散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

商法講習所跡(銀座6丁目)

2007-06-30 07:45:28 | Weblog
 

 一橋大学の前身の商法講習所は明治8年9月、森有礼の私塾という形で渋沢栄

一、福沢諭吉、大久保一翁らが力を合わせて始めたもので、当初は銀座尾張町(現

在の銀座松坂屋近く)にありました。 

 明治初期にあって、商業貿易教育に大きく貢献し、明治18年東京商業学校とし

て文部省の管轄に入りました。今日、松坂屋前に「商法講習所碑」がありますが、

気がつく人は少ないようです。(資料・中央区観光協会)

山鹿灯篭まつり乙女像(銀座5丁目)

2007-06-29 07:46:29 | Weblog
 

 数寄屋橋交差点から土橋へ、電通通りに「銀座熊本館」があります。その玄関先

に山鹿灯篭まつりの乙女像があります。やがて夏、8月15、16日には熊本県山

鹿市で千人の美女が、そろいの浴衣で踊ります。その頭には和紙でてきた灯篭を付

けてゆったりと、唄に合わせて優雅に歩くお祭りです。 

 景行天皇行幸のおり山鹿にお着きになり、ここに行宮を建てて滞在されました。

 後に行宮跡に天皇をお祀りしたのが大宮神社です。里人が松明を揚げて天皇一行

をお迎えしたという故事に由来する山鹿灯篭まつりです。

(株)明治屋 (中央区京橋2丁目)

2007-06-28 07:45:24 | Weblog
 

 地下鉄銀座線を日本橋寄りに降りると、出口は明治屋のビルになります。この建

物は昭和8年(1933)建設だから74歳ということになります。

 創業は明治18年、今年は120年です。企業理念「いつも いちばん いいも

のを」ということです。変わらぬフロンティアスピリッツ、わが国の食文化向上の

ための「本物の味」「正統のおいしさ」の追求こそが、明治屋の動く原動力です。

ということでした。どこかの食品メーカーに聞かせて上げたい言葉ですね。久しぶ

りに京橋で降りてなつかしいなぁと感じましたので。

歌川広重住居跡(中央区京橋1丁目)

2007-06-27 07:27:58 | Weblog
 



浮世絵師歌川広重(1797ー1858)が、嘉永2年(1849)から死去までの

およそ10年間を過ごした住居跡です。

 広重は、幕府の定火消組同心安藤源右衛門の長男として、八代河岸(現在の千代

田区丸の内2丁目)の火消屋敷で生まれました。13歳の時父母を失い、父同様定

火消組同心になりましたが、文化8年(1811)15歳の時、歌川豊広の門人とな

り、翌年には広重の号を与えられ歌川と称することを許されました。

 天保3年(1832)霊岸島の保水堂から出した「東海道五拾三次」以来、風景画

家として著名になり、江戸についても「東都名所」、「江戸近郊八景之内」等を遺

しています。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町とよばれていた

この地での代表作です。

 住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家屋敷の隣にあり、

二階建ての独立家屋であったといいます。(中央区教育委員会)

江戸八臂弁財天(小伝馬町5丁目)

2007-06-26 07:46:21 | Weblog
 

 

 日本橋小伝馬町に江戸八臂弁財天というのがあります。説明によりますと、この

弁才天と江ノ島神社、岩本楼の三体あり、胎内には三体のミニ弁天が納められてい

るそうです。 

 大日如来、聖観音、不動明王などと、経典、金光明最臂王三巻も納められている

と説明があり、真にありがたいものです。北條政子の発願によりつくられたと伝え

られています。

「東京花マット」(銀座ソニービル)

2007-06-25 07:44:02 | Weblog
 

 銀座5丁目のソニービル前で不思議な花壇を見つけました。これは、東京都農林

総合研究センターと、都内の花の生産団体により開発されたものです。花や草など

の根をマット状に成形して、場所を選ばず設置できるというもの。

 屋上など平面だけでなく、傾斜や垂直の花壇での利用も可能で、都市のヒートア

イランド現象の緩和が期待できる、優れた緑化素材ですと説明が書いてあります。

 論より証拠で、垂直でもさかさまでも土が落ちないし、もちろん花も落ちません

です。ニュートンさんもびっくりですね。

日光街道の象さん

2007-06-24 07:43:13 | Weblog
 

 

 環状7号線と日光街道(国道4号線)の交差点から、てくてく北上すると左側に石

材店のトレードマークの「象さん」が健在でした。それもその筈で、なんといって

も石で出来ていますからね。雨でも風でも排気ガスでも平気です。

 太い足ですね。牙もすごいです。象牙はたしか輸出入禁止になっていると聞きま

したが、ここでは石の牙ですね。

西河岸橋(八重洲から室町へ)

2007-06-23 07:48:32 | Weblog
 

 

 日本橋の上流一つ目で、江戸時代から我が国の商業・経済の中心地として栄えて

きました。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が「西河岸町」の

地名であったことから、「西河岸橋」と名づけられたものです。

 初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式

の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けたこの橋は、大正14年に現在の橋に

架け替えられました。区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度におい

て、痛んだ部分を修復し、さらに伝説的な木造建築様式の木組みを採り入れた意匠

で整備しました。(東京都中央区)

高速道路が覆いかぶさって昔の風景には程遠いです。

発句也松尾桃青宿の春(室町1丁目)

2007-06-22 07:49:08 | Weblog
 

 

 芭蕉が俳諧宗匠として独立した翌年の延宝7年正月、迎春の心意気を高らかに詠

みあげた一句を碑にしたものです。 

 松尾芭蕉は、寛文12年(1672)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸にでまし

た。以後延宝8年(1680)37歳までの8年間、ここ小田原町(現・室町1丁目)

の小沢太郎兵衛(大船町名主、芭蕉門人俳号卜尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海

の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られています。

 当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場に間近な繁華の地に住みつつ俳

壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立しました。この句碑の文

字は下里知足の自筆から模刻したといわれています。

於竹大日如来井戸跡(日本橋本町2丁目)

2007-06-21 07:50:47 | Weblog
 

 

 寛永の頃(1640頃)江戸大伝馬町佐久間町(一説に馬込家)の下女お竹は、日頃

より慈悲心が深く、ある日、羽前羽黒山の行者より、大日如来の化身であると告げ

られました。このことが市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れたといい

ます。 

 現在、芝の心光院に、お竹の木像や使った流し板、お竹大日如来に信仰の厚かっ

た桂昌院(五代将軍綱吉の母)の納めた蒔絵の手文庫などが保存されています。

 また、於竹が愛用し、貧困者が市をなしたという井戸の跡に碑が建てられていま

す。(於竹大日如来保存会)