淡彩スケッチ ひとりあそび

  へたはへたなりに 楽しんでいます    ( by satoyama )
  

光明寺     [601]

2014-01-27 12:36:56 | 淡彩スケッチ

光明寺  P10

        明日から鹿児島へ行くことを計画しているけれど、気象庁の週間天気予報を見ると、
       当地の最高気温が20度と出ている。
        何を着て行ったらいいものやら。
        厄介なことになった。

        光明寺。
        昨秋、水彩でスケッチしたものを、正月の休みに油絵にした。
        時間が有り余るほどあって、チマチマと描き過ぎてしまった。






古い はがき絵

2014-01-27 12:01:17 | 淡彩スケッチ

     岡部まりさんの講演を聞く機会があったが、その中の話に、物の整理、片づけは「要るか、要らぬか」ではなくて

     「使うか、使わないか」であるということがあった。

     思い当たることがある。

     家の本棚にある本をそういう目で見た時、買う時はそれなりの意図があり、少しは読んだこともあるが、

     今から先の人生で、詠む可能性の全くないもの、或いは必要になるとしても、その日に備えてわざわざ

     手元に置いておく必要のないものは沢山ある。

     この話を聞いてから、かなりいろんなものの整理が進んだ。

 

     描き溜まっていた絵も、二つの山に仕分けした。

     ハガキサイズの絵も沢山出てきて、これくらいは残そうかと云うものの数枚を掲載する。

     いずれも、既に披露したものであるけれど。

   「みょうが」

  色につられて、買ってきて描いた。あと、どうしたか覚えていない。

   「あみがさゆり」

  絵仲間の集まりで、誰かが持ってきてくれて、その時初めて見たのだけれど、その後は見ていない。

  「法輪寺三重塔」

  学生の頃から、もう何度も行っている。この寺では、虚空蔵菩薩に会うのが目的である。

  近くの法起寺三重塔(国宝)も、自分には深い思い入れがある。

   「尾道」

  ここへも何度か行った。暑い盛りにも青春キップを利用して。この場では、疲れて腰を下ろし、休みながら描いた。

   「カンパニュラ」

  なんともかわいい花だった。コップがぴったり合った。

  

  「大山崎山荘美術館」 下の庭園から見上げて描いた。 いつ行っても安らぐ美術館である。

   「水仙」 2枚

  同時に2枚描いた。 思い切ったバックの色を試してみた。

  

   「侘び助」

  この頃の方が、すんなりと描けている。この間、何をしていたのかと思う。


土のなかの実り     [599]

2014-01-22 21:33:58 | 淡彩スケッチ
      
             土のなかの実り  F6
  
      天気が良けりゃ外へ出て描こうかと云うかねてからの打合せ通り、
     友人宅へ向かったが、ちらつく雪に、これではいくらなんでも無理と、
     途中の店で適当な花を探すことにした。
      しかし、あいにく手頃な花もなく、色の面白さで選んだものは、気が
     つけば、土の中で育ったものばかりになっていた。
      迷ったけれど、結局この日は、暖房の効いた部屋でそのまま描くこと
     にした。

雪   [598]

2014-01-19 16:10:45 | 淡彩スケッチ
      

       昨夜は久しぶりに本を読んだ。
       読み掛けたまま、昨年末から放り投げていた、三浦しをんの「光」を
      読み切って、寝る時には気がつかなかったけれど、起きてみると一面の
      雪であった。
       天気予報通り寒かった。
       外へ出る気にもならず、これまた描きかけの水彩画の2枚に仕上げの
      手入れをした。

       思えば、何もかもやりかけのまま残している人生であった。
       しなければない、もっと大事なことがいっぱい残っている。

       掲載のものは、今年最初の教室で描いたもの。   F10

散歩道で  [597]

2014-01-15 18:39:09 | 淡彩スケッチ
      

      

       陽の明るさに惹かれて外へ出た。
       ルートを決めるでもなく、歩行数が一万になるように、それに合わせて引き返したが、
      厚着でもないのに大いに汗をかいた。
       途中2度立ち止まって立ちスケッチをしたけれども、これが丁度適度の休憩に
      なってくれた。

