散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

「元祖」七味とうがらし

2008-01-31 07:39:39 | Weblog
 

 「元祖」ですね。七味とうがらし といえば、そのむかし「両国薬研堀 りょう

ごくやげんぼり~ 」と朝夕売りに来たのを思い出します。自転車で来ますので、

慌てて飛び出したときにはずっと向うにいっています。  

 しかし心配なくです。 最初は町内に知らせる、二度目からが本当の商売になる

わけです。細かい商いですが利益はそれなりにでしょうね。今では、街の風物詩と

なっていますから面白いです。

毎日が特売日

2008-01-30 07:47:53 | Weblog
 

 近所のデスカウントストアです。バナナの叩き売りではありませんね。かなり安

い価格らしいです。消化はよいし、栄養価も高いのでバナナは病人にもすすめられ

る食品です。どこから輸入しているのか、今度はしっかり見てこようとおもってい

ます。毎日新鮮ですからどんな流通ですかね。  

一葉観音(浅草寺裏築山)

2008-01-29 07:35:34 | Weblog
 

 

 浅草寺の説明によると、埼玉県の秩父三十四観音札所の第三十二番法性寺の観音

像を模して造られました。蓮の一枚の花びらの上に乗り、揖を持ちかさをかぶった

お姿です。  

 新吉原の「ひで」という女の十二歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなっ

たことを偲び、息子の菩提のため、また今後このような事故のないように「ひで」

の願いによって造立されたものです。寛政九年(1797)造立されました。唐銅

製です。金網で保護されています。

被官稲荷社と新門辰五郎(浅草2丁目)

2008-01-28 07:46:51 | Weblog
 

 

 安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(京

都府南部)の伏見稲荷社に祈願しました。その効果があって病気全快。同二年、お

礼意味も込めて伏見から祭神を勧請し、稲荷社を創社して被官稲荷社と名付けまし

た。名称の由来は「出世」と解するということです。  

 上野寛永寺舜仁親王が浅草伝法院に隠居し、上野に行くのに便な新門を造りまし

たが、辰五郎はその門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれました。辰五郎

は町火消十番組の組頭としても多彩な活躍をしました。 

 

 社前には「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻まれた鳥居などがあります。(資料は台東区教育委員会)

浅草寺裏通りの風情

2008-01-27 07:46:52 | Weblog
 

 言問橋から通りを西に進み、馬道を横切ると浅草寺の裏通りに、料亭風建物が何

軒かあります。昔どこかで見た和の光景で、懐かしい風景です。通り抜けは自由自

在でしたけれどねぇ。  

 建物もどっしりとした質感があって、近くに検番もあり、芸者さんが歩いている

姿を想像できます。「私有地につき・・」の看板がいかめしいですが、この看板が

必要な平素の状況でしょうかね。

遊歩道も閑散(言問橋)

2008-01-26 07:48:55 | Weblog
  

 

 言問橋から大川(隅田川)を見ますと、寒風にさらされた遊歩道は閑散としてい

ます。墨田公園も人があまりいません。言問橋の欄干には朝顔のレリーフがありま

すが、気温6度で北西の風が強くて寒そうですね。 

 でもあと60日もすれば桜が咲いて人があふれるようになることでしょう。遠く

に見える黄色の橋は「桜橋」です。

道具市場(上野駅構内)

2008-01-25 07:50:49 | Weblog
 

 懐かしい「針の糸通し」「毛玉とり」などを売っている売店を見つけました。こ

れは、JR上野駅公園口から入ったところの通路に出た売店です。

 針の糸を通してくれる孫の代行には便利な道具ですね。毛玉とりなども重宝しま

す。「スワダの爪切り」には、新潟の職人が刃付けしたキレ味 などと書いてあり

ました。有名な燕市の職人さんですかね。道具市場と幟が立っていましたが、通行

人も思わず足を止めていました。

雪が降りました

2008-01-24 07:48:45 | Weblog
 

 昨日は震え上がりました。暦は大寒、天気予報はピタリと当たって朝から雪が降

りました。東京の正午の気温1.6度、節分まであと10日余りですが、暖かい陽

射しがこいしいです。  

 

 寒桜の写真は、はるか島根県浜田市の友人から送られて来たものです。せめてこ

れを見て春を感じます。

平川清水稲荷社 (報恩寺境内)

2008-01-23 07:40:32 | Weblog
 

 太田道灌築城の江戸城内に平川といわれる清流があって、人呼んで平川の清水と

云いました。道灌公もこれを愛でて「武蔵野の平川の清水絶えやらで 岸のねせり

を洗いこそすれ」と詠まれています。  

 当時、その平川の畔の報恩寺(旧称・本住院)の側に稲荷の祠が祭られていて、平

川清水稲荷と称えられていました。現在は報恩寺境内にその碑柱が伝わって由緒を

物語っています。(平川清水稲荷縁起より)

報恩寺 (墨田区太平町)

2008-01-22 07:50:18 | Weblog
 



太田道灌公が長禄2年(1458)に江戸城築城にあたり、丑寅の方に場内鎮護の

祈祷所を建立したのが始まりです。後に平河山報恩寺と改称されました。徳川家康

が江戸城に入り、城内拡大に伴って神田柳原清水町に移され、さらに元禄8年に現

在地に移されました。  

 現在の太平町の町名は、太田道灌の太と平河山の平の頭文字をとって名付けられ

たものです。震災・空襲により被災しましたが、昭和29年に本堂が再建されまし

た。境内の経石塔(三重塔)は昭和7年建立された鐘楼です。 

 時代劇大好き人間にとっては、このお寺にさしかかる長谷川平蔵の一節が気にか

かるのです。「報恩寺橋をわたりきった長谷川平蔵は、編笠のふちをあげ、さすが

にふかい感懐をもってあたりを見まわした」とあります。あの鬼平犯科帳の最初の

シーンですが、報恩寺橋は「鬼平」の始まりなんですね。