つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

昔日の津幡町、オペの思い出。

2011年10月17日 18時45分24秒 | 日記
「今日の一枚」は、改装工事中の「河北中央病院 管理棟」。
津幡川に架かる白鳥橋の向こうの建物の壁一面に組まれた足場の上を、
鳶の職人さんが動き回り、あちこちから鎚の音、鉄骨の触れ合う音がする。
そんな様子を眺めていたら、
ここがまだ「病棟」だった頃、お世話になった出来事を思い出した。

当時、僕は津幡中学校の3年生。
部活動にも区切りがつき、勉強の日々を送っていた。
文系科目、国語や英語、社会はそれなりのレベル。
成績が良かった訳ではないが、
元々好きだったし、教科書を開いていても左程は苦にならない。
理科の中でも生物と科学は面白さを見出せた。
しかし・・・化学と数学は散々。
文字・文章よりも、数字や記号・数式を用いて考えるのは、
今も苦手である。
ある晩、なかなか数学の問題が解けず行き詰まった僕は、
「クソッ!」と自分自身に悪態をつき、手にしていた鉛筆を振り下ろした!

おそらく目をつむっていたのが災いしたのだろう。
机に当たって砕け散るはずだった切っ先は、僕の左手親指の爪にグサリ。
鋭い痛みが走り、ノートには点々と血の痕が出来る。
慌てて引き抜こうとしたが、かなり深々と突き刺さっていたため、
軸が折れ、芯が残ってしまった。
すぐさまタクシーに乗せられて向った先は「河北中央病院」。
慌しく救急受付を済ませて病室に入るや
指に数本の局部麻酔を打って、爪をV字に切開。
異物を摘出してもらう。

きっと、慣れない毎日が続き溜まったストレスが爆発した行動だろうが
何とも馬鹿な事をしたものだ。
麻酔が切れた僕は、痛みに耐えながら反省した。

そして、オッサンになった今振り返ってみれば、失笑を禁じえない。
感情のふり幅が大きな10代らしい思い出。
若かったのである。
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行楽の秋を迎えた、津幡町。

2011年10月15日 09時15分03秒 | 日記
「今日の一枚」は「JA石川 かほく本店」裏…駐車場のスナップ。
少々分かりにくいかもしれないが、中央右寄りの辺り、
数台の車と、数十人の人が集まっている。

撮影時間は午前7時頃。
集団からは、話声や笑声が聞こえていた。
どうやら、旅行にでも出発する直前のようである。
乗合バスを待っているのだろう。
誰も大きな荷物を抱えていないから、日帰りの日程と思われる。
…あくまでも想像なのだが、稲の刈り取りを終えた農家の皆さんが、
休息を兼ねてのお出かけなのかもしれない。

農業従事者が相互扶助を目的として設立し、
1990年代以降は「JA」と呼ばれる「農業協同組合」。
金融、保険、燃料など様々な事業体をもつ大組織は、
組合員向けの旅行代理業を行う「農協観光」も有する。

僕が海外へ出かけていた80年代後期、世界中で「NOKYO TOUR」を見かけた。
観光地へ貸し切りバスで乗り付け、首からカメラを下げた団体さんが、
三角の旗持ちガイドに先導され、闊歩する。
お土産店に群がり、あちらこちらで記念撮影。
…というのが典型的なパターンだ。

今、日本国内で同じ様相を見かける。
それは「中国人観光客」だ。
海外も同様のようで、チャイナパワーを実感。
思えば、古くはアメリカ、次に西ドイツや日本、韓国、中国と
経済が潤った国々による団体旅行ブームが繰り返されている。
行楽も世につれて変化するのだ。

さて、津幡町役場の前を通りかかったら、こんな幟がはためいていた。

 

「元気ウォーク」とある。
「石川県内19市町を完歩しよう」を合言葉に、
平成21年から県内各地で開催されてきたウォーキング大会が、
明日16日、津幡町・県森林公園にて開催。
11キロ、6キロ、3キロのコースを選定されていて自由参加できるのだそうだ。

暑すぎず、寒すぎない。
屋外で過ごしやすい行楽の秋、到来である。
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津幡町のミュージック・スタジオとピアノミュージック。

