散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

新宿末広亭(新宿3丁目)

2012-09-30 07:00:51 | Weblog
     

        

 ミスター麹町からもう一枚、末広亭の写真がきましたね。落語でも聞きにいったかな。明治

通りから一本東に入った通りにあります。昔、明治通りのビルの7階か8階に洋画の2番館が

ありまして、よく通いました。映画5回、寄席1回の割合でした。この末広亭の歴史は古くて

明治30年(1897)浪曲師の末広亭清風によって創業したと伝えられます。戦災で焼けま

したが初代席亭で、当時建築関連の仕事をしていた北村銀太郎氏が、昭和21年(1946)

に再建しました。  

 寄席は日本人の心のふるさとと言われ、激動の時代の憩のオアシスですね。末広亭はビル化

していく寄席の風潮をよそに江戸以来の伝統を重んじ、その雰囲気を現代にとどめる定席寄席

です。私の時代は、志ん生の品川心中、円生の文七元結、ちょっと下がって志ん朝の酢豆腐な

どをよく聞きました。何度聞いても面白かったですよ。

花園神社(新宿5丁目)

2012-09-29 06:45:59 | Weblog
 

      拝殿

ミスター麹町が新宿3丁目界隈を歩いたらしく花園神社の写真がきました。花園神社は徳川

氏が武蔵の国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたと伝えられています。

寛永年間に現在の地に移転しましたが、たくさんの花が咲き乱れていたので花園神社と呼ばれ

たのが社名の由来とされます。  

     

 境内社がいろいろありますが、芸能浅間神社もその一つ。御祭神は木花之佐久夜毘売(コノ

ハナノサクヤヒメ)だそうで、江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌

曲など芸能関係の奉納が多いことで有名です。藤圭子の夢は夜ひらくの歌碑があります。若い

人のために、宇多田ヒカルのお母さんが藤圭子さんです。

 圭子の夢は夜ひらく 聞いてください、懐かしい唄を。

     

 威徳稲荷神社 昭和3年4月頃に建てられたと伝えられます。女性の参拝者に人気が高い神

社だそうですよ。奉納鳥居が並び、異界へのトンネルに足を踏みいれたような不思議な感覚に

とらわれるといいますね。

追分だんご

2012-09-28 06:38:28 | Weblog
    

       

 ミスター麹町から「追分だんご・和菓子」が来ました。青梅街道と甲州街道の分岐点を新宿

追分といいます。昔、太田道灌が鷹狩に出かけて夕暮れとなり、地元の豪族が団子を出したと

ころ、道灌さんが大いに喜んだといいます。以来「道灌だんご」といわれていましたが、内藤

新宿が伝馬の宿駅となって、道灌だんごを旅人に出していた茶屋も新宿に越してきました。そ

れから誰いうとなく「追分だんご」となったそうです。  

   

 送ってくれたのは、追分だんごで製造している「黒糖虎巻」と「芋スイート」です。なかな

かの和菓子で人気もあるようです。工夫して美味しい菓子を出していますね。

生命の言葉(東京都神社庁)

2012-09-27 07:09:22 | Weblog
      

 9月の生命の言葉「敬天愛人 西郷隆盛」とあります。これは南洲翁遺訓で、天を敬い、天

が人々を愛するように人を愛する。とのことです。  

 西郷隆盛はご存知のとおり、戊辰戦争では薩摩藩の軍事を指揮し、江戸城無血開城を実現さ

せました。明治4年参議に就任するが政府首脳と衝突して下野。明治10年西南戦争を起こし

て敗れ、自害しました。この言葉は、いかなる艱難にも耐え、激動の世を生き抜いた西郷の信

念ともいうべき言葉・・と解説されています。

西郷隆盛屋敷跡(日本橋小学校)

