ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

ウズベキスタン5日目ー午前 ブハラ観光

2010-04-26 22:12:39 | Weblog
とにかくブハラはいい。
観光のメインとなる地区は、あまりクルマも入ってこないので、とても静か。
てくてく歩くにはちょうどいい広さだし、サマルカンドよりも観光地化している。
地元の人にとっては、迷惑な話かもしれないけど。

泊まっているホテルはマリカ・ブハラ。とてもきれいで快適。
部屋が1階でフロントに近かったので、部屋のなかでWi-Fiがつながった。
この点だけでも、サマルカンドより外人に慣れているような印象を受けた。

ただ、これはサマルカンドのホテルも同じだったんだけど、防音はほとんどない。
昨日は夜中の2時に、上の階の人がドタバタ走り回っていて、その音で起きてしまったし、
ロビーの話し声や、外の道を歩く人の声(サマルカンドやブハラの人の声は決して大きくない)、
クルマやクラクションがよくよく聞こえる。
まあ、長屋にいると思えば、こんなもんか。
警戒心の強い人には、夜は決して快適とは言えない環境だと思う。

ホテルの朝食は、サマルカンドと似たような感じだった。

今日は8時30分から散策開始。午前中は曇っていた。
まずは、カラーン・ミナレットヘ行く。
お店の準備中。


チンギス・ハンも見上げた同じカラーン・ミナレット。
ブハラのシンボルで、多くのキャラバンがこの塔を目指してやってきた。


次に、アルク城へ。城壁をぐるっと回る。
おそらく本当に古いもの、比較的新しいもの、最近修復されたもの、の3層が見えて、
裏側もなかなか面白い。
 

入り口にいた切符売りのお兄さんがとても親切で、
アルク城のビューポイントまで連れて行ってくれた。

アルク城は、モンゴルが攻め込んだとき、住民も立て込んで応戦したところ。
モンゴルによって破戒された城をその後修復し、
そして20世紀、ソビエト領となったあと、ボルシェビキによって再び破戒された。
いまは何も残っていない。
ただ、昔と同じように、ブハラの町を一望することはできる。


がれきをよく見ると、たまに色や模様がついた破片があった。

次に、バラハウズ・モスクへ。ここは、ブハラ・ハン専用のモスクだったらしい。
天井を見上げたら、すごく北京の故宮と似ているような気がした。
 

チャシュマ・アイユブという予言者ヨブの泉へ行くと、中にわき水が出ていた。
白人さんたちが、すごい勢いでガブガブ飲んでいたので、遠巻きに眺め外へ。
イスマイール・サーマーニ廟へ向かって歩いていたら、かわいい女の子に英語で話しかけられた。
10歳だと言っていたけど、今日は学校ではないのだろうか。
道ばたに咲いていた花を摘んで、プレゼントしてくれた。私はお返しに、キャラメルをあげた。
そして、一緒に廟に入って、イスラム式のお祈りを教えてくれた。

廟から出ると、前にアメリカ人のグループがいて、
その女の子は、そちらに向かって走って行ってしまった。
やはりどこの国でもかわいい子は移り気だな、と思いながら、もらった花とともに写真を1枚。


すると、女の子がいそいで走って追いかけて来る。
口の中でなにかをころがしているから、どうやらキャラメルが威力を発揮したようだ。

ブハラの入り口が復元されているタリバチ門と城壁の前で、写真を撮らせてもらった。
慣れてるなあ。


写真ではよくわからないけど、ずっと先の方で、男女がイチャイチャしていた。
無粋にも、横を通らせてもらいました。でも、気にせず続けていたから、まあいいでしょう。
私は外国人だし、異教徒だから、風紀がどおの、とは申しません。

それにしても、10歳の少女と私の英会話力がほぼ同等って、やはりマズいと思った。

ウズベキスタン4日目 サマルカンドからブハラへ

2010-04-26 01:47:03 | Weblog
12時の列車で、サマルカンドからブハラヘ移動。
11時にホテルでガイドさんと待ち合わせだったので、
午前中は、ホテルの中庭でブハラ予習をしていた。

