ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

やはり中国語から始まる

2010-04-21 17:27:57 | Weblog
久しぶりに新宿から成田エクスプレスに乗った。
すっかりリラックスしていたら、東京駅で女性が乗って来た。

私の座席と同じチケットを持っていた。
困った顔をしている。
私が自分のチケットを見せると「あれ?」という顔。

「日本人ですか?」と英語でたずねたら、「中国人です」と英語で返ってきた。
ならば、中国語で話すべし。
「それなら、私が車掌さんに聞きに行くから、あなたはここで座って待ってて。
荷物を見ててね」とお願いして、車掌さんを探しに行った。

途中で車内販売の方に会ったので、事情を説明し、
車掌さんを呼んでもらうことにして、先に座席まで戻った。

座席まで戻ると、
彼女が、「ごめんなさい。チケットの日付が違いました。
空港まで人を迎えに行くんだけど」と言う。

私が「今日じゃないなら、戻るの? というか、その人は今日来るの?」と聞くと、
彼女は、「今日到着なので大丈夫」と言う。

ということで、車掌さんに、チケットを今日の分に変更してもらい一件落着した。

成田空港で先に降りる時、彼女が「ありがとう。じゃあね」と手を振って行ってくれた。
こういうとき、中国の人はちゃんと挨拶をしてくれる。

今回の旅行は中国じゃないんだけど、最初に使った外国語はやはり中国語だった。
どこまでいっても中国なのかな。

ウズベキスタンは、韓国の人が多いと聞くから、
韓国語で話しかけられるんじゃないかと思っているんだけど、
このぶんだと、やはり中国語で話しかけられそうだ。

それにしても、たくさんある座席の中で、どうして私の席だったのか。
縁、なんだろうなあ。

四月の雪

2010-04-21 02:17:59 | Weblog
先日、東京で四月に雪が降ってからずっと、
王菲(フェイ・ウォン)の「四月雪」という歌の歌詞を考えている。

四月に突然雪が降り、信仰とは、と考え始める、という歌詞で始まるこの歌は、
ある時期、私の心情をリードしてくれた。

特に、王菲の歌声が美しく響く、
この世が絶望に包まれ始めると、神様は高らかに歌い始める。
私たちには、悲しみを語るどんな資格があるだろう。
というくだりは、
私という存在がもつ自己肥大の欲求を、ふと冷ましてくれる。

王菲という人は「我信佛」イコール「仏教を信奉しています」と公言するだけあって、
歌詞に思想が詰め込まれている。

日常の延長ではないことが起こったとき、私は信仰を求める。
信仰とは何かを考える。

そして、いままでは気づかなかっただけで、
私の生活は信仰に支配されていたのだと気づく。
それは、両親からのプレッシャーであったり、友だちの生き方であったりする。

気づかぬうちに捕われている信仰に近い自己抑圧。
これを見極めることが、ときに必要になる。