生野銀山へ行って来た。
兵庫県を南北に縦断する播但道路沿いの、瀬戸内側と日本海側の分水嶺に
当たる位置にある。
案内のチラシによると
「開坑807年と伝えられ1200年余の歴史を持つ。
織田・豊臣・徳川の直轄を経て明治政府初の直轄鉱山となる。
銀を中心に採掘され、歴代の政権の財政基盤を担った。
明治元年仏人技師の指導で経営の近代化がはじまる。
明治22年に皇室財産に。
明治29年に三菱合資会社に払い下げられ、昭和48年の閉山まで国内有数の
大鉱山であった。」 とある。
そんなことより、数年前に読んだ玉岡かおる著の「銀の道一条」との関わりの
方が自分には大きかったのであるが。
閉山の街とは云え、生野銀山町はきれいな町だった。
採鉱は止めていても、三菱の関連会社が施設を生かして何がしかの操業をして
いるし、坑道の一部を公開し、周辺には歴史資料館などを併設していた。
坑道内の温度は、年中13度だそうで、半袖のポロシャツでは、20メートルも
入っただけで寒くてたまらず、飛びださざるを得なかった。
町は全国で初めて国重要文化的景観として選定されているそうで、興味深い史跡や
建造物が沢山残こっていて、それらが丁寧に保存利用されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/e9/8c3f5cfd8317ee09bfdaaa0a39690d01.jpg)
6ヶ処あったという郷宿の一つ 井筒屋 (サイズ F6)
江戸時代、生野銀山では一般の旅人の宿泊はご法度であったが、公用で
代官所を訪れる役人のための宿。
赤みのある生野瓦、鳥の子色の土塀、竹製の大阪出格子が特徴とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/76/27f3aa48e817b5000d551cd524db1e43.jpg)
八つ並ぶお寺の一つ 本行寺 (サイズ F4)
八つものお寺が並んでいる。
これだけのお寺がひとつの通りに集まっているのは、全国から工夫が集まって
来ているので、多くの宗派のお寺が求められたのだろうという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/34/d3c80abdcee553bc53365d96e1c7efe5.jpg)
旧浅田邸庭園からの眺め トロッコ軌道跡を見る (サイズ F4)
大正9年に鉱石を精錬所へ運ぶため、生野駅まで線路が敷かれ、昭和30年に
トラック輸送に代るまで、小さな電気機関車がトロッコを牽引して走っていた。
兵庫県を南北に縦断する播但道路沿いの、瀬戸内側と日本海側の分水嶺に
当たる位置にある。
案内のチラシによると
「開坑807年と伝えられ1200年余の歴史を持つ。
織田・豊臣・徳川の直轄を経て明治政府初の直轄鉱山となる。
銀を中心に採掘され、歴代の政権の財政基盤を担った。
明治元年仏人技師の指導で経営の近代化がはじまる。
明治22年に皇室財産に。
明治29年に三菱合資会社に払い下げられ、昭和48年の閉山まで国内有数の
大鉱山であった。」 とある。
そんなことより、数年前に読んだ玉岡かおる著の「銀の道一条」との関わりの
方が自分には大きかったのであるが。
閉山の街とは云え、生野銀山町はきれいな町だった。
採鉱は止めていても、三菱の関連会社が施設を生かして何がしかの操業をして
いるし、坑道の一部を公開し、周辺には歴史資料館などを併設していた。
坑道内の温度は、年中13度だそうで、半袖のポロシャツでは、20メートルも
入っただけで寒くてたまらず、飛びださざるを得なかった。
町は全国で初めて国重要文化的景観として選定されているそうで、興味深い史跡や
建造物が沢山残こっていて、それらが丁寧に保存利用されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/e9/8c3f5cfd8317ee09bfdaaa0a39690d01.jpg)
6ヶ処あったという郷宿の一つ 井筒屋 (サイズ F6)
江戸時代、生野銀山では一般の旅人の宿泊はご法度であったが、公用で
代官所を訪れる役人のための宿。
赤みのある生野瓦、鳥の子色の土塀、竹製の大阪出格子が特徴とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/76/27f3aa48e817b5000d551cd524db1e43.jpg)
八つ並ぶお寺の一つ 本行寺 (サイズ F4)
八つものお寺が並んでいる。
これだけのお寺がひとつの通りに集まっているのは、全国から工夫が集まって
来ているので、多くの宗派のお寺が求められたのだろうという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/34/d3c80abdcee553bc53365d96e1c7efe5.jpg)
旧浅田邸庭園からの眺め トロッコ軌道跡を見る (サイズ F4)
大正9年に鉱石を精錬所へ運ぶため、生野駅まで線路が敷かれ、昭和30年に
トラック輸送に代るまで、小さな電気機関車がトロッコを牽引して走っていた。