散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

上野 時の鐘

2008-07-31 07:32:14 | Weblog
 

 時の鐘は江戸時代、時を知らせるものでした。当時、江戸市中には、日本橋石町

や浅草、上野など9カ所の時鐘がありました。中でも浅草、上野の鐘は芭蕉の句の

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名です。

 この季節、木の葉が茂っていまして、鐘楼がくっきりとは見えません。上野精養

軒の駐車場に入り込めばと思いましたが、遠慮しました。

百日つづく紅の色

2008-07-30 07:30:07 | Weblog
 

 

 夏真っ盛りです。早朝、公園に足をはこんで森林浴、老化防止の深呼吸20回で

すっきり。上ばかり見ていないで足元を見ると、かたつむりがいました。昨夜の雨

は人間ばかりでなく、植物にも鳥にも、虫にも恵みになりました。  

 

 公園を出たところで、咲いたばかりの百日紅を発見。9月までで60日、まだま

だ夏はつづきます。


小松宮彰仁親王銅像 (上野公園)

2008-07-29 07:39:52 | Weblog
 

 伏見宮邦家親王の第8王子。慶応3年(1867)東伏見宮嘉彰親王と改称。同4

年の鳥羽伏見の戦いに征東大将軍として参戦。その後、戊辰戦争に従軍して各地を

転戦しました。  

 明治10年、西南戦争の負傷者救済団体として博愛社が創立され、総長に就任さ

れました。明治15年小松宮彰仁親王に改称。明治20年博愛社が日本赤十字社と

改称され、総裁として活動発展に貢献されました。

 明治36年、58歳で没。銅像は明治45年2月に建てられましたが、皇族の軍

人姿での騎馬像は珍しいとされています。(台東区教育委員会)
 

正岡子規記念球場(上野公園)

2008-07-28 07:55:35 | Weblog
 

 JR上野駅公園口の東京文化会館の西側に、俳人正岡子規の名を冠した野球場が

あります。子規が学生時代に仲間と野球を楽しんだ「草の原」が野球場になったわ

けです。  

 2年前にリニューアルされ、台東区俳人連盟と地元軟式野球連盟の話し合いで、

正式に「正岡子規記念球場」になったと聞いております。恒例の野球大会も近く開

催されるようです。  

 

 バックネット裏には、ボールのプレートに「春風や まりを投げたき 草の原」

の句が刻まれています。子規の古里である四国松山市には、盟友夏目漱石にちなん

だ「坊ちゃん球場」もあります。

パンダ橋(東上野ー上野公園)

2008-07-27 07:24:04 | Weblog
 

 

 パンダ橋は上野浅草口の車坂から上野公園まで、広い上野駅をまたぐ大陸橋で

す。従来なら20分か30分かかった道のりを、わずか5分か10分で通過できる

ようになりました。  

 平成12年の完成ですが、11年の歳月をかけた大工事だったわけです。パンダ

橋の碑は、白と黒のコントラストの花崗岩で、平成13年に公募で決まった橋の名

「パンダ」にぴったりですね。  

 

 橋の幅も広く、いざ避難というときにも充分役に立つものと思われます。写真下

は橋からアメ横方面に下る坂道です。

古川緑八(ふるかわろっぱ)

2008-07-26 07:52:43 | Weblog
 

 この人を知っている人も少なくなったかも。喜劇俳優です。つくばエクスプレス

の浅草駅。エスカレーターの壁面に、浅草ゆかりの俳優や作家の人達のパネルが飾

ってある中に「古川ロッパ」さんがあります。

 本名古川緑郎。明治36年~昭和36年。加藤照麿男爵の六男として生まれ、古

川家の養子となります。早稲田大学在学中に、菊池寛に招かれて映画雑誌の編集者

となります。徳川無声、大辻司郎等と「ナヤマシ会」に参加して声帯模写で評判を

とります。昭和8年、浅草で「笑の王国」を旗揚げして、エノケンの対抗馬と目さ

れようになります。その後、東宝に移り菊田一夫を台本作者として黄金時代を築き

ました。没後、「古川ロッパ昭和日記」が出版されました。

浅草演芸ホール(六区)

2008-07-25 07:35:22 | Weblog
 

浅草演芸ホールは、鈴本演芸場(上野)、新宿末広亭、池袋演芸場と並ぶ、東京

の「落語定席」のひとつです。「落語定席」とは、1年365日、休まず何時でも

落語の公演を行っている劇場のことで、「寄席(よせ)」とも呼びます。

 昭和39年(1964)に、浅草フランス座を増築して浅草演芸ホールとしてオ

ープン以来、10日替わりで落語協会と落語芸術協会が、交互に公演を行っていま

す。落語のほかにも、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねな

ど、バラエティーに富んだ番組を公演しています。  

 昼の部は11時40分に始まりますが、1時間前には行列が出来るほど人気があ

ります。賑やかですよ。

山谷通り・コツ通り(南千住)

2008-07-24 08:07:36 | Weblog
  駅の工事中

 

 

 南千住駅(JR・地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス)の西を日光街道に続く

「山谷通り」は、通称「コツ通り」とも呼ばれ、両側に商店が建ち並んでいます。

 かつては畑が広がっている通りでした。「コツ」の名の由来は、小塚原(こつか

っぱら)を略した、小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(コツ)と付けられたな

どの説があります。  

 江戸時代のお仕置き場であったこの地は、刑死者の菩提を弔うため、寛文年間、

両国回向院の子院別寮で、刑死者や牢死者を埋葬する小塚原回向院が創建されまし

た。安政の大獄、桜田門外の変などで犠牲になった、幕末維新期の志士や浪士の墓

も多く、今も香華を手向ける人が絶えません。  

 

 現在は、南千住駅の工事が行われています。このお地蔵さまは「首切り地蔵」と

呼ばれていますが、刑死者の菩提を弔うため造出されたものです。世の移り変わり

を見つめてきて変化に驚いているかもと思います。

おたぬきさま鎮護堂(浅草2丁目)

2008-07-22 07:28:38 | Weblog
  本堂です

 

 鎮護堂は、「おたぬきさま」の名で親しまれて、防火、盗難除、商売繁盛の守護

神として知られています。明治5年(1872)浅草寺境内に住みついた狸の乱行

を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘が貫主と相談の上、自身の邸内に祀っ

たことがはじまりと伝えられています。数度の移転を経て、明治16年伝法院境内

の当地に再建しました。  

 現在の入母屋造の本殿は、大正2年に再建されたものです。祭礼は毎年3月17

・18日に行われています。  

 境内には昭和38年に建てられた幇間塚があります。幇間のことを「たぬき」と

呼んだことから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と、久保田万太郎

の「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の

名が刻まれています。(台東区教育委員会)