       山の雑木の梢も動きだしたのか、山の色に紫色が入って来ていた。

       色は、帰宅してから着けた。
       サイズは、B5




里の家   [596]

2014-01-13 21:12:47 | 淡彩スケッチ
     
          里の家  サイズ F6

       ちょっとした温もりを感じて、里のスケッチをしてきた。
       車もそれほど通らない市道からそれて、途中2軒の農家しかない農道を
      山裾に向かって歩くこと300m。
       現れた一軒の農家は、かっては庄屋だったという。
       見下ろす位置の畦に腰かけて描いた。

湖北の十一面観音 (4)  [595]

2014-01-11 20:18:51 | 淡彩スケッチ
     大平観音堂 十一面観音像

      
              大平観音堂  (米原市春照大平町)

      
              中腹に太平寺のあった伊吹山を 大平町越しに見る
              2年前のスケッチ 

     今回のツアー「白洲正子を魅了した十一面観音達」の最後は、円空仏を祀る米原市春照
    大平町の大平観音堂であった。

     伊吹山の南西側山裾、絵仲間によく知られている三原池に近い所である。

     伊吹山の中腹で、平安、鎌倉時代は山岳寺院として栄えていた太平寺も、岐阜生れの
    円空が修業に励んだ寛文初年(1661)や、2度目に訪れた元禄2年(1689)頃の
    寺勢はかなり衰退していたそうである。
     2度目に訪れた円空(58歳の時)が彫った十一面観音は、永らく太平寺集落で祀られて
    きたけれども、斜面地で、十分な耕作地も無いこの地を、住民こぞって、昭和39年に移住
    するにあたり、春照大平町に建てられた観音堂に移され、以来円空仏保存会の人々の手で
    祀られている。

     白洲正子さんは、この観音が、いまだ山中の太平寺村に有った時から訪れておられる。

     観音堂とはいえ、町の集会所、公民館のような建物であり、観音は狭いガラスケースに
    収蔵されていた。
     撮影は自由にさせてもらえてありがたかったが。ガラス面の反射で上手くいかなかった。

     十一面観音像
     江戸時代初期 桜の一木造
     像高 180.5センチ 円空仏の中では大きい方であろう。
     背に書かれた本人の墨書きによると、一日で彫りあげたそうである。
     生成りの円空といわれるとおり、自然木の形をそのまま生かしたのか、腹部が膨らんで
     いるが、それがため、安産の観音とも親しまれたそうである。
     その顔は、優しさの中に、憂いを含んでおられるように見えて、自然と手を合わせてし
     まう。

     4回の連載の、独りよがりな記述に多くの方から拍手やコメントを頂くことが出来たし、
     初めての方にも目を通してもらえたことは嬉しいことであった。

     ガイドブックや専門書を見れば書いてあるようなことは極力省いて、知ったかぶりになる
     のを控えようとしたけれど、それでも読んで下さる人にとって、煩わしくなっていることを
     お詫びしなければならないと思う。

     今回のツアーで、素晴らしい観音像に出会う度に胸の震えるような体験をしたけれど、
     この自分に、こういうものに反応するハートがまだ残っていることに気がついた。


       クリックシテいただいたら拡大します
     

     

     

     

     

湖北の十一面観音 (3)  [594]

2014-01-09 18:57:30 | 淡彩スケッチ
     向願寺 十一面観音像

     次に訪れたのは向願寺であった。
      
     天平、平安の時代を通じ七堂伽藍のお寺、光眼寺として栄えていたが、
    時勢とともに衰えた上、元亀元年の浅井、織田の戦い(1570)により
    堂宇はことごとく焼失したが、このさなか住民たちは観音を土中に埋蔵して
    守ったという。
     寺領も没収され、光眼寺は廃寺とされ新たに向願寺が建てられた。
     多分庵のような小さなお堂であっただろうが、その中で、十一面観音像は
    秘仏として永らく住民たちの手で守られてきた。

