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第493回 夢で復活した坂本竜馬

2022-10-07 | エッセイ
 幕末に活躍した代表的な「有名人」を挙げるとすれば、坂本竜馬は外せないでしょう。確かに、倒幕を目指す薩摩と長州の同盟締結や大政奉還に奔走するなど、維新の立役者のひとりで人気があります。


 でも、竜馬が本当にやりたかったこと、目指したものは何だったのか?私もいろいろ本を読んできましたが、いまひとつストンと理解できず、モヤモヤ感を抱えていました。
 すっきりしたのは、司馬遼太郎のエッセイ「竜馬の死」(「司馬遼太郎の考えたこと 3」(新潮文庫)所収)を読んでからです。
 竜馬は、長崎で「亀山社中(のちに「海援隊」)」という組織を立ち上げています。今でいう株式会社のようなもので、みずから出資もしています。船を利用して、国内はもちろん、外国とも広く貿易ビジネスを展開するのが夢だったのです。しかし、頑迷固陋な幕府のもとでは、それは実現出来そうもありません。なら、倒すしかないというのが彼の行動原理だった、との司馬の説明が腑に落ちました。

 さて、そんな竜馬の名も、明治の30年代頃にはほとんど忘れられていた、というのが意外です。で、その名が復活するきっかけとなった興味深い「事件」がありました。同エッセイに拠り、ご紹介します。

 明治37年2月4日の御前会議を経て、同6日、ロシアとの国交は断絶し、東郷平八郎率いる連合艦隊は外洋に出航しました。日露戦争の始まりです。大国相手の戦争であり、憂色が国を覆いました。とりわけ、宮中の憂色は特に濃く、時の皇后(昭憲皇太后)は神経を病まれるほどでした。

 その2月6日の夜、葉山の別邸に滞在中の皇后は夢を見ました。
「夢に白装の武士があらわれたのである。かれが名乗るには、「微臣は、維新前、国事のために身を致したる南海の坂本竜馬と申す者に候」という。皇后はその名を知らなかった。その白装の武士はさらにいう。「海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽くすべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言い、掻き消えた。」(同エッセイから)

 翌朝、皇后は、夢の事は伏せて、「坂本竜馬とはいかなる人物か」と皇后宮大夫の子爵(ししゃく)香川敬三に下問しました。香川は土佐系の志士で、竜馬をよく知っていましたから、ひととおりの事歴を説明し、その日はそれで終わりました。

 ところが、皇后は、なんと翌日にも同じ夢を見たのです。皇后は、香川に夢の内容をすべて話し、夢に出てきた人物が、本人かどうかの特定ができる詳しい資料を探し出すよう命じました。八方手を尽くした結果、1枚の写真が入手でき、香川は女官を通じて、部屋の一角に置いておきました。それを見た皇后はあわただしく彼を呼び「この人である」と言われました。顔立ちはもちろん、撫で肩に桔梗の紋まで同じだというのです。

 この話は、「皇后の奇夢」として、都下の新聞各紙を通じて広く巷間伝えられ、竜馬の名前もすっかり有名になりました。
 いかにも不思議な予知夢ですが、なにしろ、皇后がご覧になった夢なので、真偽のほどは分かりません。司馬も、ロシアをあまりにも恐れる国民の士気を一変させるための作り話、との可能性を示唆しています。
 また、当時、宮中の要職についていたのは土佐系が中心で、明治政府の中枢を握る薩長に対し、土佐株を上げるための仕掛け、との推測も披露しています。

 ただ、確実にいえるのは、この「報道」がきっかけで、坂本竜馬の名前が広く知られるようになったことです。京都東山にある竜馬の墓のそばに大きな碑ができたのは、この奇夢が喧伝されたあとのことです。また、大正期には、彼の伝記が多く出版され、映画や芝居にも登場し始めています。
 おかげで(?)司馬自身も、その延長で「竜馬がゆく」という作品をものにでき、文名を高めたとも言えます。一旦は、忘れられかけましたが、それだけ魅力ある人物だったのですね。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。