つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

鯉帰り、過日甦る。

2019年07月08日 23時25分43秒 | さらば、母校よ。

拙ブログを立ち上げたのは、2010年。
犬を飼い始め、散歩を嗜むようになって、町中の変遷に気付いたのがキッカケ。
過去へ押し流されてしまう今を記録しようと考え、
徒然なるままに書き記し出してから、9年余りが経つ。

その間、幾つも巡り遭った、慣れ親しんだ景色の消失の中で、
取り分け大きな出来事が「津幡小学校校舎の建て替え」だ。
旧校舎にまつわる思い出は、この記事と同カテゴリーの過去投稿に譲るが、
枚挙に暇のない中の1つが「鯉」である。

当時、校舎前庭の小さな瓢型(ひさごがた)の池には、数匹の鯉がいた。
泳ぐ芸術の如き、黄金色。
濁りの中でも目立つ、白い魚体。
陽を浴びた鱗の照り返しが美しい、茶色。
小学生の僕は、よくユラユラと水の中を泳ぐ様子を観察したものだ。
地上と異なる環境に生きる彼等は、いくら眺めても見飽きなかった。

やがて、卒業から40年後。
取り壊し工事がスタートし、池の水は抜かれ、鯉も姿を消した。
3年前、大西山に「津幡ふるさと歴史館」がオープンし、池に水が戻り、
先日、ついに鯉が帰ってきた。

赤い丸で囲った辺りにいるのが分かるだろうか?
アップにしてみよう。

白地の背中に緋斑・・・「紅白」だ。
錦鯉のうち、最も人気のある品種だと聞く。
簡素故に、趣があり、観賞の奥行きが深い。
マニア曰く「鯉は、紅白に始まって、紅白に終わる」んだとか。

ともかく、僕は池の畔に立ち尽くし、しばし鯉に見入った。
もう決して戻らないあの頃と同じように。
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平成29年度に寄せて。

2017年04月01日 13時33分33秒 | さらば、母校よ。
本日は、平成29年(2017年)4月1日。
季節は巡り、今年も早や4分の1が過ぎた。
年齢を経るに連れて「光陰矢の如し」を実感する。

年度替わりには、感慨が付き物。
オッサンの僕ですら多少はあるのだから「新入生」は一入(ひとしお)だろう。
あと数日もすれば、体格に合わない大きなランドセルを背負った子らが街中を歩く。
向かうのは「津幡町立 津幡小学校」だ。

同校発表による「平成27年度 学校経営概要」によれば、校下地区別の児童数は、
清水 112、 庄 145、 津幡 4、 横浜 145、 加賀爪 53、 その他 8。
合 計 467人。
僕が小学生だった頃と比べ、町の人口は増えているのに、
児童数が4~50%程度に減少。
少子化社会の現実である。
時代は、変わったのだ。
また、校舎も変わった。

…という事で、新年度がスタートを切った節目の今回は、
久しぶりに、無き母校の様子を投稿してみようと思う。

左上:威風堂々、大西山に聳える津幡小学校遠景。
   かつて同所に構えた往時の山城を偲ばせる。
右上:正面玄関、前庭の松越しに望む校舎近影。
   小学校の6年間、毎日見たであろう姿は脳裏に焼き付いている。
左下:体育館内部の様子。
   ずいぶん低い位置のバスケゴールも昔は高く思えた。
右下:体育館と校舎をつなぐ渡り廊下。
   夏の日差しを避けて涼んだのも今は昔。

左上:メイン階段。
   このルノワールの複製画の事は、何故だかよく覚えている。
右上:並んだ下駄箱。
   地面や校舎の床から簀の子の上に飛び乗ると、急に音が変わるのが好きだった。
左下:教室内部。
   ここで泣いたり笑ったり、ケンカしたり、掃除したり。
右下:おそらく最上階の階段踊り場。
   手すりの間から、真下を覗いてはキンタマが縮み上がった。

いずれも、取り壊し中の旧校舎の様子。
失われゆく様子を記録しようとシャッターを切りながら、
寂しくて仕方がなかった。
あれから、6年が経った。

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我が学び舎、かつてここに立てり。

2016年07月17日 10時12分28秒 | さらば、母校よ。
きのうは、散歩途上に立ち寄った大西山で、
意識が過去へと遡った一幕について投稿した。
本日は、その続編。
大西山の過去の風景を振り返ってみたい。