     その後、明治21年の調査を経て、同30年に国宝に指定され、大正14
    (1925)年に阿弥陀堂(本堂)が建てられて、ようやくこの堂に移されたが、
    現在は隣接の収蔵庫(慈雲閣)に安置され、この堂には阿弥陀如来が祀られている。

     この観音の祀られている堂や所在がいろんな呼び方をされているのは、この寺の
    変遷にかかわているようだ。
     地名を取って通称、渡岸寺観音堂(向願寺)とか、単に向願寺であったり、
     向願寺に属する渡岸寺観音堂
     向願寺所有、観音堂
     はたまた、向願寺飛地境内観音堂 などなど。

   十一面観音
     平安初期の作 国宝
     ヒノキの 一木造 像高194センチ
     表面は下地の漆が少し残っているほか、その上の彩色は消えている。
     丁寧に守られていたのか、無傷。

     精密な彫りは驚くばかり、それは頭上の他の10面にも及んでいる。
     異国的な風貌や頭上の面の役割に応じた個性的な表現、一歩踏み出す体の微妙な
     ひねりの美しさに惹きつけられた。
     国宝指定されている各地7体の十一面観音の内、最高のものとか、日本木造彫刻の
     最高の傑作と云われるのもなるほどと思った。

     像の裏側に回った時、右足の踏み出しによる重心の移りがはっきり見てとれて、
    手持の資料コピーの裏側に慌ててスケッチした。
     近くからの見上げにより、かなり図太くなっているのを承知の上で掲載した。

        

        下の写真はクリックして頂くと大きくなります
        

        

湖北の十一面観音 (2)  [593]

2014-01-07 18:23:45 | 淡彩スケッチ
     
              石道寺   サイズ サムホール

     
              石道寺周辺   サイズ サムホール

     石道寺 
     この寺も前回に書いた鶏足寺と同じように己高山中にあり、平安から鎌倉時代にかけて、
    己高山七大寺の一つとして栄えていたが、戦国時代には信長の兵火により、仏像は
    守られたものの、全焼。
     関ヶ原の戦いの終わった1605年には再興したが、徐々に荒廃し、明治29年(1896)
    には、ついに無住の寺となったという。

     その後、村人たちの手で、大正3年(1914)に本堂を現在地に移築、その翌年、
    石道観音堂(旧高尾寺)と合併し、新石道寺が誕生。
     その時より今日まで、里の人により守られている。

     現在の石道寺はいかにも山から下りてきたかのように、谷筋が村里へ流れ降りる直前の
    川沿い高台に建っている。
     一行全員が入りきれないほどの、小さなお堂で、外部には、修理のためのシートが
    架けられていた。
     堂内はうす暗かったけれど、手の触れることのできるほどの近くから、置かれている
    大型の懐中電灯の光を当てて観音さまを拝観することが出来た。

  石道寺十一面観音立像 
    重文 平安中期 
    像高 173センチ ケヤキ材による一木造
     唇にほのかに朱がのこり、一歩右足を踏み出そうとするバランスの取れた姿は、
    これでも仏像かと思うほど、人間、それも年若い女性の雰囲気をただよわせている。

     井上靖がその著書「星と祭」でこの像を村の若い娘に例えたことは広く知られている。
     白洲正子は「ほんの少し右の親指を反らし気味に、一歩踏み出そうとする足の動きは
    魅力がある」と書いている。

      

      

湖北の十一面観音 (1)  [592]

2014-01-05 16:52:17 | 淡彩スケッチ
    
            己高閣外観 

    
            雪の残る己高閣周辺  サイズ 2面共サムホール

     昨年の暮れ、湖北の十一面観音を観て廻るバスツアーに参加した。
     「白洲正子を魅了した十一面観音達」というものであった。

     JR長浜のまだ向こう、余呉湖に近い木之本町の鶏足寺と石道寺、高月町の向源寺、
    そして伊吹山麓の大平寺観音堂の4体の十一面観音を、安土城考古博物館大沼副館長の
    案内のもとで、40人の参加者と共に巡った。

     なぜこの地に十一面観音が多いのかと云うことや、此の4か寺の観音全てが、当初安置
    され祭られていた場所を余議なく離れざるをえなくなって、今日まで村人に守り続けられ
    ているという話は興味深いものであった。

