散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

多聞寺の狸塚

2012-05-31 06:43:15 | Weblog
    本堂です

         

 昔、今の多聞寺辺りは隅田川の河原の中で、草木が生い茂るとても寂しいところでした。そ

こに「牛松」と呼ばれる松の大木があり、その根元の大穴に妖怪狸が住みつき、人々をたぶら

かしていました。そこで和尚さんと村人たちは、お堂を建てて妖怪を追い払う作戦をたて、松

の大木を切り倒し、妖怪狸の穴をふさぎました。  

    

 すると大地が轟き空から土が降るなど、妖怪狸のいたずらは一層ひどくなりました。和尚さ

んの夢枕に大坊主が現れて脅迫する始末です。和尚さんは一心にご本尊を拝みました。すると

毘沙門天のお使いが現れ、妖怪に向かって「おまえの愚行は お前自身を亡ぼすことになる」

と戒めました。翌日の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。村人たちは狸がかわいそう

になって、供養のために塚を築きました。これを狸塚と呼ぶようになりました。

多聞寺の山門(墨田区墨田5丁目)

2012-05-30 06:44:05 | Weblog
    

        

 東武線の堀切駅と鐘ケ渕駅の中間に位置する、多聞寺の山門は江戸中期に造られた墨田区で

最古の建造物と言われます。切妻造りの四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根ですね。

 説明によると全体的には簡素な和様な造り、控え柱などは禅宗の手法で18世紀を降らない

建造といわれます。多聞寺の本尊は毘沙門天で弘法大師の作と伝えられます。毘沙門天は仏法

の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を守っていたとされます。又の名を多

聞天ともいいますが、山門の隣の石碑は榎本武楊の揮毫になるものです。  

    

 境内には珍しい六地蔵坐像があり、墨田区登録文化財となっています。私も立像はよく見か

けますが、坐像は珍しいですね。総高約1.50mでいずれも安山岩です。
 

アメヤ横丁(上野)

2012-05-29 06:44:43 | Weblog
    

        

 年末には「代表的な歳末風景」として、必ずテレビニュースで取り上げられるアメヤ横丁。

 JR上野駅から御徒町の間の山手線ガードに沿って伸びる、約400メートルの商店街で、

年末でなくてもけっこう繁盛しているようです。  

 名前の由来は、戦後この辺りにできた闇市に米軍のPXからアメリカ食品等が流れ出たので

という説がありましたが、どうも眉唾ものですね。この闇市には飴を売り捌く店が200店舗

もあったことから「飴屋横丁=アメヤ横丁」と呼ばれたと、これが正解に近いようですが。現

在でも飴など菓子類を売る店ありますが、魚介類や乾物などの食品、衣類、雑貨、宝飾品など

の店があって、道行く人々の目を引いています。  

   

 御徒町駅からこの通りに入ると、左手に開運摩利支天を祀る徳大寺があり、こちらの参詣客

も多いと聞きます。

無理しないで(東京メトロ)

2012-05-28 06:29:20 | Weblog
     

 東京メトロのマナーポスターです。締まるドアに挟まれながらも乗ろうとしていますね。こ

のポスターは「なぜ、そうまでして乗らなきゃいけないの」と問いかけます。この人ネクタイ

がヒラヒラしていますが、首を絞められそうですね。  

 駆け込み乗車は危険ですので、おやめください・・と呼び掛けています。

五条天神社(上野公園)

2012-05-27 07:26:28 | Weblog
    

 第12代景行天皇の御代日本武尊が東征の際、上野忍岡で薬祖神大巳貴命、少彦名命の二神

に難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられます。往古より上野山内の天神山に

祀られていましたが、寛永年間に菅原道真公を合祀し、江戸期には上野五条町へ遷座させられ

ましたが、昭和3年旧地に復しました。  

 医薬の租神であることから、諸病平癒や長寿延命のご利益があるとされます。現在では製薬

関係者や薬屋さんの守護神として信仰を集めています。  

       

 参道の鳥居前には正岡子規の句碑があります。「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて」

と「秋風や 旅の浮世の 果て知らず」二句、明治26年の作品です。

カナリヤの歌碑(不忍池畔)

