つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

今は昔、失われたよそおい有りけり。

2024年06月30日 07時30分00秒 | 手すさびにて候。
                                
拙ブログをご覧の貴方は「化粧」をした事がおありだろうか。

紅 (べに) や白粉(おしろい)などを使って、顔を美しく見えるようにすること

辞書に掲載された定義に従うなら、僕は「ない」。
将来、機会があるとすれば「死化粧」。
昭和生まれからすると“化粧は女性がするもの”という感覚なのだ。

しかし歴史を振り返れば、その意識が一般的になったのは明治の頃である。
また、近年メンズ美容・メイクの需要が高まっているという。
ジェンダーレス意識の推進により性の垣根が取り払われつつある。
SNSの発達、コロナ禍を経たオンラインの発達により「映え意識」が根付く。
他、様々な要因によって人心に変化が起こっているようだ。

ともあれ、ヒトは長きに亘り化粧をしてきた種族である。
今回は、昔日の粧いについて拙作・拙文を投稿してみたい。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十八弾「古(いにしえ)メイク」。



今からおよそ20万年前、アフリカ大陸に現生人類が出現。
5万年前くらいにアフリカからユーラシア大陸へ進出。
3万8千年前頃に南から海を越え、更に1万年後に北から陸路を辿って日本に到達。
「旧石器時代」のことだ。
寒冷期を含む厳しい気候だった当時、
肌を守るため獣脂を塗るなどのスキンケアはしていたと推測する。

縄目模様の土器に象徴される「縄文時代」、すでに粧いの習慣があった。
線刻、色付きの土偶や土面が出土していることからも明らかである。
特に「赤」が多用された。
主な原料は、大地から豊富に採れる酸化鉄「ベンガラ(弁柄/紅殻)」だろうか。
赤は、自然界で目立つカラー。
太陽・炎・血など生命力に繋がるそれは、縄文人たちの外見と精神を彩ったに違いない。

ちなみに古今東西、ヒトは赤の粧いに特別な意味合いを与えてきた。
例えば「赤いリップメイク」である。
その起こりは紀元前3500年の古代メソポタミア。
時の女王は権力の象徴として、唇を赤く塗っていた。
古代エジプトの貴族たちは赤土に樹脂を混ぜ大胆な赤い唇を演出し、
女王「クレオパトラ」は特にディープレッドを好んだという。
今でも唇用の化粧品を指し「口紅」とか「ルージュ」と呼ぶのは、
遠い先祖が抱いていた、赤への強い思い入れの名残かもしれない。

さて、話題は先史から古代へ。
時が流れ、日本の化粧に変化が訪れる。
赤に白と黒が仲間入りして“三色時代”の幕が開いた。



飛鳥時代から奈良時代は、化粧にとって大きな転換期。

朝鮮半島~大陸から遣隋使・遣唐使がもたらす先進国の風---
政治制度、文字、仏教などと一緒に、化粧法や化粧品も輸入される。
特に鉛白粉(なまりおしろい)は革新的だった。
鉛を酢で蒸して作る白い粉は、貝殻や米粉などのそれに比べ格段に延びが良く、
宮廷の女性たちが積極的に取り入れた。
鉛白粉を塗り、唇に紅を差す唐風メイクがスタンダード化してゆく。
それは「おしゃれ」の始まり。
呪い(まじない)や権威の意味合いから離れ、美を表現する手段になったと言える。

やがて平安時代の遣唐使廃止後、国風文化の熟成が進む。
漢字を元にした仮名文字が生まれ『枕草子』や『源氏物語』に代表される
和文で記された随筆や物語が著された。
寝殿造、大和絵など、独自のスタイルは粧いの分野でも同様。
丈なす黒髪(たけなす/身長に迫るロングヘア)。
日焼けがなく、皮下脂肪が透けて見えるような透明感を持つ白肌は美人の条件に。
そこに「眉化粧」と「お歯黒」が加わる。

眉化粧は、常に穏やかで高貴な雰囲気を保つ為。
感情につられて上下してしまう生来の眉を抜いて白粉を塗り、
額の高い位置に、眉墨で新しい眉を描いた。

お歯黒の起源はハッキリしていないが、かなり古くから行われていたらしい。
3世紀ごろの日本・弥生時代の様子を記した『魏志倭人伝』。
8世紀に編纂された歴史書『古事記』に記述があるという。
使う材料は2つ。
米のとぎ汁や酢などに、古釘や鉄くずを入れた水溶液「鉄漿水(かねみず)」。
ウルシ科の樹木・白膠木(ぬるで)の虫こぶを乾燥させた「五倍子粉(ふしこ)」。
ホワイトニング全盛の現代からすれば黒く染めた歯は違和感を禁じ得ないが、
時代が違えば、美への眼差しも異なる。
尚、五倍子粉に含まれるタンニンは虫歯や歯槽膿漏の予防に役立ったとか。
お歯黒はオーラルケアの側面もあるのだ。

