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◆芙蓉部隊(特攻拒否の異色集団)~戦争と平和

2021年08月09日 16時09分47秒 | ●YAMACHANの雑記帳

芙蓉部隊(特攻拒否の異色集団)~戦争と平和

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芙蓉部隊の特集。太平洋戦争末期、断固特攻作戦を拒否し、正攻法のみで攻撃し続けつた部隊。

特攻拒んだ芙蓉部隊指揮官 遺族に「遺言」

飛行服姿の美濃部正氏=遺族提供

飛行服姿の美濃部正氏=遺族提供

若い部下を犬死にさせるだけだ−。太平洋戦争末期、旧海軍航空隊「芙蓉(ふよう)部隊」指揮官の美濃部正(みのべただし)少佐(当時)=一九九七年に八十一歳で死去=は旧日本軍が決めた航空機による全軍特攻を拒み、部隊は沖縄の米軍に対し、死を前提としない夜間攻撃を重ねた。遺族には「ばかな戦争」を繰り返すなと言い残した。関係者の証言や自伝から、少佐の横顔や夜襲で戦果を狙った背景を追った。「十重二十重の防御網を突破するのは不可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てない」。四五年二月、当時二十九歳の美濃部少佐は連合艦隊司令部の作戦会議で独り、特攻に反論した。少佐の実績を評価する上層部もおり、司令部は後に芙蓉部隊を特攻から外す異例の判断をした。部隊は会議に先立つ一月、静岡県の藤枝基地で発足し、現地から望む富士山の別名「芙蓉峰」から命名。七百人以上が所属し、戦闘機と爆撃機を終戦時に計百機以上擁していたという。司令部に「指導訓練の創意工夫が足りない」とも訴えた美濃部少佐。日中の航空攻撃では、圧倒的戦力を誇る連合国軍に壊滅させられると熟知していた。「突撃ラッパに踊らされては、若い部下を犬死にさせるだけだ」
 芙蓉部隊はパイロットや機体、燃料すら不足する中、高度な技術が必要な夜間攻撃を習得するための独自訓練を始めた。昼夜逆転の生活で夜目を鍛える「猫日課」、立体模型を使った図上演習、戦術を学ぶ座学−。主力は最新鋭の水冷エンジンを積む艦上爆撃機「彗星(すいせい)」。整備が難しく他部隊は敬遠したが、整備兵は製造元に学び、格納庫に寝泊まりした。「夜間訓練は苦しく命がけだが、無駄に死なせないとの思いが伝わった」。彗星の元無線兵渋谷一男さん(94)=島田市=は美濃部少佐の狙いを説明。少年らを極力出撃させないといった配慮もあり、人柄を慕う部下は多かったという。
 沖縄戦が始まった三月下旬以降、部隊は鹿児島県の鹿屋、岩川両基地に相次ぎ展開。延べ七百八十六機が出撃して米軍に打撃を与えたが、百人超が戦死したとされる。特攻目的の出撃はなかったとされる部隊だが、渋谷さんは「美濃部少佐は特攻を完全に否定していたわけではない」。連合国軍が鹿児島に上陸した際は「全機突入」を想定していたとも明かす。戦後、メディアは部隊の反骨精神をたたえたが、美濃部少佐は家族にもほとんど話さなかった。長女中野桂子さん(75)=浜松市=は「軍人として命令に逆らうのは許されない。後ろめたさがあったのでは」と回顧。「ばかな戦争は二度としてはいけない」。三女竹内聡子(ふさこ)さん(68)=埼玉県狭山市=は少佐の言葉を「空気にあらがう難しさがあっても、大切なものは逆らってでも守れ」と解釈している。

 美濃部 正氏(みのべ・ただし)1915年、愛知県豊田市(旧高岡村)生まれ。37年、旧海軍兵学校卒。水上機搭乗員などとして日中戦争と太平洋戦争に出征し45年に芙蓉部隊指揮官となった。戦後、朝日新聞社への就職が内定したが公職追放で取り消しに。行商や農業を経て54年に航空自衛隊入隊。空自幹部候補生学校長などを歴任し、70年に空将となり退官。97年81歳で死去した


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