まずは、今の様子を掲載する。

最近設置された飲料自販機の奥は、小学校のグラウンド。
校庭の周囲をカバーする金網の向うの稜線は、県森林公園へ連なる丘。
低く垂れこめた鱗雲に覆われた空が、梅雨の半ばを窺わせる。
特に視界を遮るもののない、開けた空間。
それが、現在の大西山だ。
俯瞰では、こうなる。

ほんの数年前、過去はこんな様子だった。

真ん中あたりの広いスペースは、グラウンド。
その周囲にはプールと、渡り廊下で繋がった体育館と校舎があった。
画面上の「津幡小」のマークは、現在の校舎の位置である。

主に、読み・書き・算盤を学ぶ寺子屋スタイルから、
近代的な学校教育へ移行したのは、明治5年(1872年)。
津幡町は、制度発足の翌年「弘願寺」を借りて、小学校を開設した。
明治20年(1887年)、大西山に最初の校舎を落成させる。
大正2年(1913年)に完成した木造二階建て校舎を経て、
昭和40年(1965年)、鉄筋4階建ての校舎が建った。
僕が通った学び舎である。
往時の風景の幾つかを掲載しておこう。

やがて、歳月を重ね老朽化した学び舎は、
平成23年(2011年)春、大西山を下りた。

移転・新築した現校舎は、真新しく美しいが、
僕の記憶にはない「知らない建物」なのだ。
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さらば母校よ。~旧・津幡小学校校舎その22~

2012年07月26日 21時10分59秒 | さらば、母校よ。
“シリーズ母校への惜別”。
「今日の一枚」は、旧校舎裏のグラウンドに設置された「雲梯」。

撮影日時は、2010年8月13日・午前9時1分。
シャッターを切ってからおよそ2年が経った今、既に失われた風景だ。
また、僕が小学生だった頃の景観とは異なるだろう。
当時のデザインは、波打っていなかった。
多少高低差を付けて傾いていたかもしれないが、鉄のパイプは直線だったはず。
水平方向に設置された梯子にぶら下がりながら、
勢いをつけ、猿のように手を伸ばして移動したものだ。
…と、そんな40年前の記憶を手繰れば、僕の脳裏にはあるメロディが流れてくる。

『何かで燃やすのが 若いいのち
 何かに賭けるのが 一度の青春さ
 コートの中には 涙もあるけど
 それは胸にしみこむ 熱い涙
 …(中略)…
 全てがミュンヘンへ 続く道
 全てが栄光へ つながる道なのさ
 コートを転がる 若者6人
 誰の胸の中にも 明日の希望』
(※唄:ハニーナイツ 作詞:阿久悠 作曲:渡辺岳夫)

アニメドキュメント「ミュンヘンへの道」の主題歌である。
当時、個人的にはバレーボール競技自体に深い思い入れはなかったのだが、
(天井サーブの猫田選手は好きだったが…)
日本国内における人気は高かった。
ブラウン管では、日本の五輪代表チームの動向が取り上げられ、
ラジオのスピーカーを通じて、この歌を耳にしたのである。

そして、津幡小学校の校庭でも
ラッパスピーカーから流れる「ミュンヘンへの道」が鳴り響いていた。
あれは昼休みだったか…?それとも放課後だったか…?
インストだったか…?ボーカル入りだったか…?
少々不透明な部分はあるが、懐かしい光景とリンクする。

更にもう1つ。
ミュンヘン大会については、パレスチナゲリラ「黒い九月」が思い浮かぶ。

 

ゲリラは、選手村に滞在中のイスラエルのコーチと選手の2人を射殺。
9人を人質にすると、イスラエルに投獄されている仲間の釈放を要求。
流血の惨事となり、オリンピックは一時中断。
世界中が事件の生中継に目を見張り、行方に注視した。
…事の顛末を知ったのは、もちろん何年も後。
ただ、立てこもる覆面姿の犯人像は、幼かった僕の脳裏にもクッキリと刻まれている。

これを境に、大会の警備費用はうなぎ上り。
ロンドンでのそれは、15億ポンド(およそ1,800億円)。
ミュンヘンの800倍あまりに相当する額だ。
確かに、連日、警備に動員された英国軍の様子や、
スタジアム周辺に配備された地対空ミサイルなどが報道されている…。

度々投稿してきたとおり、
僕が、初めて鮮烈な印象を受けたのは1976年のモントリオール大会。
しかし、初めて記憶に残ったのは、
津幡町・旧校舎の光景とセットになったミュンヘン大会。
果たしてロンドン大会は、どんな記憶を残してくれるのだろう?