白粉の白。
口紅や頬紅の赤。
お歯黒や眉化粧の黒。
この三色は以後、千年以上に亘り化粧の基本色になるのである。

<付 録>

最近ある能面師の方にお目にかかる縁を持ち、少々驚く発見があった。
彼女曰く『女面は、ほぼ二重瞼(まぶた)』。
確かに小面(こおもて)も、逆髪(さかがみ)も、増女(ぞうおんな)も。
つまり妙齢の女性も、熟女も、老女も。
皆一様に二重なのだ。
古風な日本的美人は、目が切れ長で一重だと思い込んでいたが、誤りだった。
能面が、能の完成した頃の理想を反映しているとしたら---。
「室町美人」の条件は二重瞼となる。

“細目、かぎ鼻、おちょぼ口、ぽっちゃり体形”

そんな古典美女のステレオタイプな印象は、
絵巻物や浮世絵の様式が植え付けた先入観なのかもしれない。
                         
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津幡短信vol.122. ~ 令和六年 入梅。

2024年06月22日 23時45分45秒 | 津幡短信。
                     
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、以下の1本。
                               
【雨に憂いて。】

本日(2024/06/22)気象庁は、北陸(新潟、富山、石川、福井各県)と、
中国地方(鳥取、島根、岡山、広島各県)が梅雨入りしたとみられると発表した。
梅雨前線を押し上げる太平洋高気圧の北への張り出しが弱かった影響で、
中国は平年より16日、昨年より24日遅く、北陸は平年より11日、昨年より13日遅い記録となった。

ようやくレイニーシーズンを迎え季節は通常運転。
ホッとする反面、嫌な記憶も頭を過る。
およそ1年前の令和5年7月12日、石川県内で初めての線状降水帯が発生。
津幡町では1時間80ミリの猛烈な雨が降り、4つの河川で氾濫が認められた。
人的被害がなかったのは不幸中の幸いだが、物的損害は小さくない。
住宅全壊7棟、大規模半壊1棟を含む370棟に影響。
道路150か所、河川40か所を含む町管理設備に被害が及んだ。

その記憶も生々しい現在。
--- 町内各所には「令和6年 能登半島地震」のダメージが残っている。





今年元日の揺れから早や5カ月半。
時が経つにつれ地盤の歪みが現れたところもある。
路面の窪みやひび割れから雨水が地下へ滲みこめば、更なる沈下を招きかねない。



土砂崩れの解消していない地点は、気が気ではないだろう。
津幡町・緑が丘地区の崩落箇所、地震直後に応急処置で被せたブルーシートが色あせてきた。
町は今秋にも本格復旧工事に着手の予定との事。
二次被害なく雨期を乗り越え、再建を願っている。





先日、町内の社で「仮鳥居」を見かけた。
初めて目にする光景に驚き、傍で草取りをしている氏子の方に理由を尋ねたところ、
『地震により「貫(ぬき)」にひび割れが入り、倒壊の危険があるとして撤去された』とか。
上掲画像「白鳥神社」と「野田八幡宮」2つの神社の鳥居は、いずれも明神系の石製だった。
それが、竹と木の簡素なものに。
こちらの再建への道も前途多難である。
                         
<津幡短信 vol.122>
                                         
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入梅前の津幡町。

2024年06月17日 09時33分33秒 | 自然
                           
現在(2024/06/17)列島の梅雨入りは、沖縄・奄美・九州南部・四国止まり。
太平洋高気圧の北への張り出しが弱く、梅雨前線がなかなか本州付近まで北上しない。
その為、入梅のタイミングがかなり遅れているとの事。
よく知られているとおり梅雨の定義は「晩春から夏にかけて雨や曇りの日が多く現れる期間」。
一昔前は、始まりと終わりに明確な「宣言」を出していたが、
実情は、長期間続く気象現象のため区切りの特定は難しく「~したとみられる」と表されるようになって久しい。

わが北陸は、平年のスケジュールから1週間あまり経つものの、
まだ梅雨入りしたとみられて「いない」のだ。
気温は高いが、湿度は低くカラッとした体感。
辺りは夏の装いである。