2012-09-26 06:23:40 | Weblog
    

       日本橋小学校

 中央区日本橋人形町1丁目の日本橋小学校正門横に、西郷隆盛屋敷跡の表示板があります。

説明によると、明治の初め明治維新の元勲西郷隆盛の屋敷がありました。屋敷には長屋に15

人ほどの書生を住まわせ下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。  

 明治6年に征韓論で下野し、鹿児島に帰郷するまでここに居住したわけです。あやつり人形

などの小屋があり、それらの人形を作る人形師や、雛人形手遊物などを商う店がたくさん立ち

並んでいた人形町に、西郷さんの屋敷があったとは初めて知りました。


鯨が泳ぐ町(人形町)

2012-09-25 07:02:20 | Weblog
    

       

 人形町の街角に鯨がいました。人形町一帯は江戸の昔、江戸歌舞伎の市村座や中村座、人形

浄瑠璃の糸あやつり人形や、手あやつり人形などの小屋が集まり、芝居見物が盛んでした。  

 これらあやつり人形のバネは、今でも鯨のヒゲが使われているそうです。特に人形浄瑠璃か

ら伝承された、文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨のヒゲでなければ

出せないそうです。鯨さんありがとう・・ですね。大切な鯨を町に泳がせているわけ。鯨さん

ありがとうデス。

日馬 乾坤一擲 綱決める

2012-09-24 06:31:59 | Weblog
  NHKテレビ

         

 大相撲9月場所千秋楽結びの一番、近来稀に見る熱戦でしたね。日馬富士が横綱白鵬を右下

手投げで降し二場所連続全勝優勝を果たして、横綱昇進を決定的にしました。本当に鳥肌のた

つような力相撲でした。解説の北の富士さんが「あぁ疲れた 力が入った」とため息をついて

いましたね。素晴らしい相撲でした。

 やれ13勝したら・・とか、14勝でも内容によるとか、いろいろ言われていましたがこれ

なら「文句ないだろう」でしたね。二場所連続全勝優勝して昇進を決めたのは、遠く戦前あの

双葉山、近年は貴乃花の二人だけと聞きます。おめでとうございます。今場所は6大関のうち

3大関が途中休場でしたが、土俵は大いに盛り上がりましたね。
  

幼稚園児の自画像

2012-09-23 06:55:34 | Weblog
    

        

 鎧橋から地下鉄人形町駅へ歩くと、日本橋小学校があります。ここは幼稚園も併設されてい

て、元気な声が聞こえていました。私の大好きな園児の絵が飾ってありました。よく見ると、

幼稚園の20周年を記念して子どもたちが、自画像を描いたものらしい。

    

 はじめ、お母さん、お父さんを描いたかとおもいましたが、どうみても「自画像」ですね。

 なおゆきくん、くるみちゃん、ゆうきくん、はるかちゃんなど、みなさん上手にできました

ね。通行中の人々も笑顔になっていましたよ。



 

鎧の渡し跡(小網町~茅場町)

2012-09-22 06:38:05 | Weblog
    

        

 鎧の渡しは、江戸時代の元禄年間以来の切絵図等に記される日本橋川の渡し場で、明治5年

(1872)に鎧橋が架けられるまで存続しました。伝説によると、源頼義が奥州平定の途中

ここで暴風逆波にあい、鎧を海中に投げ入れ龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡れたので以

来ここを鎧が淵と呼んだといわれています。  

    現在の鎧橋

 また、平将門が鎧を納めたところという説もあります。安藤広重の「江戸名所百景」には、

渡しの図が描かれています。

西新宿のコクーンピル

2012-09-21 06:04:38 | Weblog
    

     新宿西口

 ミスター麹町から西新宿の珍しいビルの写真がきました。新宿西口といえば小田急、京王電

鉄のピルが思い浮かびますが、そこから副都心をみるとこんな珍しいビルがあります。写真中

央の特徴のあるビルは東京モード学園のビルです。「創造する若者を包み込み、触発させると

いう意味を込めてイメージしたというコクーン(繭)のような外観が特徴」です。  

 入居する学校は東京モード学園、HAL東京、首都医校で、約1万人の学生が通学している

そうです。高さは、学校法人が所有するビルとしては最も高いといわれています。地上50階

の最頂部が203m、地上50階、地下3階です。