散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

槍かけだんご(千住5丁目)

2007-01-31 08:12:50 | Weblog
 

 美味しいだんごと評判です。その日につくったものが売り切れたら閉店です。炭

火で焼き上げた「みたらし団子」「餡子団子」いづれも1本90円の人気もので、

遠方から出かけてくる人もあります。この店の創業は、終戦直後と聞きますが、建

物は明治時代のものらしいです。 

   

 なんで「槍かけ」ですか。千住宿は日光街道と水戸街道の分岐点です。水戸街道

に清亮寺というお寺さんがあり、その門前に松があって、その枝が街道に張り出し

ていました。参勤交代の大名行列には槍持ちがいますが、槍は如何なる理由があっ

ても倒すわけにいかない。松が邪魔になるので「枝を切ってしまおう」となりまし

た。水戸に帰る光圀さんは「見事な枝を切るのはもったいない。ここで松に槍を立

てかけて休み、出立の時に向こう側に行って槍を取り直せば倒したことにはならな

い」と、粋な計らいをしました。これが「槍かけの松」の由来です。土地に伝わる

この物語を団子に冠して「槍かけ団子」になったとさ。写真左が清亮寺にある槍か

け松の由来、右は分岐点の道標です。  

橋戸稲荷神社 (千住橋戸町)

2007-01-30 07:53:28 | Weblog
 

 

 大橋を北に渡ってすぐ西に入ると、橋戸稲荷神社があります。昔 この地の半農

半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳2年(1490)に創建したといい、もと

は千住河原の景勝地に本殿のみ建立されていたと伝えられます。

 江戸時代、千住が宿場になると社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物

資が陸揚げされ、この辺りは継場として栄えました。文禄3年(1594)千住大

橋が架けられると、人馬の往来が多くなり、宿場を通る人々や河川の小揚組などの

信仰を集め、今日に至っています。お狐さまも勢いよく飛び跳ねて宿場で働く人々

を励ましていますね。(足立区教育委員会)

奥の細道旅立ちの地 (千住橋戸町)

2007-01-29 08:00:14 | Weblog
 

 

 千住大橋を北に渡ると西側に小公園があります。江戸時代の俳人松尾芭蕉は元禄

2年(1689)、門弟とともに深川から隅田川を上り、3月27日ここ千住大橋

の辺りで船を降り「奥の細道」の旅へ立ちました。

 この時、矢立から筆を取って「行春や鳥啼魚の目に泪」と一句詠みました。過ぎ

行く春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを惜しんでいる

という意味です。そこには江戸を離れる芭蕉の想いがかくされています。その後、

奥羽・北陸を経て大垣に至る600里、半年にわたる行脚をして、道中の詠句をも

とに「奥の細道」が編まれました。写真上の「奥の細道矢立初めの地」は、昨年の

5月14日、芭蕉サミットの開催を記念して建てられたものです。  

禁煙区域のルールを守って

2007-01-28 07:51:44 | Weblog
  

 タバコを吸う人の肩身は狭くなるばかりですね。しかし、よく考えると何時でも

何処でもスパスパと、紫煙をくゆらせていた喫煙者に「少し遠慮して下さい」と言

うことでしょう。

  (北千住駅前)

 道を歩く時はタバコを吸うのはやめて下さい。やめれば吸殻もちらからないです

から。それに、子どもの顔にタバコの火がつく心配もない。ルールどおりにしてく

れれば安全ですから。大きな横断幕で、違反したら過料を1000円頂きますよと

いうことを書いていますが、問題は1000円を払うのではなく、自分の行為が思

わぬ迷惑をかけていることを自覚して欲しいのです。

千住橋戸河岸(千住大橋北)

2007-01-27 07:51:44 | Weblog
 

 

 大橋を北に渡ると「千住の風が吹いてくる」と看板が出ています。昔から市場が

あって、ここに陸揚げされた産物は多種にわたっています。赤穂塩、斉田塩、など

中国地方のものや、薩摩ものとして知られる黒砂糖など、遠隔地の物産も陸揚げさ

れました。 

 江戸時代より千住の市場では、船で運ばれた諸国の荷物が活発に取引されていま

した。また、川は上流から下流に流れるだけでなく、海の満ち干によって逆行して

いました。船が自然の流れを利用していた頃は「潮待・汐待」が行われ、潮待ち茶

屋が賑やかであったそうです。

 川辺のテラスには芭蕉が旅立ちする姿が描かれています。現在もこのテラスから

釣り船などが発着しています。

稚児大師尊像 (西新井大師境内)

