淡彩スケッチ ひとりあそび

  へたはへたなりに 楽しんでいます    ( by satoyama )
  

飛騨高山で    [620]

2014-04-28 22:30:35 | 淡彩スケッチ
     
           高速道 ひるがの高原サービスエリア より
           大日岳  1709メートル

     昨日、高山へ日帰りで行って来た。
     片道、休憩を入れて5時間のバス走行の、観光でないタイトなものであったけれど、
    窓外の初夏の風景は十分に楽しめた。

     市内では、短時間ではあったけれど美術館にも寄ることができて、これも大きな収穫であった。
     手島右卿氏(1901-1987)の書を収蔵する特別室では、小字数書の素晴らしい作品に出会う
    ことが出来た。
     書には疎い自分にも、文字全体の姿の美しさは分かったし、浮かび上がる優美さを感じた。
     会場で貰った新聞のコピーを帰途読んだけれど、これには氏の言葉がいくつか掲載されていて、
    その中に
     「書というものは一口で云えば“線活動”です。線がものを言わなかったらだめです。・・・」
     「雅のない書というものは/どこに書としての価値があるのか/香りのない花のごときもの」
    というものがあった。
     この人の書を見て自分が感じたことは、それなりに観ていたのだなぁと思った。

     特別展「世界遺産 富士 北斎・広重・大観他」では、北斎の木版画、富嶽三十六景の内、
    有名な「凱風快晴」「山下白雨」など8点、歌川広重のもの6点を、そして横山大観の「不二霊峰」
   12曲1隻他を観た。

     大観の屏風の横にこの人のことばが展示してあった。
     「富士を描くということは富士にうつる自分の心を描くことだ。・・・・・己が貧しければ
     そこに描かれた富士も貧しい」
     このことば、なにも富士を描くことだけではなさそうだ。

     
        高山行きとはなんのかんけいもないもの
        石膏像  教室で 1時間半で描いたもの

多田神社    [619]

2014-04-22 22:07:07 | 淡彩スケッチ
    
          多田神社  F6

     兵庫県川西市。
     清和源氏武士軍団発祥の地。
     源満仲が970年に天台宗寺院として建立し、明治以前までは多田院と称した寺院であったが、
    明治の神仏分離で多田神社となった。
     清和源氏の朝廟として、源満仲、頼光、頼信、頼義、義家を祀っている。

     近くまで所用で何度も来ていたが一度も参拝することは無く、今が盛りのツバキを観たいという
    知人と行ってきた。
     広い境内には3棟の豪壮な重要文化財の社があり、門前の猪名川にかかる赤い橋も趣きのあるものであった。

秋野不矩 の「平安神宮」      [618]

2014-04-20 22:33:45 | 淡彩スケッチ
    
               秋野不矩 「平安神宮」

         

         
           最近 絵画教室で描いたもの  石膏頭部スケッチ F6

     『 絵画でめぐる「京都・美の探訪」』(明石市立文化博物館)を観に行って来た。
     唯一点、秋野不矩さんが紅しだれを描いている [平安神宮] を初めて観るために。
     それほど好きな人である。
     この作品は、文化功労者に推され、文化勲章も受章されたこの人の、93歳で亡く
    なられた2年後の大回顧展には出ていなかった。
     しかも、この人の作品には、インドの厳しい自然、風物や精神性の高い宗教を画題と
    したもの、人物、動物を描いたものは多いけれど、花を描いたものは少ないのである。
     それだけに是非観たかったのである。
     朱の門柱や扉の向こうに、大きく広がる枝垂れ桜の鮮やかさは凄いものであった。

     他にも、京都の自然、風物、町並みを多くの画家たちが描き表していた。
     山本倉丘、堂本印象、上村松篁、鶴田憲次、池田遥邨、向井潤吉、津田周平、芝田米三 等
     展示作品は全て京都府立綜合資料館所蔵のものばかりであった。

トルコキキョウ   [617]

2014-04-15 22:50:52 | 淡彩スケッチ
          
                 トルコキキョウ  F2

          外出しての帰りにバス(神姫バス)に乗った。
          ほぼ満席の車中、むずかっていた赤ちゃんがとうとう大声で泣き出した。
          若いお母さんが、あやすために腰を上げて盛んにゆすっていたが、
         突然バスの運転手が、「お母さん、大丈夫ですよ。泣くのは赤ちゃんの
         仕事ですから。しっかり掴まっていて下さいよ。」とマイクで話しかけた。