2011年10月14日 21時28分03秒 | 日記
「今日の一枚」は、今朝の散歩中に撮影した「ヤマハ津幡センター」。
場所は、本津幡駅、ハローワーク津幡、クスリのアオキ本津幡店などの近くだ。
随分以前から開業していた気がするが、詳細は不明である。
…が、津幡町内を散歩するようになって、
身近な建物や出来事に関心を持つようになり、こうして目に留まった。

そして、今「ヤマハ音楽教室」のHPを拝見したところ、
なかなか「いい言葉」を発見。引用したい。
『「音楽を学ぶ」ということは「楽器を弾けるようになること」
 と多くの人が認識しているかもしれません。
 でも本当の音楽力は、さまざまな面から音楽にふれることによって
 はじめて育まれます。
 ヤマハ音楽教室では、子どもたちの発達段階や理解力に応じて
 レッスンの中に、「きく」「うたう」「ひく」「よむ」「つくる」の
 5つの要素を組みこんだ「総合音楽教育」を実践しています。
 これによって、子どもたちは「自分で感じ、自分で表現する」という
 音楽を楽しむ力を身につけていきます。
 ただ単に間違わないで弾いたり、
 歌ったりするテクニックを学ぶのではありません。』

…成程。
情操を養い、想像力と創造力を身に付けるのに役立ちそうだ。
しかし、いかに素晴らしい教育を施しても、
受け手側に、それを理解できる感性が備わってないと無意味ではあるのだが。
(またもや)しかし、受動的な立場「聞き役専門」なら、
より気楽に「音を楽しめる」。

おそらく「ヤマハ音楽教室」で生徒が触れるのは鍵盤楽器だろう。
その代表格・ピアノは“最も完成された楽器”だと言われる。
リズム、メロディ、音の強弱・高低を弾き分ける事ができて、
なおかつ、それらを一度に演奏できる事から、
“1台のオーケストラ”とも例えられる「ピアノ」。
そして、フィールドを選ばない万能選手だ。
クラシック、ジャズ、ブルース、R&B、ロック…
どのジャンルにも“名手”と“名曲”が存在している。
例えば「シャカタク」「ナイトバーズ」。
「キャロル・キング」「空が落ちてくる」。
「ローラ・フィジー」「瞳のささやき」。
「KAN」「愛は勝つ」。
「佐野元春」「サムデイ」等々。

歴史を紐解くと、ピアノ誕生は近代の音楽が生まれた18世紀。
当時のピアノは、現代とは比べものにならないほど小さかったそうだ。
やがて工業技術の発達とともに、堂々とした風格に変化。
もしも、今のピアノを「バッハ」や「モーツアルト」が聞いたとしたら、
卒倒するほど大きな音量だろう。

先ほど書いた“完成度の高さ”に加え“存在感”こそ、
ピアノを音楽のメインステージへ押し上げた要因なのかもしれない。
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津幡町の小さな争い、今昔物語。

2011年10月13日 21時31分47秒 | 日記
今は昔、必ず人が群れると争いが絶えない。
“3人集まれば派閥ができる”と言うが、その通りなのかもしれない。

「今日の一枚」は、今朝の散歩中に出遭った投稿中の小学生たち。
何やら言い争いをしながら歩いていた。
一人は涙声。
なかなか、拗れた様子である。

思えば僕も、諍いながら…あるいは泣きながら学校と家の間を移動した。
どうしてそうなったのか、理由も今となっては覚えていない。
多分、大人の思考の物差しで計れば、大した事ではなかっただろう。
だが、子供にとっては極めて重大な何かがあったのかもしれない。

時に笑い、時に泣きじゃくり、時には嗚咽をこらえて。
更に、感情の大波が去った後、孤独に包まれて独り歩く少年少女。

 

こうした登下校の光景はいつの時代も繰り返すものなり。
…と語り傳へたるとや。
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越中・富山から加賀国・津幡へ、街道を往く。

