国内有数の
     大鉱山であった。」  とある。

      そんなことより、数年前に読んだ玉岡かおる著の「銀の道一条」との関わりの
     方が自分には大きかったのであるが。
    
      閉山の街とは云え、生野銀山町はきれいな町だった。
      採鉱は止めていても、三菱の関連会社が施設を生かして何がしかの操業をして
     いるし、坑道の一部を公開し、周辺には歴史資料館などを併設していた。
      坑道内の温度は、年中13度だそうで、半袖のポロシャツでは、20メートルも
     入っただけで寒くてたまらず、飛びださざるを得なかった。

      町は全国で初めて国重要文化的景観として選定されているそうで、興味深い史跡や
     建造物が沢山残こっていて、それらが丁寧に保存利用されていた。

      
         6ヶ処あったという郷宿の一つ 井筒屋  (サイズ F6)
         江戸時代、生野銀山では一般の旅人の宿泊はご法度であったが、公用で
         代官所を訪れる役人のための宿。
         赤みのある生野瓦、鳥の子色の土塀、竹製の大阪出格子が特徴とある。

      
         八つ並ぶお寺の一つ 本行寺  (サイズ F4)
         八つものお寺が並んでいる。
         これだけのお寺がひとつの通りに集まっているのは、全国から工夫が集まって
         来ているので、多くの宗派のお寺が求められたのだろうという。

      
         旧浅田邸庭園からの眺め トロッコ軌道跡を見る  (サイズ F4)
         大正9年に鉱石を精錬所へ運ぶため、生野駅まで線路が敷かれ、昭和30年に
         トラック輸送に代るまで、小さな電気機関車がトロッコを牽引して走っていた。 



紫陽花     [628]

2014-06-21 22:13:18 | 淡彩スケッチ
         
             「紫陽花」  F6  絵仲間の集まりで

         
             「アジサイ」 (油彩)F6

         
             「カンパニュラ」  F6  訪問した先で


         紫陽花のこと
         六甲山周辺で咲く紫陽花の色を六甲ブルーというらしい。
         花崗岩の酸性土壌や寒暖差の影響で、色鮮やかに真っ青に咲く紫陽花の色のことである。
         旅行業者やアジサイ園が宣伝に盛んに売り込んでいる。
         六甲山ドライブウエ―をあじさいロードと謳ったり、北区の神戸市立森林植物園は量、種類の
        多さを誇っている。

         自宅の庭に、一昨年に挿し木した紫陽花の木が2本育っている。
         濃い藍色のものを通りがかりに見掛けて、その家の人に頼んで、2本の木から一枝づつ
        貰ったものである。
         やはり土が合わなかったのか、1本は淡いブルーに、他はなんとピンク色に咲いてくれた。
         今年も沢山ついた花が大きくなってきたが、色に変わりは無さそうである。


         カンパニュラのこと
         訪ねた先の家でこの花を見た。
         てっきり蛍ブクロかと思ったが、そうではなかった。
         言われてみれば、蛍ブクロの花はみんな下を向いてぶら下がっている。
         カンパニュラは、蕾のうちは垂れ下がっているのに、開いたものは上を向いている。
         夫々が面白い形をしていて見飽きない。
         雑談をしながら描かせてもらった。

万博記念公園   [627]

2014-06-15 00:16:11 | 淡彩スケッチ
      
             太陽の塔 F4

      
             記念公園内 林 F6 (未完成)

      加入しているスケッチの会の例会で万博記念公園へ行って来た。

      改めて調べてみたら、日本万国博覧会の開催されたのは1970年のことであるから、
     半世紀にもなる。
      その後、敷地跡に出来た記念公園へは、今はもう閉館、解体されている国立国際美術館が
     在った時に、絵を観る目的だけで行ったきりであった。

      中央ゲートをくぐって太陽の塔を見上げた時には、あの時の華やかな雑踏が懐かしく思い
     だされた。
      一行の移動から離れることになったが、とにかく此処で塔を見上げて描くことにした。
      絵になろうがなかろうが、そんなことは意にしなかった。

      その後は、構造物や人工のせせらぎより、樹を描く練習にでもと立木の並ぶ場所でスケッチを
     始めたが、残念ながら雨が降り出してきて、30分ほどの雨宿りで降り止むんだけれと、
     樹からの滴がいつまでも止まず、結局中断することになってしまた。

今川焼き  [626]

2014-06-02 21:53:10 | 淡彩スケッチ
        
            花菖蒲  F6

        
            ポリボックス前のカブ  B5  鉛筆 バス待ちの瞬描

        
            高架より見下ろした西鈴蘭台駅  B5 鉛筆 バス待ちの淳描

        先日,久し振りに近所の喫茶店で軽食の昼食をとった。
        その時に読んだ日経に「今川焼き」と題する、画家 東野光生さんの随筆が掲載
       されていた。

        古美術界での重鎮で、88歳で亡くなった知人Yさんから聞いた話をテーマに
       していた。

        12歳で勤めていた奉公先から通っていた夜間学校で、薄幸の1歳年上の春代という
       同級生に出会い、ただ一度彼女の買ってくれた今川焼きを一緒に食べたことをきっかけに、
       ずっと想い続けていたことと、死の前になって、80年も前のその人を捜し求めた
       話であった。

        この随筆の結びを、店で貰ったメモ用紙に転記して帰った。

        「人は老いても遠い初恋の思い出を心のどこかに残す。
        そして死を前にしてもなお、見果てぬ此の世の夢を追う。
        それは、人が生きて存ることの、なによりも美しく哀しい証なのだ」