つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

鉄路のリズム&ブルース。

2022年10月14日 18時00分00秒 | 鉄道
                        
本日(2022/10/14)は「鉄道の日」である。
明治5年9月12日 ( 新暦1872年10月14日 )、
新橋駅と横浜駅とを結んだ日本初の鉄道が開業。
それから150年の節目を迎えた。



上記画像は、今朝撮影した一枚。
わが津幡町を通る鉄路「七尾線」を往くローカル電車だ。
津幡町の津幡駅⇔七尾市の和倉温泉駅を結ぶ地方鉄道路線の歴史は古い。
開業は明治29年(1896年)。
つまり冒頭の本邦初開通から、僅か24年後の事。
当時、鉄道網の拡大ペースがいかに急ピッチだったかが窺える。

ガタン ゴトン ガタン ゴトン--- 。
150年もの間、規則正しくリズムを刻むレール音。
それは旅愁を掻き立てる歌のようにも聞こえ、
事実ミュージシャンの歌心を刺激してきた。

あずさ二号       - 狩人
いい日旅立ち      ‐ 山口百恵
TRAIN- TRAIN  - ザ・ブルーハーツ
Choo Choo TRAIN    - ZOO
さらばシベリア鉄道   - 大瀧詠一
哀しみ本線日本海    - 森昌子
津軽海峡冬景色     - 石川さゆり
銀河鉄道999     - ゴダイゴ

他にも「トレイン・ソング」は枚挙に暇がない。
そんな鉄道を歌のモチーフにする感覚は洋の東西を問わないようだ。
例えばこんな曲をご存じだろうか。



「グラディス・ナイト&ピップス」-「夜汽車よ!ジョージアへ」。
スターになることを夢見て大都会にやってきたものの、
そこは生き馬の目を抜く修羅場だった。
成功は平等ではないと悟った男は、
片道切符を手に真夜中のジョージア行きの列車に乗る。
その男に寄り添う女の心情を歌った1973年の全米ナンバー1ヒット。
R&Bの名曲である。

いわゆる都落ちを題材にした歌は、物悲しいのが相場ながら、
コイツはちと雰囲気が違う。
だって、独りではないのだ。
向かうセカンドステージは二人連れ。
ガタン ゴトン ガタン ゴトン---。
列車に揺られて聞く鉄路の音は、希望のビートを刻んでいるのではないだろうか。
                     
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本津幡駅の節目に寄せて。

2021年07月04日 10時34分34秒 | 鉄道
                  
拙ブログには度々登場する「本津幡駅」。
散歩の立ち寄り定番スポット。
特に春は「一本桜」の満開ぶりと併せてよく撮影している。
花の季節はとうに過ぎ、今は葉桜。
覆いかぶさるように茂る緑の奥に見える木造の建物が駅舎だ。



きのう、一歩足を踏み入れた時の印象が違った。
待合に人がいないのは珍しくないが、随分「がらん」としている。
空間のスペースは変わらないのに、広くなったような気がする。
掲示板の案内を読み合点がいく。
「無人駅」になっていたのだ。





本津幡駅の歴史は古い。
明治31年(1898年)、津幡仮停車場として開業。
明治35年(1902年)、現在地に移転し本津幡駅として再開業。
「津幡町史」に昭和元年~29年までの利用状況が、
折れ線グラフで掲載されている。



上は「乗る人」と「発送する貨物」。
下は「降りる人」と「到着した貨物」。
(※注:縦軸の利用人数は上下逆転)
太平洋戦争の開戦に合わせ、乗車・降車共に急増し、終戦をピークに減少している。
--- 往時の本津幡駅前では、
出征兵士を送る日の丸の小旗が打ち振られたり、
勤労奉仕に出発する少年少女の姿があったのだろうと想像する。

貨物も発送・到着共に昭和20年をピークに下降。
輸送手段として自動車(トラック)への転換が窺える。
昭和50年(1975年)、開業時から行われていた貨物の取扱を廃止した。



もう一つ「津幡町史」掲載の棒グラフ。
昭和36年の町内各駅利用者数を比較したものだ。
本津幡駅が堂々のトップ。
グラフ上、今と殆ど変わらない駅舎は、
120年近く多くの人を送り出し、多くの人を迎え入れてきた。
もちろん、僕もその1人である。



生家に自家用車がなかったこともあり、
遠方へ出かける際の交通手段は鉄道が主。
本津幡駅から乗り込む鉄路は、子供の僕を日常から連れ出してくれる入口だった。
当時は上下線を渡す陸橋はなく、一旦線路に降りてホームを移動した。
また、当時は電化以前。
ローカル線はディーゼルの匂いと共に走り抜けていた。
更に、当時の切符は硬券。
窓口で行き先を告げ、料金と引き換えに手渡された厚紙に、
改札バサミで切り込みを入れてもらった。



