散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

除夜の鐘 (千住・勝専寺)

2006-12-31 08:13:59 | Weblog
 

 いよいよ新年が近づいてきました。何処からか聞こえてきますね、ゴーンゴーン

と。去り行く年の煩悩をはらい、来年の幸福を願いましょう。108回の鐘は、い

わゆる人間の煩悩の数といわれますが、いろいろと説があります。ここでは簡単な

掛け算で四苦八苦といきましょう。4×9+8×9=108ですね。 

 

 それと、このお寺さんには「閻魔さま」がいます。嘘を言ったら舌を抜かれます

よ。今年を反省しましょう。決して「昔の話」ではありません。すっきりして、ど

うか良いお年をおとり下さい。

神田川・柳橋 

2006-12-23 08:25:47 | Weblog
 

 

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江

戸時代の中頃で、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)

とは、渡し舟で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697)に南町

奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。

 その頃の柳橋通りには隅田川の船遊び客の船宿が多く、「柳橋 川へ布団を ほ

うりこみ」と川柳に見られるような賑わいぶりでした。明治20年に鋼鉄橋となり

関東大震災で落ちてしまいましたが、昭和4年に現在の復興橋が完成しました。

 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は基重な近代の

土木遺産として平成3年に整備し、現在は区民有形文化財に登録されています。

 

 神田川の上流を見ますと屋形船が舫ってあり、遠くに浅草橋が見えます。橋の

たもとには船宿もあり、長谷川平蔵の「密偵の粂八」が障子のかげから見ているよ

うな気がしました。(参考資料・中央区教育委員会)

鉄砲洲稲荷神社 (中央区湊1丁目)

2006-12-20 08:20:52 | Weblog
 

 

 鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入り口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を

集めてきました。寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に祀られましたが、明治

元年(1868)現在地に移転し、今日に至っております。

 関東大震災で被害を受けた境内は、昭和10年(1935)より復興整備され、

正面中央奥の社殿、神楽殿。摂社八幡宮、手水舎、神輿庫が設けられています。ま

た、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としてい

ます。昭和初期の神社建築と配置の有様をよく伝えています。

 懐かしい二宮金次郎の銅像があります。薪を背負って勉学に励む姿を範とした昔

が懐かしいと感じます。

 

泉岳寺 (港区高輪)

2006-12-11 08:04:16 | Weblog
 

 

 泉岳寺は慶長17年(1612)、徳川家康が外桜田に創建した寺院です。寛永

18年(1641)の寛永の大火災によって焼失し、現在の高輪の地に移転したと

いいます。  

 時の将軍・徳川家光が毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じて、高輪泉

岳寺の復興がなったといわれています。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来と

言われます。中門から山門への右側の大石内蔵助銅像です。

赤穂義士休息の地 (江東区佐賀町)

2006-12-08 08:05:03 | Weblog
 

 赤穂義士が吉良邸討ち入り後、永代橋を渡って霊巌島を通り泉岳寺に至ったとの

ことです。途中、永代橋東詰の佐賀町「ちくま味噌」で休息をした事を示す表示が

あります。ちくま味噌敷地内です。(以下全文) 

 赤穂四十七士の一人大高源吾子葉は、俳人としても有名であります。ちくま味噌

の初代竹口作兵衛とは其角の門下として、俳諧の友でありました。元禄十五年十二

月十四日討ち入り本懐を遂げた義士たちが、永代橋に差し掛かるや、あたかも当所

乳熊屋味噌店の上棟の日に当たり、作兵衛は一同を招き入れ、甘酒粥を振る舞い労

をねぎらったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め、又看板を書き残して泉

岳寺へと引き上げていったのであります。

 ちくま味噌十六代 竹口作兵衛氏の「口上」です。

回 向 院 (墨田区両国2丁目)

2006-12-05 07:56:28 | Weblog
 

 

 回向院は、およそ350年前の明暦3年(1657)に開かれた浄土宗の寺院で

す。この年、江戸では「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割

以上が焦土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。

 この災害で亡くなった人々の多くは、身元や身寄りの分からない人々でした。当

時の将軍徳川家綱は、無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと、現在地に土地を与

えて「万人塚」という墳墓を設けて大法要を行いました。この時、お念仏を行う御

堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。

 万霊供養塚の上に立つ「聖観音像」は、新しい風をイメージして平成14年に作

られたものです。また、天明元年(1781)以降は境内で勧進相撲が興行され、

今の大相撲の起源になりました。「力塚」は歴代の相撲年寄の慰霊のために、昭和

11年に相撲協会により建立されたものです。