日本全国で、日蓮宗霊跡本山に指定されている寺は13カ寺あるが、佐渡では新穂の根本寺と佐和田市野沢の妙照寺の二つだけである。日蓮が佐渡へ配流となると、彼は時の佐渡守護代本間氏に預けられ、荒れ果てた、その昔は死人の捨て場であった塚原の三昧堂の中に入れられた。日蓮は寒さと飢えと戦いながら、翌年の4月に市野沢の妙照寺に移るまで、他宗の僧侶達とこのお堂の中で塚原問答を戦わせ、後年「開目抄」を著したと言う。
ここで日蓮の佐渡配流の理由に関し、史実を踏まえた上での私見を披露したいと思う。日蓮は文永8年(1271年)、幕府により佐渡に流された。日蓮が他宗を排撃し、幕府を批判したためだからだ。日蓮は著書の中で「人々が法華経の教えを捨て、浄土教に帰依したために災害が続出しており、このままでは内乱や侵略が起こるであろう」と主張した。つまり、日蓮は、「法華経を信仰しさえすれば、他国からの侵略を防衛できるし、未曾有の災害も回避できるという」独特の理論を展開したわけだ。
日蓮から批判された僧達は、「日蓮は法華経に固執し、他宗を批判し、また弓矢などの戦の道具を蓄え、凶徒を一箇所に集めている」と幕府に密告した。その結果日蓮は拘束され、彼らの訴えを認めさせられた。宗派間の抗争はいつの世にもあるし、これが異教徒同士の争いになると宗教戦争と化す。日蓮の批判の矛先は、幕府の実権を握る北条氏一門の帰依する僧たちに向けられていた。つまり、「日蓮は、時の政権に対し弓矢を引き、幕府転覆を図る不届きな輩である」との危機感を抱いた幕府は、国家安寧のため、日蓮に対する何らかの処罰を考えた。日蓮は「法華経を正しいと認めよ、さもなければ流罪・死罪になろうとも法華経のためには身を捨てても惜しくはない」と言う強い意志を示し、決して自身の主張を曲げようとはしなかった。それゆえ、文永8年、幕府は日蓮を捕縛し佐渡への流刑に処したのである。
とまあ、歴史の小難しい話はこのくらいにしたいし、史実の解釈に無理があってもこのブログは歴史学会の論争ブログではないので、私の解釈に異議のある方は歴史専門ブログで反論して欲しい。ところで根本寺に参拝するためには拝観料を支払う必要がある。ほとんどの佐渡の寺は無料で参拝できるが、何故この寺だけ金を取るのか?素朴な疑問だが、相川金山が隆盛を極めた慶長年代の山師で日蓮に帰依した味方但馬が寄進して建立した寺だけあって、境内の建築物は豪勢そのものだ。さぞかし維持費用がかさむのもむべなるかなであり、そのための拝観料徴収は止むをえまいと思った。
二天門
ツツジが満開
本堂
水子地蔵尊
水子地蔵
このように
並んでいる
観音像
太鼓堂
狸像
境内で見つけた花菖蒲
同じく、とある花
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