そんなやり取りをした一角も固く閉じたまま。
これも時代の流れ。
致し方ないのだが、記憶に残る光景が消え寂しさを覚える。
忘れてしまわないためにも、これからも時折、本津幡駅を訪れ、
眺めることにしよう。
コメント (2)
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遠くの汽笛を聞きながら。~津幡町民大学。

2020年10月17日 07時49分41秒 | 鉄道
わが津幡町行政の「生涯学習課」では、
年間10数回に亘り「町民大学講座」を開催している。

<町民の学びの機会充実と生涯学を通じた
 町民の交流を図ることを目的としています。
 単位を設定した様々な学級・講座を開催し、
 3カ年度内で100単位を取得された方には終了証を交付しています。
 参加費は無料となっておりますので、お気軽にご参加ください。>
(※< >内、町HPの同課ページから引用/抜粋)

先日、うまく都合がつき
「ふるさとつばた講座② 交通の要衝 津幡~北陸本線・七尾線の歴史~」に
参加できた。

会場は「津幡町文化会館シグナス」。
802名キャパの大ホールが充てられたのは、新型コロナ感染対策だ。

入場時に検温、アルコール消毒を施し、
座席配置も社会的距離を保つよう設定されていた。
今時の常識である。

講座は「鉄道唱歌~北陸篇(LINK有)」の披露に始まる。
沿線の駅名や風物を織り込んだ七五調の歌詞を軽やかなメロディにのせたシリーズ。
明治33年(1900年)5月に東海道篇、山陽・九州篇、奥州・磐城篇と続き、
北陸篇は同年10月に発表。
かなりのスピード感を持ったリリースだが、
それよりも、一作目が日本に初の鉄道が敷設されてから28年後だった事に驚く。
明治政府がいかに急ピッチで建設を進めたかが窺えた。
その背後に日清・日露戦争の影が見え隠れ。
国内に於ける物資、人員輸送を整える事は勝利への必須条件だったと察する。

以降は「津幡町史」「河北郡史」「竹橋(たけのはし)の歩み」などの文献や、
明治~大正期に発行された地図などを引用しつつ、
開通間もない町内の駅や蒸気機関車の写真を拝見しながら、
石川県と津幡町の鉄道黎明期を解説してもらう。

残念ながら、僕は、いわゆる「鉄ちゃん」ではない。
もっと鉄道に造詣があれば、より楽しめただろうに---と感じるも、
過ぎ去った昔の町を想像しながら興味深く耳を傾けた。
取り分け印象に残ったのは「町の鉄道前史」である。

<明治初年まで交通機関は馬や天秤棒・カゴがあるにすぎなかった。
 道路が改修されて交通機関は大へん進歩した。
 人力車は明治11年ころから走ったし、大八車が荷物運搬に使われるようになった。
 さらに明治23年ごろからは金沢森下町(※現 森本)から津幡・竹橋を
 乗合馬車(10人乗)が走った。金沢・津幡間は1日4回、竹橋までは2回走った。
 これらは鉄道開通によって打撃を受けた。
 それまで、交通の中心は、御旅弥橋(※おたやばし/現おやど橋)付近で、
 茶屋は人力車のたまり場(丁場)であり、宿屋もあって賑わった。>

(※< >内配布資料より抜粋、原典「津幡町史」、赤文字は加筆箇所)

画像左「車」の配置図。 
同右、津幡川周辺の「交通施設」図。
眺めながら、往時の様子を頭の中で立体映像化してみる。

今よりも曲がりくねった水の流れに架かるのは、木造の太鼓橋。
船着き場には、舫(もやい)を結んだ手漕ぎの舟と、積み荷を運ぶ人足。
〇や■の単純な図形で表された地点、人力車や荷車の傍で煙管を吸う車夫達。
宿の前では客引きや、いざこざなどが繰り広げられただろう。

---「町民大学」は、そんな楽しくて仕方ない妄想の時間を与えてくれた。

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ゆれる半島。

2020年03月14日 10時22分54秒 | 鉄道
南北に長い石川県には、大きく分けて2つの地域がある。
金沢を中核とする加賀地方と、日本海に突き出た半島を要する能登地方だ。
ちょうど両者の間に位置するわが津幡町は、
越中(富山)とも境を接し、交通の中継地として機能してきた。
かつての交通インフラは、街道や宿場、駅(うまや)。
現代なら、幹線道や鉄道に駅(えき)がそれにあたる。

