「唐(とう)ぬ世(ゆー)から大和(やまとぅ)ぬ世(ゆー) 大和ぬ世からアメリカ世(ゆー) ひるまさ変(かわ)たる 此(く)ぬ沖縄(うちなー)」。戦後、沖縄民謡・島唄の神様と慕われた嘉手苅林昌(かでかるりんしょう)さんが作詞し、歌った「時代の流れ」には、中世以降、沖縄の支配者がめまぐるしく変わった様が、哀感を込めて表現されています。沖縄はアメリカ世から解放されて五十年がたちましたが、広大な米軍基地は残ったまま。復帰先の日本政府は、新基地建設を強行するなど米国に代わり強権を振るいます。自主自立の「うちなー世」はなぜ訪れないのでしょうか。沖縄が日本から分離され、また返される苦難の扱いを受けた起点は一九五二年に発効したサンフランシスコ講和条約三条。米国が国連に沖縄、奄美、小笠原諸島の信託統治を提案し、可決されるまでの間、米国に行政、立法、司法の全権行使を認めるものです。
◆閉ざされた独立への道
信託統治は、自立の力を十分に持たない地域を国連に信託された国が統治し、発展させる制度で戦後できました。六〇年の国連「植民地独立付与宣言」は、信託統治地域など非独立地域を早急に独立させることをうたっています。
制度が適用された十一地域は九〇年代までにすべて独立や自治を確立し、制度は終了しています。
沖縄が信託統治されれば、独立する道もありましたが、米国は信託統治を提案せず、独立の道を閉ざされた沖縄は二十年間、日本国憲法も米国憲法も適用されない人権無視の状況に置かれました。
東西冷戦が激化していた当時です。講和条約発効の翌年にはダレス米国務長官が沖縄統治について「極東に脅威と緊張の状態が存在する限り、米国が引き続き権利を行使する」と宣言しています。
米国は沖縄を国連の信託統治とするよりも、米軍による占領を続けた方が、軍事基地として利用できると考えたのでしょう。
日本政府は当初、米国が沖縄を統治する権利は暫定的であり、三条の扱いは日米間、国連で話し合うべき問題と考えていました。
この立場を覆したのが、六四年に就任し、沖縄返還に政治生命を懸けた佐藤栄作首相です。
佐藤政権は六五年、沖縄の法的地位に関する政府統一見解をまとめ、三条については、米国が信託統治の提案をしないからといって「同条違反だとか施政権行使の根拠が失われたということはできない」と表明しました。
信託統治を巡る議論をせず、沖縄復帰に向けた日米交渉を優先させたのです。米国としても脱植民地化の潮流の中、沖縄を事実上、軍事植民地化していることを国連で議論されなくて済むため、日米の利害が一致したのです。
佐藤政権当時の沖縄は、ベトナム戦争に出撃する米軍の拠点であり、極東最大の核基地でした。
豊下楢彦(ならひこ)・元関西学院大教授(外交史)は「結果として沖縄は、日本が米国に『お願い』するという理不尽な形で返還されることになった。広大な基地固定化の原点はここにある」と言います。
復帰前には日米双方に帰属しない国連の統治や、独立論も混在していたといいますが、沖縄世論の主流は平和憲法が施行されている日本への復帰要求でした。
◆自己決定権も奪われて
共同通信社が今春行った沖縄県民の世論調査でも九割超が本土復帰を評価し、「沖縄独立論」には約七割が否定的です。同時に、復帰後の沖縄の歩みには「基地の整理縮小が進んでいない」「日本国憲法下でも人権が尊重されない」などを理由に半数以上が不満を感じています。講和条約、返還協定、名護市辺野古での米軍新基地建設。すべてが当事者である沖縄抜きで決められてきました。故・翁長雄志前知事はそうした状況を「沖縄の人々の自己決定権がないがしろにされている」と指摘しています。国の沖縄振興予算も、新基地を巡り国と対立した翁長氏と玉城デニー現県政下で減少が続きます。新基地を踏み絵に予算を増減させる政府の非民主的振る舞いが極まっています。十日に決定した今後十年間の沖縄振興基本方針からは前方針にあった沖縄の「自主性を尊重」との文言すら消えました。民主主義の時代に、沖縄の人々がなぜ「自己決定権」に言及しなければならないのか。本土に住む私たちは、その背景にあるものから目を背けてはなりません。沖縄の地に「うちなー世」が訪れるとき、日本が本当の意味での民主主義国家になれるのです。