散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

東郷元帥記念公園(千代田区三番町)

2007-05-31 07:46:25 | Weblog
 

 

 この公園は当初、関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月に

最下段の部分が開園されました。当時は東郷平八郎邸が隣接しており、同元帥の没

後、東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13

年11月に「東郷元帥記念公園」として開園されました。

 東郷さんは、明治14年(1881)から昭和9年(1934)に88歳で他界

するまでの53年間ここに住んでいました。公園内には、東郷邸時代からあったラ

イオン像が、そのまま今も健在です。

 

 公園には千代田区指定有形文化財であります「力石」があります。目方は39貫

目(約150キログラム)です。また、あの永井荷風や国木田独歩などの文学者も

三番町の住人だったと聞きました。

東郷通り、東郷坂(千代田区三番町)

2007-05-30 07:53:15 | Weblog
 

 

 都営地下鉄新宿線・市谷駅3番口を出ると、右手に「東郷通り」と表示してあり

ます。表示に従って、やや登り坂を進むと今度は下りに差し掛かり、左に東郷元帥

記念公園があります。千代田区三番町です。

 閑静な住宅街の坂道に「東郷坂」の表示柱がありました。説明を読みます。この

坂を東郷坂といいます。東郷元帥邸の西側のこの坂は明治38年(1905)10

月、当時の麹町区町会の議決により命名されたといいます。むかしは東郷坂のとこ

ろを法眼坂、それから南法眼坂に続いていたといいますがはっきりしていません。

 今は東郷坂、法眼坂(行人坂)、南法眼坂の三つの名に分かれていますが、古い

地図をみると「法眼坂」のみが書かれています。とあります。

 東郷さんといえば昔、5月27日は海軍記念日でした。それから海の日になった

と思いますが、今はカレンダーを見ても何も書いてありませんね。

目玉おやじ 飲酒運転防止に一役

2007-05-29 07:50:17 | Weblog
 

 ゲゲゲの鬼太郎の父親である「目玉おやじ」が、飲酒運転防止のポスターに登場

して、飲酒運転を厳しくいましめています。「わしは見ているぞ、オイ 飲酒運転

は許さんぞ」と叫んでいます。

 目玉おやじは、水木しげるさんのゲゲゲの鬼太郎の片目のおやじです。ですが、

片目で生まれたのではないようで、もともと成人男性の姿をしていたのですが、病

のため死亡。生まれてくる鬼太郎を案じて、腐敗した身体から目玉が蘇生し、以後

鬼太郎とともに人生?を歩むことになったそうです。鬼太郎一家は、猫むすめ、狐

おとこ、一反もめん、こなきじじい、塗かべなどユニークな仲間がいますから、こ

れらの応援を得て飲酒運転の根絶をお願いしたいですね。

土生玄碩の碑(築地本願寺)

2007-05-28 07:52:44 | Weblog
 

 土生玄碩(はぶげんせき)は江戸時代後期の眼科医です。宝暦12年(1762

)安芸の国吉田(広島県高田郡吉田町)で生まれました。名を義寿と言い、桑翁と

号しました。文化7年(1810)奥医師を拝命し、同13年法眼に叙せられ、文

政5年(1822)には12代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。同12年シー

ボルトから眼病治療法を教授された謝礼に、将軍拝領の紋服を贈ったことで、シー

ボルト事件に連座、改易となり江戸を追放されました。

 嘉永元年(1848)8月17日、87歳で死去し、土生家の菩提寺である築地

本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和3年12月区画整理のため改葬され、墓標

には「桑翁土生君之墓」とあります。著書には、「銀海波抄」「師談録」「だっさ

い録」などがあります。(東京都教育委員会)

 大正3年1月に東京都指定旧跡に指定されております。

間新六供養塔(築地本願寺)

2007-05-27 07:52:27 | Weblog
 

 