2007-01-23 08:00:34 | Weblog
 

 この像は、西新井大師総持寺が弘法大師生誕1200年を記念して、東京芸術大

学教授の菅原安男氏に委嘱して製作したものです。由緒書きによりますと、弘法大

師は幼少の頃から仏心が非常にあって神童の誉れ高く、すべてに秀でておられた。

 その姿を移したのがこの稚児大師さまであるとのことです。子育て、学業成就の

ご利益を戴く事が出来ますというものです。  

 

 写真下は水子地蔵に供えられたものです。いっぱいですね。年始の交通安全祈願

と水子供養を受け付けているようです。

 

勝利の神様・東郷神社

2007-01-20 08:03:45 | Weblog
 

 

 司馬遼太郎作の「坂の上の雲」によると、日露開戦が避けられない状況になった

とき、山本権兵衛海軍大臣は、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命した。明治帝

は東郷を登用した理由を山本に問うと、山本は「あの男は、昔から運のいい男です

から」と応えたということです。

 「強運の男」は、明治38年5月27日、28日の両日にわたる海戦で、バルチ

ック艦隊を全滅させるという快挙を演じたのです。今も「勝利の神様」として崇め

られています。最近はこの勝利の神様にあやかって、受験戦争の勝利を祈願する人

たちが参拝に訪れています。上は「勝って兜の緒を締めよ」の絵馬。下は「皇国の

興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」のZ旗付きの勝守です。Z旗の色は

この色だったのです。  

東郷神社 (渋谷区神宮前1丁目)

2007-01-19 08:10:04 | Weblog
 

 

 東郷平八郎と言ってすぐに分かる人が少なくなっています。明治37、38年の

日露戦争で、連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊と戦い、これを破っ

た東郷元帥です。この東郷さんを祀っているのが東郷神社です。

 

 明治通りから鳥居をくぐり「神池」に出ます。東郷記念館を右に見ながら、池の

上の木製の通路を通り、青銅の鳥居(旧水交神社から移設)をくぐり、階段を上が

ると社殿に出ます。東郷神社は全国各地に建立されていますが、東京都渋谷区の東

郷神社が高名です。 

 東郷さんは、昭和9年(1934)5月30日に88歳で亡くなりましたが、自

身が死後「神」として祀られることは止めてほしいと懇願されました。しかし、日

本海海戦の勝利に対する国民感情は大きく、世界的にも大きな歴史的事実として反

響を呼んだ東郷さんを祀る神社が建立されたものです。

熱戦・大相撲一月場所

2007-01-16 07:59:44 | Weblog
 

 大相撲一月場所も中日を過ぎて、やっぱり横綱が有利に星を残していますね。1

月14日には、昨年に続いてデーモン小暮閣下が正面解説にでましたね。この人は

相撲に詳しいです。おっしゃることが的確で、聞いてるほうも納得です。悪魔教の

教祖で、人間としての側面はあくまで「世を忍ぶ仮の姿」だそうですから、ずばり

優勝力士を予想して頂きたかったです。

佃島渡船跡 (佃1丁目)

2007-01-15 08:13:09 | Weblog
 

 

 隅田川に自然にできた中州が佃島です。徳川初代将軍の家康の時、摂津の国佃村

の漁師を招いて住まわせたところといいます。この島と対岸、現在の佃大橋西詰め

付近との間を通ったのが「佃の渡し」です。

 明治9年7月には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出ています。大正15

年東京市の運営に移り、昭和2年3月に無償の曳船渡船となりました。この石碑は

この時に建てられたものです。昭和30年7月には、1日70往復となりましたが

昭和39年8月、佃大橋の完成によって廃止されました。東京オリンピックの年で

すね。渡船の歴史を記念する区民文化史跡として、中央区民文化財に登録されてい

ます。  

 佃大橋架橋から約40年、隅田川堤から対岸を眺めると、大橋の向こうには高層

ビルのセントルークスタワーの威容が見えます。