2012-05-26 06:38:14 | Weblog
    

 「うたをわすれたかなりやは ざうげのふねにぎんのかい つきよのうみにうかべれば わ

すれたうたをおもひだす」と彫られてる、西条八十の歌碑です。これは4番の歌詞ですね。最

初から順に、歌を忘れたカナリヤは「後ろの山に」捨てましょか、次は「背戸の小藪に」埋け

ましょか、次は「柳の鞭で」ぶちましょか と続き、いえいえそれは可愛そう となって象牙

の舟に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す で救われます。   

 昭和35年(1960)にサトウ・ハチロウさんら西条八十会によって建てられたもので

す。不忍池の畔にひっそりと、子どもたちに優しい心を訴えています。 

     

 池の端の弁天堂の改修工事は、まだ続いているようです。いつの間にか「かき氷屋さん」が

出店する季節になりました。

ラジオ体操の碑

2012-05-25 06:34:35 | Weblog
      

          

 上野公園噴水広場の改修工事で50mほど南へ移動しました。碑文によるとこの碑は、ラジ

オ体操広場として永年多くの人々に親しまれている上野公園に、ラジオ体操制定50周年を記

念して東京都郵政局が建立したものです。  

 ラジオ体操は、昭和3年に郵政省簡易保険局が国民の健康増進を願って制定し、日本放送協

会ラジオ体操会連盟の協力を得て、今では全国至る所で愛好されています。子どもの頃、夏休

みに早起きして、眠い目をこすりながら参加したことを思い出します。

花園稲荷神社(穴稲荷)

2012-05-24 06:34:53 | Weblog
    

        

縁結びのお稲荷さんとして人気があります。古くから上野に鎮座し、忍岡稲荷が正しい名勝

ですが、石窟の上にあったことから続称「穴稲荷」ともいわれました。承応3年本覚院の住僧

晃海僧正がお社を再現して上野の山の守護神としました。明治6年に篤志家によって社殿を南

面に新造され、花園稲荷と改名されたものです。  

    

 穴稲荷 お穴様の左奥にあるお社は、古書に弥佐衛門狐と記され、寛永寺が出来る時に忍岡

の狐が棲む処がなくなるのを憐み洞をつくり社を祀ったといわれます。

上野大仏(上野公園)

2012-05-23 06:34:23 | Weblog
    

 最初は寛永8年、越後村上藩主堀直寄が戦死者の慰霊のため建立しました。しかし正保4年

の地震、天保12年の火災、安政2年の地震で被災しその都度補修再建しましたが、大正12

年の関東大震災で4度目の崩壊、改修されないで寛永寺で管理されていましたが、胴体部分は

戦時中に供出となり、昭和47年に顔だけが元の場所に戻りました。  

      

 このような災難を乗り越えた大仏は、現在は顔だけ残す様子が「これ以上落ちない」という

ことから「合格祈願」として親しまれています。合格祈願の絵馬が増えすぎてしまい一部をは

ずさなくてはならないほどの人気とうことです。昭和42年には関東大震災50周年を迎え、

大仏再建を願って、上野観光教会がパコダを建立したのです。

噴水広場一新(上野公園)

2012-05-22 06:38:24 | Weblog
 

         これは改装前

 一年以上も工事中であった上野公園の噴水広場がリニューアルオープンされたと聞いて、偵

察に行きました。なんでも50年ぶりの改装工事だったらしい。新しい噴水はご覧の通り勢い

よく水を7m位噴き上げるが、野外オペラ公演などのための細工もしてあるそうだ。つまり水

を抜くと観客席や舞台として使えるように階段状になっているという。さらに470トンの地

下貯水場や3カ所の防災トイレやヘリポートなど、防災機能も備えたといいますから先ずは合

格点を差し上げましょう。  

    

 もともとこの地は寛永寺のど真ん中であったところで「竹の台広場」と言われます。周辺の

樹林の中には、野口英世や上野公園生みの親のボードワン博士の銅像、ラジオ体操発祥の地碑

などがあり、今回の工事でその森も大木を残して整備されました。シックなデザインのオープ

ンカフェ2店が開店して、家族連れが散策・休憩などより楽しくなりました。