散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

橋場不動院 (台東区橋場)

2006-10-30 08:08:17 | Weblog
 

 

 白髭橋西詰を少し南下すると たくさんの幟があります。このお不動さまには布

袋尊もお祀りしています。天平宝宇4年(760年)に開創されたもので、現在は

比叡山延暦寺の末寺となっています。 

 江戸時代には武家の尊信をも集めており、明治末年の大火、関東大震災、そして

昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の近辺は災禍をま

ぬがれたことから、霊験あらかたな橋場不動尊として、広く庶民に尊信されていま

す。現在の本堂は、弘化2年(1845年)建立のもので、小堂ながら江戸時代の

建築様式を保ち、美しく簡素な佇まいをしめしています。

真先稲荷と田楽茶屋

2006-10-29 08:11:55 | Weblog
 

 

 荒川が大川(隅田川)に変って、その流れを転じようとする浅草の外れの、真先

稲荷大明神社に近い木立の中へ、秋山大治郎が無外流の剣術道場をかまえてから、

そろそろ半年になろうか。ではじまる剣客商売、時代小説大好き人間にとって「真

先稲荷社」は見逃せません。白髭橋を向島から西へ渡った北側にある石浜神社の境

内に真先稲荷の由緒が記されている。

 

 真先(崎)稲荷は、天文年間(1532~1554)、石浜城主千葉守胤によっ

て祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にありその門前は景勝地として知られてい

た。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」(おいで)は、対岸の三囲稲荷の狐

と並んで有名であったという。江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦7年(1

757年)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋、川口屋などの茶屋が立

ち並んで、大いに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの

信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷と田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれて

いる。(荒川区教育委員会)

白髭橋 (墨田・荒川・台東区)

2006-10-27 08:04:32 | Weblog
 

 

 白髭(しらひげ)の名は天暦5年(951年)創建の縁起のある向島の白髭神社

に由来しています。古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあったと言われ

ています。「橋場の渡し」といったのは、この地が交通の要衝であっことを示して

います。写真は台東区側から撮影。

 大正3年(1914年)に地元住民によって会社が設立され、有料木橋が架けら

れました。関東大震災後、昭和6年(1931年)に現在の橋が架けられて荒川区

墨田区、台東区を結ぶ重要な橋となっています。橋の西詰の台東区橋場には、戦前

には数軒の料亭があったようです。客が望めば向島の花柳界から芸者を呼ぶことも

出来たといい、橋の上で人力車に乗った芸者の姿が見かけられたといいますから、

なんとも「よい時代だった」のでしょうか。

美空ひばり・みだれ髪

2006-10-23 08:10:57 | Weblog
 

 「すてたお方のしあわせを」と歌っていますね。ご存知美空ひばりのヒット曲

みだれ髪です。カラオケ機器のある酒場などでは、最近は通信カラオケが入ってい

て、曲数も何千曲とあるようです。 

 客層によりますが、酒の席では やはり演歌が多いですね。美空ファンは 悲し

い酒、哀愁波止場、川の流れのように。鶴田浩二の 好きだった、赤と黒のブルー

ス。中村美津子の瞼の母、港の女などなどです。お客さんのリクエストでママさん

が熱唱していますね。

銀巴里跡 (銀座7丁目)

2006-10-06 08:03:56 | Weblog
 

 昭和21年(1946年)、キャバレー銀巴里として開店。翌22年には三輪明

宏さんがデビューしました。昭和29年(1954年)にはライブハウスとして発

足して、昼はシャンソン喫茶、夜はキャバレーになりました。専属歌手には三輪明

宏などが出演して人気を呼びました。 

 後に戸川昌子、芦野宏さんなどのシャンソン歌手が多数参加してファンは増えて

銀巴里は全盛期を向かえました。時代は移り平成2年には閉店となりましたが、賑

やかな閉店コンサートを開き44年の幕を閉じました。