散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

居酒屋 かあさん

2008-03-31 07:48:30 | Weblog
 

 「かあさん」という名の居酒屋です。かあさんの煮物、かあさんの味、料理の心

は母心・・どこかで聞いたような。一日の労働を終えて、ちょっと一杯やりたくな

る時に「おふくろの味」に誘惑されます。  

 そのおふくろさんが「白い割烹着」を着ていたら、もうたまりません。このお店

には、全国地酒の旅、美味しいもの旅 とありますから、お調子をもう一本とすす

みますね。

隅田公園少年野球場

2008-03-30 07:52:32 | Weblog
 

この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日の希望」をス

ローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した、日本

で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていきまし

たが、中でも日本が誇る世界のホームラン王 巨人軍 王貞治氏もこの球場から育

った一人です。(墨田区教育委員会)   

 都鳥の詩碑

 

この野球場の対面には 「都鳥さえ夜長のころは 水に歌書く夢を見る」と刻まれ

た都鳥の詩碑があります。日本童話民謡の先駆である野口雨情氏が、昭和八年に門

下生の童謡集の序詞執筆のため、この地に来遊の折唱われたものです。東京都民の

心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永

遠に保存します。(墨田区) 

言 問 団 子 (墨田区向島)

2008-03-29 07:33:08 | Weblog
 

 

 この団子は小豆餡と白餡、味噌味の餡の三色です。なかなか赴きのあるお菓子で

すね。浅草から桜橋を渡ってちょっと休憩しました。三個の団子とお茶は、なかな

の味でした。(600円です)   

 創業は江戸末期といわれます。「名にしおば いざ言問はん都鳥 我が思う人は

ありやなしや」。隅田川畔であることから、この歌の「言問」の団子と、何時の頃

からかこうよばれています。  

 

 桜橋から下流を眺めると、花は八分咲きになっていました。かなたには言問橋が

見えます。関東大震災の復興橋ですから、団子の方が先輩ということになります。

 言問と都鳥、そして団子はこの辺りの名物です。
 

桜橋 桜もち(墨田区向島)

2008-03-28 07:45:56 | Weblog
 

 

 隅田川に架かる唯一の歩行者専用橋、これが「桜橋」は昭和60年(1985)

に完成しました。桜が咲き誇る隅田川にふさわしい橋ですが、夏の花火見物にもよ

ろしいようです。形はエックス(X)字形です。  

 

 

 8分咲きの花を見ながら向島へ橋を渡ると、名物「長命寺 桜もち」です。この

店は元禄後期頃、創業者が土手の桜の葉を集めて塩漬けにして、桜餅を考案して長

命寺の門前で売り始めたのが始まりだそうです。人気があって、今でもお昼時分に

は売り切れの表示がありました。  

音無川・三ノ輪橋・山谷堀

2008-03-27 07:49:04 | Weblog
 

 

 音無川は王子で石神井川からわかれています。その清流は田端・日暮里・金杉を

流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川に

そそいでいます。今は暗渠になっていますが、明治のおわりまで灌漑用水として使

われていました。  

 三ノ輪橋から聖天町(現浅草7丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といいまし

た。安藤広重の「名所江戸百景」に描かれ、新吉原への遊客で賑わった堤でしたが

今ではその堤はありません。(荒川区教育委員会)  

 隅田川への落ち口である「山谷堀」も公園になっています。この季節ですから偵

察に行きました。5分咲きのようですね。

太田道灌像 (日暮里駅前)