何はともあれ「悲劇」だけは願い下げである。

<※7月27日:追記>
サッカー日本代表、アベック勝利!おめでとう!!
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さらば母校よ。~旧・津幡小学校校舎その21~

2012年04月11日 23時54分20秒 | さらば、母校よ。
“シリーズ母校への惜別”。
「今日の一枚」は、側道から見上げた大西山。
中央奥、木造家屋と木々の間に旧校舎の一部が写っている。
写真の手前から延びる細い道は、
正面に回らずに本道の勾配へ合流できるルート。
些細な距離を縮める近道だった。
毎朝、僕は何だか“ちょっと得した気分”になって歩いたものである。
そして、この行為を秘かに“ワープ(Warp)”と名付けていた。

Warp…辞書を引くと、
『ひずみ。ゆがみ。ねじれ。』
『SFで、宇宙空間のひずみを利用して瞬時に目的地に達すること。』とある。
個人的なネーミングが意味するのは後者の方。
その由来となったのは「宇宙戦艦ヤマト」。
これまで度々ブログでも触れてきたが、僕はヤマトファンだったのである。

西暦2199年、人類は絶滅の危機に瀕していた。
侵略を企てる「ガミラス」の遊星爆弾攻撃によって、
地上の水は干上がり、緑も消え、放射能に覆われた赤い星になった地球。
地下深くに隠れて生き延びていた人々の町にも、汚染が忍び寄ってくる。
残された時間はあと1年。
そんな時、遥か14万8千光年の彼方に位置する星「イスカンダル」から、
救いの手が差し伸べられた。
放射能除去装置「コスモクリーナーD」を渡す用意がある。
しかし、吉報の送り主にそれを届ける力はなく、
自ら受け取りに来て欲しいというのだ。
一年以内に29万6千光年を往復するためには、
音も光も超えるスピードが必要。
不可能を可能にしたのは、メッセージと一緒に送られて来た
「波動エンジン」の設計図。
その英知を活かし、生き残りを賭けた“ノアの箱舟”こそ
「宇宙戦艦ヤマト」である。
太平洋戦争で九州・坊ノ岬沖に沈んだ戦艦大和の残骸を隠れ蓑にし、
完成まで漕ぎ着けたヤマトは、未知の宇宙へと旅立ってゆく…。

少々長くなったが、以上が「宇宙戦艦ヤマト」出航までのあらまし。
さて、ようやく本題の「ワープ」である(笑)。
ヤマトの艦内で、ワープの概念を説明するシーンがあった。

時間の流れをリング状にして示すなら、
直径の左端から右端へ一気に移動すれば、半円分が短縮できる。
または時間の流れを連続した波状と仮定するなら、
波の頂点から頂点へ一気に移動すれば、谷間の分が短縮できる。
次元を通り抜けて出発点から目標とする終着点へ一気に飛び越えれば、
時間の概念はなくなる…。

なるほど!
技術的な仕組みはともかく、考え方は分かる!…気がした。
だが、説明を担当した人物は、こう締めくくったのである。
『もし、この(ワープに入る)タイミングが少しでもずれたら、
 おそらく三次元と四次元の間に挟まって
 ヤマトだけでなくこの宇宙全体が吹っ飛ぶかもしれません。』
…あな恐ろしき台詞を口にしたのは「真田志郎」。
宇宙戦艦ヤマトの工場長兼技師長だ。

そして、先日・4月9日、
「真田」を演じた声優「青野 武」さんが鬼籍に入られた。
近年では「ちびまる子ちゃん」で「まる子」の祖父「友蔵」役で知られる。
映画「タクシードライバー」で「ロバート・デニーロ」の吹き替えも忘れ難い。
また一つ、昭和の灯が消えた。
平成に入って消えた母校を見つめた時と同じ、
哀しみで胸がいっぱいである。
ご冥福をお祈りいたします。
合掌。
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