          その一言で、見事に車内の雰囲気が和らいだ。
          微笑む人も沢山いた。
          降りる時に、運転手に会釈する人が何人も居た。


敦賀港のこと   [616]

2014-04-12 23:23:57 | 淡彩スケッチ
      
           旧敦賀港駅舎  F4
           欧亜国際連絡列車を象徴する旧国鉄敦賀港駅舎を再現したもので
           鉄道資料や列車模型を展示している。
        
      
           敦賀ムゼウム  F4
           ポーランド孤児763人(1920~22年)や杉原千畝発行の「命のビザ」を
           持ったユダヤ人難民約6000人(1940~41年)が敦賀港に上陸した史実に
           関わる資料、迎えた市民の援助などのエピソードや資料が展示されている。
      
           赤レンガ倉庫  F4
           1905年に外国人の設計によって造られた倉庫は敦賀港の繁栄を今に
           伝える象徴的建築物ひとつで、登録有形文化財に認定されている。 
       
     青春キップ、最後の1枚を使って敦賀港へ行って来た。
     目を見張る風景には出会えなかったけれど、初めて敦賀港近辺を歩いてみて、
    この港の歴史の一端を知ることが出来た。

     敦賀港は1899(明治32年)年に外国貿易港の指定を受け、1902年には、敦賀と
    ウラジオストク間に直通航路が開設された。
     1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ唯一の拠点港となり、
    ヨーロッパ各国との接続は、それまでインド洋航路で約40日もかかったものが、
    10日あまりに短縮されるようになった。

     この為、新橋駅(東京)・金ヶ崎駅(敦賀)間には欧亜国際連絡列車が運行される
    ことになり、名実ともに「東洋の波止場」として繁栄した。

     港の永い歴史のうちに、動乱のシベリアで、家族を失ったポーランド孤児763人を
    迎え入れたり(1920~22年)、リトアニア日本領事館の杉原千畝領事代理が外務省に
    背いて発給したビザを手にしたユダヤ人難民6000人が上陸することもあった
    (1940~41年)。
     これらの人々に対して、日本赤十字社や関係機関そして地元の人たちは出来る限り
    の暖かい手を差し伸べ、今もなお人道の港とたたえられている。


     この春の青春キップでのブラブラ歩きは、長浜、近江八幡、坂越、牛窓そして今回の
    敦賀で終わりとなった。
     今から、5月初旬に開催する仲間内の作品展の出品作仕上げの追い込みである。
     牛窓の高台からの眺めを、30号の油絵にしている。

太山寺 桜    [615]

2014-04-08 22:13:03 | 淡彩スケッチ
      
           太山寺 仁王門   F8

      馴染みの寺へスケッチに入って来た。
      月に一度、風景スケッチをと云う会に入れてもらっての初参加であった。
      レベルの高い人たちの多様な画風や早描きに大きな刺激を受けたし、
     終わっての指導者の講評も、今後に生かせるものであった。

      ブログの絵仲間から、桜は遠くから描くものと教えられていたのに、見上げる
     ような位置から描いてしまい、これには懲りた。

近江八幡   [614]

2014-04-06 20:20:51 | 淡彩スケッチ
      
         八幡堀   F5

      
         旧八幡郵便局  F2  ヴオーリスの設計

      
         ヴオーリス記念館
         ヴオーリス後半生の自宅

       近江八幡へ行って来た。
       前回(2010年3月)は、八幡堀の風景一枚を描くのに時間をかけてしまい、
      所謂近江商人の街の遺構の残る街歩きが出来なかった。
       今回は、堀風景は簡単なものを最初に一枚だけ描いて、あとはブラブラ歩きをした。 
       城下町として碁盤目状に造られたこの町には、国の重要文化財に指定されている
      ような豪商宅が並んでいて興味はつきない。

       一方、この街には建築家ヴオーリスの設計になる建物が多く残されていて、一つの
      ウリになっている。
       ウイリアム・メレル・ヴ゛オ―リス(アメリカ人 1880-1964)は、近江兄弟社の
      創立者の一人で、建築家として、関西地方を中心に1000棟を越える建物を設計し、
      その業績は一粒社ヴオーリス建築事務所として現在も引き継がれている。

      これで青春キップの残りは1枚となった。
      利用可能期間は 4月10日である。
      ちょっと難しくなってきかなあ。