散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

竹屋の渡し・子規の句碑(隅田公園)

2007-10-31 07:38:20 | Weblog
 

 

 隅田川には有名な渡しが幾つもあります。10人の乗客を乗せた船が両岸を何往

復もして、橋ができるまで多くの人々に盛んに利用されていました。竹屋の渡し碑

があります。竹町の渡し、または花川戸の渡し、業平の渡しなどと呼ばれていまし

た。女主人の対岸の船を呼ぶ掛け声の「タケヤー」は、山谷堀の船宿「竹屋」から

とったもので、その美声は有名だったといいます。  

 正岡子規の句碑 この竹屋の渡し碑の近くに「花」歌碑がありますが、

これに隣接して子規の句碑があります。雪の日の 隅田に青し 都鳥 と彫られて

います。情景が目に浮かびますね。

戦災殉難者慰霊の碑 (隅田公園)

2007-10-30 07:31:56 | Weblog
 

 

 昭和61年3月に台東区が建立した「戦災により亡くなられた方々の碑」です。

 隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた

数多くの方々を仮埋葬した場所です。大戦中の空襲により被災した当時の下谷、浅

草区民は多数に及びました。  

 亡くなられた方々の遺体は区内の公園等に仮埋葬され、戦後「だび」に付され、

東京都慰霊堂(墨田区)に納骨されました。年月が経過して不幸な出来事や、いまわ

しい記憶が忘れら去られることのないように、この碑が建立されました。

 あぁ 東京大空襲 朋よやすらかに と刻まれています。

旧東京音楽学校奏楽堂(上野公園)

2007-10-29 07:41:49 | Weblog
 

  滝廉太郎像

 この建物は、明治23年(1890)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建

設されましたが、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念碑的な存

在です。  

 この奏楽堂からは、滝廉太郎をはじめとする幾多の音楽家を世に送り出してきま

したが、老朽化がすすみ、取壊しの危機に瀕していました。しかし、音楽関係者を

はじめとする多くの人々の努力が実り、昭和62年(1987)3月、歴史と伝統を

踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に移転復元されました。国の重要文化

財に指定されています。(台東区教育委員会) 

因幡鳥取藩池田家の表門(上野公園)

2007-10-28 07:31:18 | Weblog
 

 なかなか格式のある門です。因州32万5千石、旧因幡鳥取藩池田家の表門は、

江戸時代は八代州河岸(現、日比谷堀前)に建てられていましたが、昭和29年に

上野公園の東京国立博物館の脇に移築されました。  

 入母屋作り、門の左右に唐破風の番所を備え、屋敷門としては国持ち大名の格式

を持っています。鳥取藩の池田光仲の流れは、家康の血が入っており三葉葵の紋を

許されていました。国の重要文化財に指定されています。

新そばの味

2007-10-27 07:28:07 | Weblog
 

 
 
 新そばの季節になりましたね。この「新そば打ち始めました」につられてお店に

入りますと、この雰囲気です。  

 新そばの風味は何とも言えません。ものの本によりますと、礒切りといって、海

苔を細かい粉末にして練り込む「礒の風味」は美味しそうですが、未だ頂いたこと

がありません。もう少し経つと「柚子切り」が良いです。何とも言えない風味がこ

たえられないです。そばがきで一献もいいですね。

小泉八雲顕彰碑(上野公園)

2007-10-26 07:27:15 | Weblog
 

 

 上野公園の国際子ども図書館の敷地内に「小泉八雲顕彰碑」があります。

八雲の肖像が彫り込まれていますが、頭の上に子どもたちがいる面白い構図になっ

てますね。  

 小泉八雲はパトリック・ラフガティ・ハーンという名前のアイルランド人です。

 明治23年(1890)来日、島根県尋常中学校及び師範学校に職を得て松江に

赴任。明治24年2月小泉セツと生活を始めます。熊本の第5高等学校を経て、明

治29年(1896)帝国大学講師に招かれ上京、日本名「小泉八雲」に改名しま

す。作品は「怪談」「日本人の微笑」「東の国より」などがあります。

 八雲の54年の生涯のうち、最後の8年間は東京帝国大学と早稲田大学で教鞭を

とりました。明治37年に死去したあと、教え子であった詩人・土井晩翠が、師を

慕って建てた顕彰記念碑が寄贈されたこの碑です。

五 重 塔 (上野動物園)

2007-10-25 07:37:19 | Weblog
 

  東照宮参道

 この塔が建てられたのは寛永16年(1639)7月で、下総国(現、千葉県)

佐倉藩主土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものです。現在の塔は最初寄進し

た塔が焼失したので、当時幕府の大老職にあった土井利勝がすぐに再建した2度目

の寄進によるものとされています。(東照宮参道から撮影) 

 現在は、上野動物園内の施設として保存されています。高さは、地上から宝珠ま

で36.36m。1階の芯柱を囲んで、東西南北に四方四仏を安置しています。明

治の神仏分離令によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都の管理になって今日に

至っています。

銅 燈 籠 (上野東照宮)

2007-10-24 07:20:10 | Weblog
 

 


 東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいます。燈籠は神事・法会

を執行するときの浄火を目的とするものです。照明器具として用いない浄火は神事

・仏事に使用する清めの火とされます。  

 見事な銅燈籠ですが、最初に藤堂高虎が続いて諸国大名が奉納したものとされて

います。記録によると慶安4年4月27日、東照宮社殿落慶の日の奉献が最も多い

とされています。

上野東照宮(上野公園)

2007-10-23 07:23:27 | Weblog


上野東照宮は、徳川家康の遺言を受けて藤堂高虎がその屋敷地であった上野の山

に、寛永4年(1617)本営を造営しました。その後三代将軍家光が、この寺院

に満足できないとして、慶安4年に現在の社殿(金色殿)を造り、以後、江戸の象

徴としました。  

 上野東照宮には家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られています。

 大石鳥居



大石鳥居は、寛永10年、酒井忠世が建築し奉納しました。昭和17年(194

2)国宝に指定されています。

 水舎門

 

 水舎門は慶安4年、安部重次が建築し奉納しました。上野東照宮は、1月から2

月にかけて白、紅、淡紅、紫などの彩りを添えて咲く「冬ぼたん」が有名です。

 

八ツ目鰻の肝の油(雷門1丁目)

2007-10-22 07:47:57 | Weblog
 

 

 浅草雷門通りと国際通りが交わる角近くに八ツ目鰻の看板がありました。肝の油

と書いてあります。眼精疲労に良いということ、肌がかさかさしている、風邪を引

きやすいなどのお方はお試しくださいとのことです。 

 八ツ目鰻は、よく見ると目が八つあるように見えるのですね。北海道、青森、秋

田の日本海側で捕れ、ビタミンAが豊富だそうです。 

 昔の記憶は、八ツ目鰻の干物やつくね焼きでしたが、今も浅草1丁目にありまし

た。骨も皮も内臓も、丸ごと磨り潰してつくね団子にして焼くのですが、人によっ

ては食べやすいものでなく、体に良いから食べるのですね。