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第185回 蒟蒻(こんにゃく)新聞

2016-09-30 | エッセイ

 どんなニッチな業界にも必ずといっていいくらい存在するのが、「業界紙」です。

 私がかつて勤めていたのも、そこそこの規模の業界でしたが、もちろん業界紙があり、職場にもよく回覧されてきました。定期的に回ってくるのだけで、10紙近くあったでしょうか。自分の会社、業界の動きを他から知るというのも、考えてみれば変な話。でも、社内他部門の動きとか、時期になれば人事情報なんかは、それなりに重宝してました。
 限られた業界関係者だけが対象で、果たして商売になってるのかなぁ、などと(自分がカネを払うわけでもないのに)余計な心配したり、なんだか胡散くさい存在だなあ、などと当時は感じてました。

 「業界紙諸君!」(佐野眞一 ちくま文庫)は、金融、ウナギ、葬式など様々な業界の情報誌たる「業界紙」に生きる人たちを描いたノンフィクションです。

とりわけ、戦後40年にわたり、ひとりでコンニャクの業界紙「蒟蒻新聞」を発行し続けた人物を巡るエピソードが興味をひきます。

 冒頭、駅前の交番で訊けばすぐ分かる、と発行人から教えてもらった著者(佐野)が、蒟蒻新聞社の所在を尋ねる場面があります。「こんにゃくしんぶんしゃ」と聞いた若い巡査が「ぷっ」と吹き出して、もうひとりの巡査の肩をこずきながら、必死で笑いをこらえていた、とあります。印象に残る書き出しです。そんなユーモラスなエピソードを生む紙名とは裏腹に、蒟蒻新聞を巡る展開はドラマチック。

 新聞の創刊は、昭和23年7月25日(奇しくも、私の誕生日と4日違い!なんだか時代の気分を共有できそうな気がします)。たったひとりで立ち上げたのは、村上貞一という人物です。

 元は、報知新聞(大正時代から、第二次大戦後しばらくまで存続した有力紙。後継は「スポーツ報知」)の記者です。整理部、政治部を経て、昭和12年には、北京支局長に抜擢されていますから、極めて有能な人でした。周辺からは、錚々(そうそう)たる政治家、ジャーナリストが輩出しています。
 しかし、敗戦が村上の運命を大きく変えました。開戦時に大陸中国の地方紙の編集局長をしていたことから、GHQによるパージの対象になってしまうのです。ジャーナリストとしての道を断たれた村上に声をかけたのが、コンニャク団体の役員をやっている知人でした。

 知人によれば、コンニャク相場が安定せず、手を焼いている、やはり、情報不足が大きな要因と考えるので、団体の会報編集を引き受けて欲しい、との依頼でした。
 この依頼が「蒟蒻新聞」の創刊につながるのですが、子供3人を抱えての転身は、辛い決断だったに違いありません。


 発行部数1000部。購読料は年間240円といいますから、当時の物価水準を考えても、経営は厳しいはず。各種業界紙の原稿整理のアルバイトなどで糊口をしのぎながら、コンニャク業界の取材、執筆活動に取り組んだというから頭が下がります。

 村上には、コンニャクの歴史から、栽培法、製粉法、料理法にまでふれた「蒟蒻宝典」をはじめ、数々の労作があります。「最新蒟蒻宝典」(1964年刊)の表紙です(国立国会図書館のサイトから)。


 ジャーナリストとして、実に有能で、やる以上は徹底的にやるタイプの人物であったことがよく分かります。
 取材当時、村上は88歳でしたが、取材で全国を飛び回っていたといいますから、根っからの記者魂の体現者でもありました。

 同書の最後に、ちょっと心温まるエピソードが載っています。同書が出版されて10年ほど経った頃、著者に一本の電話がかかって来ました。
「突然の電話、失礼します。実は、私の親父は村上貞一といいます。死ぬまで「蒟蒻新聞」を続けていました。もうお忘れかも知れませんが、親父はあなたが取材して書かれた「業界紙諸君!」をどこに行くにも肌身はなさず持ち歩いていました。失礼とは思いましたが、昨日、その本を親父の遺品と一緒に荼毘(だび)に付させていたふだきました。親父もあの世できっと喜んでくれていると思います」

 「蒟蒻新聞」創刊当時、中学生だった村上の長男からの電話でした。「感動した」と佐野は書いています。分野こそ違え、ジャーナリストとして、精一杯取り組んで来た二人だけが共有できる熱い想い。心から羨ましく思うと同時に、いい加減なサラリーマン生活を送って来た我が身がちょっと恥ずかしくなりました。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。