泊まったのは、シェルドルというホテル。
これが、ホテルの朝食。


そういえば、3日とも同じメニューだった。
でも、このソーセージはおいしい。

ホテルの中庭と部屋の扉。
 

11時にガイドさんと一緒にサマルカンド駅へ向かう。
駅へ入る前に、駅前で昼食。マントウを食べた。
中国のものよりも皮がうすい。すごくおいしかった。


列車では、今回はおじいさんの隣の席だった。
おそらく、ブハラへ行くのか? タシケントじゃないな? ブハラだな? と、
心配して聞いてくれたのだと思う。

私は、車内がとても暑かったので、おじいさんは大丈夫かと少し心配だった。
おじいさんは、少しつらそうだったけど、お湯を何杯も飲み、
ブハラに到着する前には「ブハラ」と教えてくれた。とても親切だった。

15時30分ごろ、ブハラ駅に到着。
ガイドさんは、カタコトも英語を話さないけど、人の良さそうなおじさんだった。
ホテルについて、荷物を置き、とりあえず決して見逃してはいけないところだけ行った。


あとは明日。

ウズベキスタン3日目 サマルカンド観光

2010-04-26 01:00:07 | Weblog
この日は一人。
やはりもう一度、アフラシャブの丘へ行くことにした。
レギスタン広場の横を通ると、朝の掃き掃除をしていた。


アフラシャブの丘へは、前日とは違うルートで入ることにした。
シヤブ・バザールを出てすぐ見えるハズラティ・ヒズル・モスクの横から入る。


現地の人が、城壁にお墓を作っているのだけど、
それを横目に見ながら、ひたすら歩く、歩く、歩く。

そして、いかにも城壁っぽいところを見つけた。
アフラシャブの丘の西側で、
たぶんタシケント通りだと思うのだけど、アフラシャブ博物館へ行くほうではなくて、
空港やバスターミナルに行くほうの道をはさんだ西側。


この裏側へまわると、いかにも城壁っぽいものがある。
 

日陰に座って、しばらくボーッとした。

城壁の下に広がるモンゴル軍を見たとき、サマルカンドの人たちはどんな気持ちがしただろう。
モンゴルはサマルカンドの街を見たとき、どう思っただろう。

チンギス・ハンは、モンゴルの法律「ヤサ」を守りさえすれば、誰でもモンゴルの一員だ。
宗教も言語も人種も関係ない、と言った。

チンギス・ハンは、いきなりホラズムに戦争を仕掛けたのではない。
通商をしたくて送った一行を、ホラズム側が殺してしまったので、
チンギス・ハンは激怒し、報復に出たのだ。

友好的に通商が開かれたとしても、いずれは戦争をしたかもしれない。
でも、「ヤサ」を守ればモンゴルの一員と言わしめたのは、
チンギス・ハンが、高度な文明に魅せられていたからだと思う。

当時、モンゴルよりもはるかに進んだ文化、技術、社会組織をもったサマルカンド。
チンギス・ハンは、職人を非常に大切にしたという。
サマルカンドを徹底的に破戒したけれど、職人だけは生かしたのは、
彼らが生きていさえすれば、高度な技術を失うことはない。
ぜひ自分のもとへ集まってほしいと、本気で望んでいたのかもしれない。

本当はサマルカンドも破戒したくはなかったかもしれない。
美しいまま、手に入れたかったのではないか。
降伏してほしいと心からいちばん望んだのは、チンギス・ハンその人だったかもしれない。
なんとなく、そんな気がした。

その後もてくてく丘の上を歩き回った。
何か焼き物の破片が見えた。


その後、熱が体中にたまってしまったので、
お土産物屋さんをひやかしながら、ホテルに帰ることにした。
今日は一人なので、お昼ご飯で冒険ができない。
素直に『地球の歩き方』の指南どおり、
レギスタン広場の対面にあるラビ・ゴールというレストランで、ラグマンを注文した。
非常においしい麺だった。
だけど、スプーンしかついてこなかった。せめてフォークだろう。
あと、ナンは4分の1でいいよ。と、言えなかったのが残念。


ホテルで約2時間ほどクールダウンしてから、
近くのホテルまで、インターネットを求めて散歩することにした。
『地球の歩き方』には、無線LANがある、ビジネスセンターがある、と
書かれているホテルでも、なんと使えない!

