散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

陸上交通殉難者追悼之碑(築地本願寺)

2007-02-28 07:50:21 | Weblog
 

 築地本願寺の境内にはたくさんの碑があります。先ず紹介したいのは昭和44年

11月に建設された「陸上交通殉難者追悼之碑」です。  

 原文のまま碑文を紹介します。

 いつ果てるともない交通事故は、日夜多くの犠牲者を続出しています。今ここに

いたましい犠牲者の追悼碑を建設し、こころから、その冥福を追慕し、ふたたび、

このような悲惨事をくりかえしてはならぬという警告を、より広く、より深く、多

くの人々にうったえ、交通事故絶滅への礎としたい。
 
         交通事故殉難者追悼碑建設会  名誉総裁 三笠宮崇仁親王

築地本願寺(中央区築地)

2007-02-27 08:07:17 | Weblog
 

 

 関東の人々に「築地本願寺さん」と親しまれているこのお寺は、正式には「浄土

真宗本願寺派本願寺築地別院」といいます。その発祥は元和三年(1617)、西

本願寺の別院として建立されたものです。

 当時浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていました。

 しかし明暦3年(1657)の大火で焼失してしまいました。その後の幕府の区

画整理のため、旧地への再建が許されず、下付されたのが八丁堀の海上でした。そ

こで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝

7年(1679)に再建して「築地御坊」と呼ばれるようになりました。

 その後、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・

伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和6年(1931)に起工、昭和9

年に落成して現在に至っております。外見はインド様式の石造りですが、内部は従

来通りの桃山様式を取り入れた荘厳なものとなっています。境内には、いろいろな

供養塔などがあります。

STOP花粉 東京がやる

2007-02-26 07:58:17 | Weblog
 

 石原都知事がはりきっていますね。花粉が飛散する季節になりましたが、これに

悩む人が多いですね。駅のホームに登場した石原さんが、「東京発、花粉症対策プ

ロジェクト始動」とうたっています。 

「花粉症」というのは、昔もあったのですかね。花粉がそんなに多くなかったの

か、花粉に弱い体質ではなかったのか。花粉症にならない人は古代人だなんて言う

人がいますが。たしか食料がなくて、芋ばかり食べていた人々は花粉なんか何処吹

く風ですが本当はどうなんですかね。 

 このポスターは「健康な森づくりは東京から」と訴えています。

シーボルト胸像(中央区あかつき公園)

2007-02-23 08:02:23 | Weblog
 

 

 霧の噴水で知られる築地あかつき公園で「シーボルト胸像」を見つけました。シ

ーボルトさんは、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月、長崎に到

着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍しました。

 同年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日に日本橋の長崎屋に止宿し、4

月12日に出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導して大きな影響を与えまし

た。彼の江戸における指導は、蘭学発展に大いに貢献しました。

 この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘「いね」が築地に

産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけて、この一帯に外国人居

留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋

渡し役としての功績に報いたものです。(中央区教育委員会)

 シーボルトさんの視線の先には、霧のような湯気が立ちのぼる、公園の静かな佇

まいが見えます。

万作の花、早咲き桜も(北の丸公園)

2007-02-22 07:55:59 | Weblog
 

 

 春ですね。北の丸公園で「まんさくの花」を見つけました。これは東北地方の花

らしいです。まだ雪の残る今頃雪を払いのけながら咲く花です。「先んず咲く花」

として春の到来を告げるものですね。 

 何年か前に、NHKのテレビ小説で「まんさくの花」というのがあったと記憶し

ていますが、豊年満作にも通じる縁起の良い名前から、人々に愛されていますね。

 公園には、早咲きの桜も咲いて、春を実感させてくれます。

金刀比羅宮 (日本橋中洲)

2007-02-21 07:56:43 | Weblog
 

 清洲橋から日本橋中洲町へすすむと右側に、金刀比羅宮・慈愛地蔵尊がありまし

た。こじんまりした鳥居があります。金刀比羅宮といえば水運の神様で、航海安全

のご利益を思い出します。本家というか、香川県の琴平町でも昔の燈台を見学した

ことがあります。

 玉垣を見ると、花街らしく葦町芸妓組合の寄進になるものがありました。その昔

の中洲は葦原になっていて、潮が満ちると一面が海になってしまったということで

す。だからこそ水運の神様の社があるのは納得できます。古典落語でもこの葦原を

題材にした噺がありますね。

清洲橋 水温む隅田川 

2007-02-20 08:04:09 | Weblog
 

 

 西岸は中央区日本橋中洲町、東岸は江東区清澄1丁目。「清洲」という名称は、

公募により採用された名前だそうです。震災復興事業として、永代橋とともに計画

され昭和3年3月の竣工です。    

 永代橋は当時「帝都の門」と言われたと聞きますが、これと対になるような設計

で、架けられた清洲橋は「震災復興の華」と呼ばれた優美なデザインです。ドイツ

のケルン市にあった大吊り橋をモデルにしたものですが、ケルン市の吊り橋は第2

次大戦で破壊されて今は吊り橋ではないそうです。

 ここはもともと中洲の渡しがあったと場所で、この橋は女性的な美しさがあると

言われますが、近くで見ると頑丈な鉄の鋲がいっぱい打ち込まれた、力強い橋と見

受けました。

震災避難記念碑 (新大橋北詰)

2007-02-19 07:59:31 | Weblog
 

 

 関東大震災の時、隅田川に架かる五大橋の中、ただひとつ被害のなかった新大橋

の橋上で難を免れた人々が、新大橋避難記念会を組織しました。そして毎年この日

を期して追想の会を開き、満10年に当たる昭和8年9月、この碑を建立したもの

です。写真下の「人助け橋のいわれ」はいささか汚れていますが、今年の9月1日

になるとキレイになることでしょう。 

 

 今の新大橋は、昭和52年(1977)に開通したものです。写真の左側が北に

当たり、記念碑が建っています。頭上には高速道路が走っていますが、これも時代

の要請なんでしょうかね。

清正公寺 (浜町公園)

2007-02-17 07:59:51 | Weblog
 

 中央区日本橋浜町2丁目は、隅田川畔に浜町公園があります。この辺りは江戸時

代、大名屋敷が並ぶエリアでしたが、明治になって花街として発展した歴史があり

ます。ここは元肥後藩細川氏の中屋敷とも下屋敷とも言われ、その浜町公園のなか

で「清正公寺」を見つけました。  

 この清正公寺は文久元年(1861)に、時の細川家10代当主細川斉護が、熊

本日蓮宗本妙寺から勧請したものと伝えられています。肥後熊本といえば虎退治の

加藤清正、加藤家断絶後肥後に入った細川家として、先人の清正公を慮って祀った

ものといわれます。清正公寺は細川屋敷の敷地内にありながら、江戸庶民の参拝も

許されたといいますから、なかなか粋な計らいでありました。

勧進帳 (人形町甘酒横丁)

2007-02-16 07:50:54 | Weblog
 

 

 これは弁慶ですね。勧進帳ですが誰に似ていますか? 私はどうも中村吉右衛門

に見えますが如何でしょう。地下鉄人形町から甘酒横丁を明治座の方に進むと、人

形町2丁目と浜町との境目に小さな公園がありました。そこで弁慶がミエをきって

いたのです。  

 足元には、お酒を召し上がって寝込んでいる人がいましたが、弁慶はかまわずに

頑張っていました。上半身の部分をクローズアップしましたが、なんとも迫力があ

りますね。大向こうから声がかかるところです。