僕の家の近くには「本津幡駅」があり、散歩の折には線路脇を歩く事が多い。
ちょうど列車の通過時間に一致すると、思わずシャッターを切ってしまう。

特急「能登かがり火号」。
金沢駅~和倉温泉駅間を1日5~7往復している。
いわゆる「681系車両」だ。
数字は、車両のバージョンを表す型番で管理番号。
600番台は、交流・直流どちらでも動く電気駆動車と聞いた。
電化以前、金沢~奥能登を結んだディーゼル急行、
「能登路号」と比べ洗練された印象である。

路線から懐かしい「気動車」が消えて久しかったが、
「かがり火号」導入と同じ2015年、装いも新たにカムバック。

観光列車「花嫁のれん号」である。
撮影画像では車両が小さく分かりにくいが、外観はかなり派手め。
輪島塗り・加賀友禅・金沢金箔など、伝統工芸連合軍をデザイン。
和風豪華内装の車内にはイベントスペースや物販スペース。
ゆったりした配置の座席で、スイーツとか、郷土料理とか、地酒が味わえるそうな。
僕の旅には縁のない雰囲気だ。

とにかく北陸新幹線開業に歩調を合わせた施策はスマッシュヒット。
観光客たちが列車に揺られながら、能登へ向かった。
・・・ごく最近までは。

水を差したのは、やはり「新型コロナウイルス」。
観光業は大打撃だろう。
そして、きのう未明、大地の「震え」が追い打ちをかけた。
13日午前2時18分ごろ、能登地方を震源とする強い地震があり、
輪島市で震度5強、穴水町で震度5弱を記録。
ここ津幡町は震度3。
幸い人的被害はなさそうだが、結構揺れた。
2007年3月の「能登半島地震」の余震と思われる。
まったく困ったものである。
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歴史考察、本津幡駅辺り。

2019年03月09日 15時01分28秒 | 鉄道
僕が暮らす石川県・津幡町には、5つの駅がある。

津幡駅。
倶利伽羅駅(無人)。
中津幡駅(無人)。
本津幡駅。
能瀬駅(無人)。

散歩の寄り道ポイントであり、拙ブログにも度々登場するように、
個人的な最寄り駅は「本津幡駅」だ。

明治31年(1898年)春、「七尾鉄道」開業当初の起点「津幡仮停車場」として開業。
路線が現在の津幡駅まで延伸し北陸本線と接続した後、
明治40年(1907年)秋に国有化し、民営化を経て今に至る。

120余年の歴史の中で、大きな転換は、昭和50年(1975年)の春。
「貨物の取扱廃止」ではないだろうか。
加賀の突端・津幡と、能登の拠点・七尾を結ぶ「七尾線」は、そもそも「貨客」が主眼。
大陸との「日本海貿易」を担う七尾港への物流パイプとして建設が始まったと聞く。
故に、貨物輸送の終わりは「一時代の終わり」を象徴する出来事だ。

思い起こせば、まだ、僕が子供だった頃。
夜更けに、本津幡駅を通過する貨物列車の音を聞いた記憶がある。
何分も続く規則正しいレール音から、車列の長さが容易に推し量れた。
現在、そんな往時の面影をかろうじて留めるのは、
「液化ガス充てん工場」かもしれない。

赤い列車の奥、「〇通」のタンクがあるここは「日通エネルギー北陸株式会社」。
日通プロパン販売会社として、昭和43年(1968年)に設立された。
当初の社名は「株式会社マルツ」。
(津幡の「津」を円で囲んだ「〇ツ」が由来か?)
まったくの想像なのだが・・・。
かつては「引き込み線」があったのではないかと思う。
周辺の道幅は、大型タンクローリーが出入りするには不向きな狭さ。
やはり、鉄道貨物運搬を前提にした立地ではないだろうか?
どなたか、このあたりの事情に詳しい方がいらっしゃれば、
是非教えていただければ幸いです。

さて、散策を続けるうち「大きな装置」が目に留まった。

やけに大きな滑車で、見るからに重そうなコンクリート塊を吊るすコレは、
「滑車式バランサー」という。
電車の屋根上にある集電装置(パンタグラフ)と接する電車線は、
温度によって張力が変化する。
集電を安定させるためには、電車線の張力が一定であることが望ましい。
また、電車線とパンタグラフが同じ状着でないと、電車線の摩耗が早まる。
そこで、電車線の張力を一定に保つバランサー(張力自動調整装置)の出番。
オモリと滑車の原理を利用する滑車式、バネ式、油圧式などがある。

平成3年(1991年)秋、七尾線が電化する以前は、なかった。
これも、本津幡駅120余年の歴史において、大きな転換を象徴するモノだろう。
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