AirMacは来ているのに、レセプションの女性がたぶん無線LANのことを、まったくわからない。
パスワードを発行してくれればいいんだけど、お金を払ったら使えるの?
と、聞いても、無線LANはない、という答えが返って来た。
2つホテルを回って、両方とも同じ答えだったから、本格的にあきらめた。

帰り道、ティムール像の裏側で、「2010」というかたちに花を植えている人たちを見た。
もう2010年になってから4ヶ月よ、と突っ込みたい気分だけど、きっと花が咲くのを待ってたんだよな。


そして、はじめて変なおじさんに遭遇。
日本製のボールペンを、ほとんど価値がないウズベキスタンのコインと
交換させられるハメに陥った。
まとわりついてくるのを、なんとか振り切ってホテルに戻った。
旅は、こういうこともなきゃね。
それにしても、日本のボールペンはどこへ行っても人気者だ。

この日一日でかなり日焼けして、身体がつかれているから、
夕方4時から約2時間、ホテルの中庭で、このブログの下書きをした。
食べ物も脂っこい物はたぶんダメなので、
持って来たカロリーメイトのメープル味を食べる。

なんだかすごく、ケミカルな味に思えた。
日本で食べたのなら、かなりおいしい部類に入る味だと思うのだけど、
サマルカンドという土地のせいかな、
昼になめたのど飴も同じようにケミカルに感じた。

頑張って起きていて、ホテルの中庭から夜空を見上げてみようと思うのだけど、
電気がすべて消されるころには、もう熟睡している。

ウズベキスタン2日目ー午後 サマルカンド観光

2010-04-26 00:27:06 | Weblog
ガイドさんが敬虔なイスラム教徒だったので、午後の1番目は、
金曜日の礼拝があるモスクへ連れていってもらった。
いまのモスクを見たかったし、ガイドさんは金曜日の礼拝に行けるし、一石二鳥。
たくさんの人が来ていた。なぜかお土産物にキューピーちゃんらしきものを発見。
宗教関連でなくてもいいのだなあ。
 

とはいえ、礼拝の時間は、女性は外で待っていなければならないので、ガイドさんとは別行動。
1人で敷地内をぶらぶらしていたら、おばあさんのコーランを読む声に惹かれた。


1時のお祈りが始まり、コーランを読む声がスピーカーから聞こえて来たら、
ついつい気になって、遠巻きに礼拝している男性たちを眺めに行った。
絨毯をかついで、急いで礼拝にかけつける人もいた。
礼拝が終わったらすごく大勢の人が出て来て、こんなにたくさんの人が入っていたのかとビックリした。
 

次に、シャーヒズィンダ廟群へ。
ティムールゆかりの人たちのお墓が並んでいる。
お妃様のお墓もあった。
女性的なやさしく美しい内装で、とても素敵だった。
 

青いタイルと、赤い服を着た女性。本当に美しい。
それにしても、なぜウズベキスタンの女性は、
3人くらい子どもを産むと、ものすごく太ってしまうのだろう。もったいない。


とはいえ、ここには、モンゴルにも破戒されずに残っている廟もある。
ようやく、むかしの人が見たのかもしれない同じ光景を見ることができて、
なんだか嬉しかった。

その後、シルク絨毯の工場へ。
2人掛かりで、半年もかかる手織り物だった。
ここは、小泉元首相も訪れたことがある工場で、写真が飾ってあった。
そういえば、首相在任中、最後のほうに中央アジア歴訪していたことを思い出した。


次は、サマルカンドペーパーを復興している紙すき工場。


ここでは、青年海外協力隊で赴任している日本人女性と会い、サマルカンドペーパーの説明をしてもらった。
ソ連の時代に、一度ほろんでしまったそうで、昔の製法はまだ完全には復元できていないらしい。
昔のサマルカンドペーパーの本の紙を透かしてみると、微妙にいまのものとは違う。
すごく興味をそられた。

この日本女性には、その後、木彫りのお土産を買うのにもつき合ってもらった。
通訳までしてもらい、おかげでいいものを適正な価格で買うことができた。

そして、ずうずうしいついでで、木彫りの先生の教室にもお邪魔。
ふつうの観光旅行では、なかなか入り込めないサマルカンドの生活を覗かせてもらって、本当に感謝。

と、盛りだくさんな一日が終了。