2008-03-26 07:29:40 | Weblog
 

  舎人ライナー駅

 日暮里・舎人ライナーが3月30日運転開始になりますので、様子を見学に来ま

した。新しいビル、階段、車両がキレイで、期待も高まってきました。

 日暮里駅東口の道灌さんのこの姿を見ると、山吹のはなしを思い起こします。例

の「七重八重 花は咲けども山吹の みの一つだになきぞ悲しき」です。古今亭志

ん生の噺では、このとき道灌さんは「蓮の葉ならわかるが山吹では役にたたない」

と言ったそうです。面白いですね。  

 このブロンズ像は平成7年12月、東京荒川ライオンズクラブの寄贈で、台座を

あわせると高さ8メートルあります。作者は、僧侶で彫刻家であった橋本活道氏で

す。躍動感あふれる姿になっていますね。

袈裟塚の耳無不動 (荒川3丁目)

2008-03-25 07:51:55 | Weblog
 

 

 荒川区の昔ばなしに耳無不動のおはなしがあります。あらかわ史跡・文化財デー

タの資料を紹介しましょう。婚約者のお絹を悪者にさらわれた光三郎は、九州から

江戸へと探しに出ますが見つからず、出家して僧侶となり光慧(こうえ)と名乗りま

す。ある日、吉原の遊女になっているお絹を見つけ、寺の金を持って吉原に通いつ

めて寺を追い出されます。その後、真言宗千光院の住職に招かれますが、長年の悪

事の結果か、腰が抜け、果ては耳まで落ちてしまう悪病に苦しみます。 

 ある夜、お不動様が夢枕に立ち「村人たちの救済に努めれば救われる」と告げま

す。光慧は門前に自分の袈裟を埋めて「袈裟塚」と称し、五穀豊穣、往来安全を祈

願しました。その上に石の不動を建立しました。  

 これが今も残る「袈裟塚の耳無不動」です。このお不動様は耳の病にご利益があ

ると伝えられ、穴を開けたお椀を奉納することで有名です。

区民が憩う荒川公園(荒川2丁目)

2008-03-24 07:29:53 | Weblog
 

 

 広さ14.700平方メートルに及ぶ公園はお花見の季節です。桜の見頃はあと

何日かかかると思いますが、緋寒桜が濃い紅色の花をつけています。通りからの入

り口には、「夢」という女性像が迎えてくれます。作者は長崎市の平和祈念像を製

作した北村西望氏です。  

 四季折々の憩いの場、園内には釣りのできる池もあり、夏は水の流れが涼を呼び

ますし、秋には紅葉が素晴らしいと評判です。

七重の塔と首塚 (円通寺)

2008-03-23 07:48:28 | Weblog
 

 

 円通寺の参道を入って右側に「七重の塔」があります。この塔には円通寺の由緒

が刻まれています。  

 この七重の塔を囲むように四十八の塚があります。これは昔、八幡太郎義家が奥

州征伐のときに得た、賊の首四十八をここに埋めて塚を築いたものです。それでこ

の辺を小塚原と呼ばれるようになったと言われています。また、傍の立て札には三

代将軍徳川家光の鷹見の松とあります。この街道を通ってしばしば鷹狩に出かけた

ものと思われます。

円通寺 彰義隊士の墓(南千住1丁目)

2008-03-22 07:44:41 | Weblog
 

 円通寺は延暦10年(791)の創建と伝えられます。聖徳太子作といわれる聖観

音像を本尊とし、江戸時代は観音堂、百観音と呼ばれたお寺です。近年改築されて

鉄筋コンクリート造のモダンな寺院となりました。  

 

  黒門です

 境内には彰義隊士のお墓があります。それと寛永寺の黒門が保存されています。
 
 これは、上野戦争で官軍との戦場の真ん中にあったもので、弾痕跡も著しいもの

です。戦死した隊士の遺体を、仏磨和尚が上野山内で荼毘に附して、この寺に埋葬

しました。このような経緯があって、上野の黒門は明治40年10月に帝室博物館

から下賜されたものです。東京都文化財に指定されました。荒川区史跡にも登録さ

れています。

新門辰五郎の碑

 和尚の遺体収容と埋葬に協力した、侠客新門辰五郎さんの碑が彰義隊士のお墓の

近くに建てられています。