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第496回 インドの「今」を垣間見る

2022-10-28 | エッセイ
 インドというと「混沌」「貧困」「厳格な身分制度に基づく差別」などついついネガティブな言葉が思い浮かんでしまいます。一方で、近年はIT大国として力をつけ、存在感を増しているのも事実です。はたして現状はどうなのか気になって「インド残酷物語 世界一たくましい民」(池亀彩(いけがめ・あや) 集英社新書)を手に取りました。2009年~2017年に、彼女がインド南部のカルナータカ州の州都・ベンガルール(旧バンガロール)を中心に実施したフィールド調査の結果を、一般向けにとりまとめたものです。その街並みです。


 調査の足となって活躍したタクシー運転手のスレーシュさんとの交流を通じて垣間見えてきたインドの「今」をお伝えすることにします。
 彼は、顧客である大学教授(地元の超エリート校・インド理科大学院勤務)の紹介で、タクシー会社から派遣されてきました。確か2回目の利用の時だったというのですが、こんなことを言いだしたといいます。
「マダム、僕ね、刑務所に入っていたことがあるんですよ。後でバレて、お互い気分が悪くなるより、はっきりさせておいた方がいいと思いましてね。そんなドライバーは嫌だっていうなら、他のドライバーを呼びますから。全然気にしませんから、はっきり言ってくださいね」(同書から)
 身の安全より研究者としての好奇心が勝ち、話を聞いてわかったのはこんな事情です。

 彼の妻が首をくくって自殺しました。前から恋人がいた模様でしたが、しばらく放っておきました。すると、妻の両親も自殺とわかっていながら、彼を殺人で訴えたのです。裁判で、彼は裁判官に対し「あなたが、僕が殺人を犯したと思うのなら有罪にしてください。そのことであなたを恨むことはしません。でも僕はやっていません」(同)と堂々と主張しました。それが認められ無罪となりました。ただし、判決までの数ヶ月、刑務所に入っていたというわけです。
 なぜこんな理不尽なことが起こったのか。それは、一家、眷属の「メンツ」を守るためだ、というのが、著者の説明です。不倫して、自殺するような娘のいる家って、どんなもんだろうという評判で一族が傷つくことを何より恐れて、彼を殺人で告訴したというわけです。「彼らはそうせざるを得なかったんです。実はあとで、謝られた。」(同)と理解を示すスレーシュさん。家(イエ)の名誉を何より重んじる「変わらない」インドの「今」がありました。

 そんな彼は、明るく社交的な性格で著者の信頼を獲得し、調査でも大いに活躍します。調査地の人と親しくなり、独自の裏情報を取ってきて、彼女に提供するなど、欠かせない人材になったのです。そこには、顧客の信頼を獲得することが、目先の売上アップにつながるだけでなく、将来、その人的コネクションをどこかで活かせる、というしたたかな計算もありました。
 事実、IT企業が多いベンガルールでは近い将来、小型タクシーの需要が増えると読んだ彼は、ミニバン(7人乗り)から、4人乗りの小型新車への買い替えを計画します、そして、その頭金は、著者と、さきほどの大学教授からの借金で賄うことでしっかり、ちゃっかり活かされました。

 彼の読みは、2013年に、ウーバー(スマホアプリによる配車サービス(日本では「白タク」行為になるため認可されていません))がインド進出したことで見事にあたりました。2016年初頭から、従来のタクシー会社との兼業で始め、やがてウーバー専業となりました。
 「すべて交渉次第」(同)のインドですが、ウーバーの料金は、行き先までの距離、車のランク、空車のあり具合で決定し、交渉の余地はありません。また、利用客がドライバーを評価するだけでなく、ドライバーも客を評価する仕組みがあります。呼ぶだけ呼んで、ドライバーをやたら待たせたりする客は評価が下がり、呼んでも配車してもらえない、などということもあります。

 スレーシュさんのことですから、そんな「非インド的」なシステムに、うまく適応し、5つ星評価で、最高4.7までいったといいます。また、ウーバー独自の収入保障の仕組みに乗って、かなりの収入を得、さきほどのインド理科大学院近くの高級住宅地に居を構えるまでになりました。インド的人間関係を活かす才覚と、西欧流合理主義に対応できる知恵があれば、新しい人生が開けるー「変わろうとする」インドの「今」の一端が見えてきた気がします。

 一定以上の生活水準を獲得したスレーシュさんですが、実は、かなり下層のカーストに属します。両親はコーヒー農園の単純労働者として苦労を重ねてきました。自らの努力で、ある程度の成功を手に入れたとはいえ、彼の息子の明るい未来のため、教育に情熱を注ぐのは当然です。タクシーの顧客である大学関係者とのインド的コネなども利用して、エリート校への入学を目指すのですが、カーストの壁は厚く、面接には呼んでさえもらえませんでした。「少なくとも、平等にチャンスが与えられるべきですよ。そこから頑張るかどうかはそれぞれの責任でしょう。でも、そもそも入学させないなんてひどすぎる」(同)と憤るスレーシュさん。
 結局、息子さんは、高級住宅地にある仏教系の私立学校に行くことになりました。英語で授業が行われ、下層カーストの生徒を積極的に受け入れるなどなかなかの評判だといいます。人間の平等という仏教の基本理念が、インド社会に刺激を与え、息子さんが世に出る時には、存分に活躍できる世の中になっているーーーそう願わずにはいられません。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。