 赤穂四十七士の間新六光風は、父及び兄の十次郎光興とともに仇討ちに加わり、

翌年2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉婿の中堂又助が築地本願寺に葬りました。他

の義士と共に高輪泉岳寺にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、

檀徒であったのか、或いは生前の篤志によるものであろうといわれます。

 築地本願寺には、新六が吉良邸討ち入りの後、泉岳寺に引き上げる途中、自身の

供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝え

られています。 

 この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834)火災にあって焼失したため

羽佐間宗玄が再建したものです。この供養塔は東京都指定文化財になっています。

(資料・中央区教育委員会)

浅野内匠頭邸跡(中央区明石町)

2007-05-26 07:52:18 | Weblog
 

 

 昭和6年6月に東京都旧蹟に指定されています。この地から北東の聖路加国際病

院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸屋敷があったと

ころで、西南二面は築地川に面していました。

 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、元禄14年(170

1)、勅使の接待役に推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央

を江戸城中で刃傷に及び、即日切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地など

は取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。(中央区教育委員会)

 刃傷事件は他にもありましたが、なんと言っても「敵討ち」をしてのけた大石さ

ん以下の「義士」が天下をうならせたので、講談や芝居になって江戸庶民の喝采を

受け、三百年を経て跡地が旧蹟に指定されました。

芥川龍之介生誕の地(中央区明石町)

2007-05-25 07:48:32 | Weblog
 

 

 明治16年(1883)頃、この付近(当時の京橋区入舟町8丁目)に「耕牧

舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892~1927)は、

明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。

 龍之介は誕生7カ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、

本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になり

ました。  

 東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、「地獄変」、「羅

生門」、「河童」、「或阿呆の一生」など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年

7月24日、35歳で自害しています。(中央区教育委員会)

 聖路加看護大学の西側に生誕の地が掲示されています。

電燈供給発祥の地(茅場町1丁目)

2007-05-24 07:55:59 | Weblog
 

 地下鉄・茅場町駅の北側を茅場橋に向かって約100m、左側にビジネスホテル

があります。このホテルの前に「電燈供給発祥の地」のプレートがあります。

 明治20年(1887)11月21日、東京電燈会社がこの地にわが国初の発電

所を建設し、同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお

客様に電燈の供給を開始いたしました。  

 これがわが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備

は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電

機1台を運転したもので、配電方式は電圧210ボルト直流三線式でありました。

 以上のようにプレートに記されています。これは、東京電力株式会社が昭和62

年1月建てたものです。ちなみに、ビジネスホテルは東京電力系の東電不動産の経

営する「トレストイン日本橋」です。

野見宿禰神社(墨田区亀沢2丁目)

2007-05-22 07:56:49 | Weblog
 

 JR両国駅北側の江戸東京博物館から東に進むと、こじんまりした神社がありま

す。これが野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)です。この神社は明治17年

(1884)に創建されました。同神社の東側に高砂浦五郎(初代高砂親方)の部

屋があった時、浦五郎の尽力で元津軽藩の屋敷跡に、相撲の神様として野見宿禰を

祀りました。 

 

 

 昭和27年(1952)11月、日本相撲協会によって、歴代横綱の名を刻んだ

石碑が建てられました。一基は初代明石志賀之助から第46代朝潮太郎までが刻ま

れています。もう一基には第47代柏戸剛から68代朝青龍までが刻まれ、追刻で

きるようになっています。 

 玉垣の石柱には、力士や相撲関係者の名が刻まれているほか、今でも本場所前に

は関係者らが祈祷行事に訪れるなど、角界が厚く信仰する神社であります。さて、

次は誰の名が刻まれるのでしょうか。(墨田区教育委員会)

 

大相撲五月場所 中日で全勝4人

2007-05-21 07:49:05 | Weblog
 

 

 薫風かおる五月場所も中日を過ぎて全勝が4人、一敗が5人と最近では珍しい熱

戦が続いています。特に大関4人のうち、注目の白鵬は全勝ターンのほか3大関は

一敗で続いています。

 相撲巧者の栃東が病気で引退したあと、現職の大関陣も発奮したのではないでし

ょうか。横綱朝青龍を追うのは誰か、これから上位陣が星をつぶし合う後半戦にな

ります。千秋楽までが楽しみです。  

 JR両国駅には四つに組んだ「力相撲」の像がありますが、これもお客さんの激

励を受けておしりがピッカピカです。(写真下)