散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

石川啄木歌碑(西浅草)

2012-08-31 06:34:09 | Weblog
    

         

 台東区西浅草1丁目の等光寺に石川啄木の歌碑がある。啄木の処女歌集[一握の砂]から、

「浅草の夜のにきわいにまぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」とあります。明治41年に

文学者として身を立てるため上京し、明治43年には歌集[一握の砂]を出版しました。  

 しかし苦しい生活の中で肺結核を患って、明治45年4月13日に小石川区久堅町の借家で

死去しました。27歳でした。親友の土岐善麿(歌人・国文学者)の生家であった縁で、葬儀

はここ等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれました。墓は函館市立待岬

にあります。歌碑は、啄木生誕70年にあたる昭和30年に建てられたものです。

東京メトロ マナーポスター

2012-08-30 06:13:27 | Weblog
    

 きゃっきゃっと話してますね。まわりの事もかまわずに大声で、昔は「はしたない」なんて

言われたものですが。マナクマくんもびっくりしていますよ。

 「なぜそんなに大声なの?楽しいのはわかるけれど」、電車内での声の大きさにご配慮くだ

さい・・と書いてありますが、もともと内緒ばなしが出来ない人もいますからね。若い娘さん

の話を聞いているのも面白いかもデス。

智泉院(日本橋茅場町)

2012-08-29 06:37:26 | Weblog
    

          

 鎧島山(がいとうさん)智泉院の本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(えしんそうず)作

と伝えられ、江戸時代には、山王権現の本地仏として、山王御旅所(現、日枝神社)内にあり

ました。明治時代の廃仏棄釈などの影響もあって、現在、この薬師如来は川崎市の等覚院に安

置されています。智泉院は「茅場町薬師」の名で広く知られた名刹で、縁日には植木市も開か

れ、江戸庶民の厚い信仰を集めていました。  

    

 瑠璃殿前の天水鉢は、天保12年(1841)に本尊が開帳されたのを記念し奉納されたも

ので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名が刻まれています。天水鉢は当時の賑わいを

現在に伝えるものとして、中央区文化財に登録されています。

宝井其角住居跡(茅場町)

2012-08-28 06:37:41 | Weblog
    

        

 宝井其角(たからいきかく)は、芭蕉門下第一の弟子といわれています。芭蕉の没後、派手

な句風で洒落風を起こし、その一派は江戸座と呼ばれ、住まいは茅場町でした。  

 かなりの放蕩児だったと伝えられています。「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」「暁の反吐は

隣の時鳥」などの句からも様子がしのばれます。この放蕩や酒が災いしたのか47歳の若さで

他界しています。

兜神社(日本橋兜町)

2012-08-27 06:38:54 | Weblog
    

        兜岩 

 東京証券取引所の北、道路を挟んで日本橋川の畔に神社があります。これが証券界の守護神

といわれる兜神社です。祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」で、大国主命と事代主

命が合祀されています。この神社は、明治11年に東京証券取引所が設けられるとき、取引関

係者一同の信仰の象徴と鎮守として造営されました。  

 境内には兜岩と呼ばれる岩があり、これにはいくつかの謂れがあります。後3年の役にて、

源義家が奥州から凱旋したとき、戦勝を祝い兜を楓川の辺りの土中に埋めて塚をつくったそう

です。これを兜塚と呼び、いつしか「兜岩」となったとのことです。

銀行発祥の地(日本橋兜町)

2012-08-26 06:32:11 | Weblog
    

       

 ここが銀行発祥の地です。銀行名は第一国立銀行、初代の頭取は渋沢栄一さんです。大蔵省

紙幣頭であった渋沢栄一が立案して、明治5年11月に交付された国立銀行条例による最初の

銀行です。最近は渋沢栄一さん関係が出てきますがこれは偶然ですね。  

 日本の銀行には「金融機関コード」で4桁のナンバーが付与されていて、0001は「みず

ほ銀行」となっています。歴史を紐とくと、明治6年(1873)創設の第一国立銀行から第

一銀行、次に第一勧業銀行、それから「みずほ銀行」となりました。ちなみに0000は日本

銀行なんですね。

JR中野駅北口再開発

2012-08-25 06:31:17 | Weblog
    セントラルパーク

 ミスター麹町から久しぶりに中野駅北口周辺の写真が来ました。中野駅は20年位ご無沙汰

していますが、中野サンプラザ(1965年開業・昭和40年)を思い出します。何度か行き

ましたが、警察大学校がありましたね。聞けばこの学校が府中市に移転した跡地の再開発をす

るもので、中野セントラルパーク(東棟)は完成し、南棟も近く完成するとか。賑やかになり

ますね。よく立呑み焼き鳥屋さんに行ったものですが。  

    中野サンプラザが懐かしい

 たしか昔は陸軍中野学校があって特殊任務の人を養成したと聞きました。そのまた昔、徳川

五代将軍吉宗の生類憐みの令による「犬屋敷」もあったといいますね。話が古くなりましたが

ここには早稲田、明治、帝京大学のキャンバスが出来るといいますから大開発です。大変賑や

かになりますね。その頃に又写真を期待しましょう。

日本銀行旧本館(日本橋本石町)

2012-08-24 06:34:19 | Weblog
      

 渋沢栄一銅像から外堀通りを挟んで日本銀行本館が見えます。東京新聞に連載中の幸田真音

氏作「天佑なり」は、若き高橋是清がこの本館の建築に携わって見事に完成させる経緯が載っ

ていました。石積み造りで地上3階地下1階、明治29年(1896)2月の完成です。  

 ベルギーの中央銀行を模範に設計されたといわれます。当初は総石造りの予定でしたが、明

治24年(1891)の濃尾地震の被害状況から、建物上部を軽量化することにより耐震性を

高めるために、1階を石造りにして、2~3階は石を貼り付けたレンガ造りに変更されたとい

われます。この建物は国指定の重要文化財となっています。

渋沢栄一像(常盤橋公園)

2012-08-23 06:34:03 | Weblog
      

 千代田区大手町2丁目の常盤橋に続く公園にあります。渋沢栄一は幕末から大正初期に活躍

した実業家というのが一般的な常識です。天保11年埼玉県深谷市に生まれ、一橋慶喜に仕え

ますが、後に明治政府に出仕し大蔵省で財政改革に尽くします。後に退官し、第一国立銀行、

王子製紙、東京ガスなど約500社の設立など、実業界の指導的役割を果たしたことで知られ

ています。  

 氏は「私利を追わず、公益を図る」という考え方を生涯にわたって貫き通した人物として、

広く尊敬を得ています。銅像の前には日本銀行本店の旧館が見えますが、日本銀行券の発行に

ついても、指導的役割を果たしています。

はなし塚(台東区寿2丁目)

2012-08-22 06:26:50 | Weblog
    

        

 地下鉄田原町南側の本法寺にある「はなし塚」です。毎年8月の終戦の日になると話題にな

りますが、落語会が戦時中に自粛した「禁演落語」の台本をこの塚に封じ込めたというお話な

んです。本法寺の塀には志ん生、円生、柳好などの名が彫られています。  

      

 お若い方は当時の雰囲気をご存知ないでしようが、「欲しがりません勝までは」の時代です

からね。花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺は自粛となって、江戸文化の名作「明烏」「五人廻

し」「木乃伊取(ミイラとり)」などは封印されました。戦争が終わって昭和21年9月の禁

演落語復活祭で生き返り、代わりに戦時中の「進め一億火の玉だ」的なはなしをこの塚に封じ

込めたというお話です。