     大沼氏が、これら観音を語る時は、これらの観音が地元の人々にいかに親しまれている
    かが伝わってくるような、観音を人として扱う語りであった。

     最初の拝観は「己高閣」と「世代閣」であった。

     長浜市木之本町古橋の東方に立つ己高山の山中には、奈良時代より盛衰を繰り返しながら
    五ヶ寺と別院六ヶ寺があって、湖北の仏教文化圏を築いていたが、時代の推移やこの地方の
    経済力では支えきれなくなり、衰退、廃寺或いは堂の焼失などした為、仏像や寺宝等が地元
    住民の手により麓におろされて、永らく守られてきたが、それらのものの内、元鶏足寺に
    有ったものが、国の補助により造られた「己高閣」に、その他の寺のものや、近くの世代山
    の戸岩寺のものが、地元住民の浄財により造られた「世代閣」に収蔵され、そのまま住民に
    より管理されているという。

    「己高閣」では、鶏足寺本尊であった十一面観音立像を拝観した。
     ヒノキの一木造り 彩色  像高 172センチ
     平安時代中期  重文
     1000年もの間、数奇な運命をたどられてこられた観音さまは、本尊らしく堂々として
     いて品位の高い、優しい姿のものであった。


    「世代閣」では、薬師如来立像を観た。
     クスノ木の一木造り、重文 奈良時代の作で、県内(滋賀)最古
     像高 180センチ 迫力十分、堂々とした風格あるものであった。

     その他に、同じく奈良時代の作、十二神将のうち3体。重文 像高 約100センチ
     腕は欠損していたりしてかなり傷んでいるが、県内ではここだけにしかない木心乾漆造で

     本来、この辺りでは見られない高級手法で、如何にこの地が重要視されていたかの証左で あるという。

       
         鶏足寺 本尊  十一面観音

       

         薬師如来立像

       
         十二神将のうち3体

出会い  [591]

2014-01-03 21:26:18 | 淡彩スケッチ
     
          サイズ  サムホール

     
          母屋
     
     
          納屋 Ⅰ

     
          納屋 Ⅱ

     願ってもない陽気につられて、通りなれていない道で、車を止めて小さい用紙に
    一枚スケッチをした後、この山裾に点在する家々を見ていて、もっといいものが
    有りそうに思えて用心深く徐行している時、立木の裏にほんの少し見える屋根に
    惹かれて、脇道の農道を入って行くと、そこに素晴らしい茅葺き民家が建っていた。


     母屋と二棟の納屋があり、母屋は18世紀前期の建築、納屋はいずれも19世紀中期の
    建築という。
     ひとり住まいの、80歳を越える御主人から2時間近かくも懇ろな案内を受けることも
    出来た。
     改めて絵を描きに来させて頂く了解も受けることもでき、楽しみが増えた。

レモン    [590]

2014-01-02 18:44:33 | 淡彩スケッチ
       
               レモン  サイズ サムホール

         私の机の上は片付いていることは無い。

        キーボードは勿論のこと,筆、筆洗い水桶、パレット等など。
        整理の出来ていない山積みの郵便物も。
        要するに、いつでも暇つぶしが出来るようになっている。
        そして今はレモンが2個が。
        もう十日あまりも転がっている。
        少し前までは柚であったし、花梨ででもあった。

        年末からの読み掛けの随筆集、熊谷守一の 「蒼蠅」にこんなことが出ていた。
        「石ころ一つそばにあれば、それをいじって何日でも過ごせます」と。
        私にはそこまでは出来ないけれど。

花いろいろ   [589]

2014-01-01 01:25:33 | 淡彩スケッチ

     
             サイズ  F6

      明けましておめでとうございます。
      いいお年をお迎えになられましたでしょうか。
      新年早々、この部屋をお訪ねくださりありがとうございます。

      当方、今年は、悪あがきになとうとも、思うまま、好き勝手に描こうと
     思っております。
      どうぞお付き合い下さって、辛口のコメントで後押し下さるようお願いいたします。