2011年10月12日 23時32分41秒 | 旅行
今回は、先週末に出かけた富山市への日帰り小旅行について投稿したい。
往路は、北陸自動車道に乗って一気に富山市内へ。
目指すは「冒頭の一枚」…「富山城址公園」。
小さな天守閣の中に設置された「富山市郷土博物館」だ。
目的は、そこで開催中の特別展…
「街道を歩く~近世富山町と北陸道」の観覧である。

江戸時代の北陸道は、越前⇔加賀⇔越中⇔越後を結ぶ主要道路。
津幡町も通過し、多くの人と物の交流があった所縁の道だ。
この展示会で焦点を当てたのは3つ。
@藩政期、越中最大の都市だった「富山城下の道筋」。
@全国的な名所だった「神通川船橋」。
越中を東西に分ける「呉羽山越え」。
…について、富山藩領部分の道筋を紹介していると聞き、
興味を掻き立てられ、出かける。
また「富山公文書館」の特別企画展…
「越中の旅人たち~江戸時代の寺社参拝~」へも足を運んだ。

どちらも、版画や文献、江戸末期から明治黎明期の写真などが展示され、
当時の旅人の眼に映っていたであろう風景を追体験。
様々な知識を得て、充実した時間を過ごした。

復路はかつての街道を辿るため下道を選ぶ。
富山市から小杉・高岡へと続く道の途中、神通川を渡った。
 
前述通り、この川にはかつて「船橋」が架かっていた。
以下、パンフレットから引用する。

『今から百年余り前まで、神通川は富山の町を大きく蛇行して流れており、
 町は川の南北で分断されていました。
 その町の南北を唯一結んでいたのが神通川の船橋で、
 北陸道の「富山道」のルートにもなっていました。
 神通川船橋は、江戸時代初期の富山町の新たな整備にともない、
 渡舟に代わって設置されたもので、
 いわば、市街地の再開発によって誕生したものです。
 江戸中期以降は六十四槽の舟を繋ぎ、
 長さは約四百三十メートルもあったと伝えられ、
 常設の船橋としては日本一の長さを誇っていました。
 その雄大な規模・景観は、名所図会や浮世絵版画によって全国に喧伝され
 越中を代表する名所になったのです。』

鉄骨製の橋を渡って、富山の町の境に当たる呉羽山を超える際、
こんな地名に出会う。
 
「茶屋町」。
峠道を越えた旅人たちの喉を潤し、英気を養った頃の名残り。
茶屋は既にないが、名前は残った。
かつては道の両側に松並木が続いていたらしい。
 

そして高岡市内へ。
 
写真右手「翔龍」の看板はラーメン屋さん。
典型的な富山ブラックの味付けで、チャーシューメンが抜群に美味い。
個人的にお気に入りの店だ。
…ちなみに、お値段は一杯「800円」。
展覧会の資料に掲載された400年前の物価と比べてみるのも、一興である。

当時、蕎麦は一杯16文(400円)。
天ぷら蕎麦は倍の32文(800円⇒これに相当する)。
おでん一串4文(100円)。
豆腐一丁12文(300円)。
低成長の安定した経済状況とはいえ、
生活費の相場は、決して安くなかったのが分かる。

庶民が勇んで旅に出た、お江戸の旅ブーム。
ちなみに江戸を起点に人気ナンバー1だった伊勢神宮まで、
往復にかかる費用は「5両程度」。 
現在の貨幣価値に換算すると70万円から90万円…なかなか大がかりだ。 
江戸の人たちにとって「旅」は、それ自体が一種のアミューズメント。
各地の名所を巡り、名物を食べて、散財して、
人生の大きな楽しみを得ていた訳だ。
旅こそ生きる醍醐味、なのである。

さて、高岡市内ではこんな看板を数多く見かけた。
 
北陸には「天神(菅原道真)信仰」が根付いているが、
特に富山の呉西地区は盛んである。
家々では、正月に天神様を飾るのが習慣。
長男が生まれると、最初のお正月に母方の実家から
天神様の掛け軸や彫刻をプレゼント。
無病息災や学業成就を祈念するのだ。
店内は天神様がズラリと並んでいる。
 

ところで、高岡以西の小矢部⇒津幡の道のりだが残念ながら写真がない。
高岡市内で時間を使いすぎ、日没サスペンデッドである。
こちらの行程は、またの機会に。
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