本津幡駅近くに湧く泉「しょうず(清水)」が流れ込む「蓮田」。
踏切越しに走るのは「JR七尾線」の下り列車。
金沢~津幡町~能登・羽咋(はくい)~七尾を結ぶローカル線だ。
その手前、数カ月前まで泥の水辺だったところに蓮の葉が伸び、次第に緑が拡がっている。
やがて、雨雲からしとしとと雨が落ちてくる頃、大ぶりの花が咲くだろう。



「しょうず」から少し奥に行くと小さな棚田がある。
画像には写っていないが、向かって右側の砂利道には「雉(キジ)」が歩き回っていた。
また、草の中から、山の木立から、姿は見えずとも野鳥の囀り(さえずり)が交錯。
彼らが鳴く理由は主に2つ考えられるだろう。
1つは「異性への求愛」。
囀りを担うのは大半がオス。
オスからメスへ鳴き声でアピールしているのだ。
美声は求愛の成功率を高め、子孫を残す確率が高まる。
もう1つは「縄張りの主張」。
繁殖行動をするための拠点がここにあるんだとライバルたちに知らせ、無用な衝突を避ける。
囀りは、野鳥たちが生きる為の戦術と言えるかもしれない。



棚田の畔には、野花が風に揺れていた。
筒状花の黄色、舌状花の白、コントラストが鮮やか。
精一杯マーガレットに似た小さな花を広げ、触媒となる虫を誘う。
ほんの短時間、歩いて出会えた身近な自然は逞しく実に美しいのだ。
                              
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津幡短信vol.121. ~ 令和六年 芒種。

2024年06月09日 08時08分08秒 | 津幡短信。
                     
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、以下の1本。
                               
【アスリートたちのトピック。】
                   
わが「津幡町」は、南北に長い石川県の中央に位置している。
金沢市・かほく市・内灘町・宝達志水町・富山県高岡市・小矢部市の4市2町と隣接。
面積は110.59平方キロメートル。
人口は3万7千あまり(2024/04現在)。
住みやすく利便性も高いが、決して大規模とは言い難い。
そんな北陸の片田舎からトップクラスのアスリートが出現したのは「特筆」に値する。







まずは、大相撲五月場所で幕内初優勝を飾った、小結「大の里」関だ。
町内には、彼の偉業を祝うムードが満ちている。
散歩中に撮影した上掲スナップ--- 町役場壁面の大懸垂幕、
書店のウインドー、商店街のワンコディスプレーの手作り装飾は、ほんの一端である。

おととい(2024/06/07)24歳の誕生日を迎えた若武者は、
“新生”「二所ノ関部屋」の部屋頭になったと聞く。
部屋付きだった中村親方(元関脇・嘉風)が独立し、所属力士が8人減。
新たな環境、新たな立場で稽古に励んでいるとか。
次の名古屋場所で成績次第では大関も夢ではない。
焦る必要はないのだが、勢いに乗ることも出世への近道だ。
怪我無く、優勝争いを演じて昇進を果たして欲しい。



続いては、先の東京五輪で姉妹揃って金メダリストとなった「川井姉妹」である。
姉・梨紗子さんはリオデジャネイロ五輪に続く2大会連続。
妹・友香子さんは東京大会が初の五輪ゴールドメダルとなった。
結婚を機に現在は夫の姓に変っているお二方は、今も現役。
栄冠を勝ち取るまでは、肉親ならではの葛藤もあったと聞くが、
W優勝という目標を果たし終え肩の荷も下りたと察する。
新たな気持ちでこれからを歩んで欲しいものだ。



先頃、津幡町が偉業を顕彰する目的で、
中高年齢労働者福祉センター「サンライフ津幡」にレスリング場を整備。
そこで町内初のレスリングクラブ「サンキッズレスリング」が活動をスタート。
彼女たちの母親が代表を、両選手が特別コーチを務める。
「川井姉妹」に続くレスラー育成の最初の一歩だ。
                         
<津幡短信 vol.121>
                     
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惑い、未だ拭えず。

2024年06月02日 13時13分13秒 | 日記
                      
「令和6年能登半島地震」の発災から5ヶ月が経過した。
時が流れ、日に日に報道の露出は減少傾向。
スポットを当てる対象は徐々に「復活」の話題へとシフト。
大きなダメージから立ち上がる地域、企業、人が増えていくのは、とても喜ばしい。
心から頑張って欲しいと思う。
微力ながら助勢は惜しまない。
しかし---。
復興ではなく復旧さえ道半ばで惑うところが少なくないのも、また現実である。

きのう(2024/6/01)久しぶりに奥能登・輪島へ出向く機会があった。
訳あってほんの短時間の滞在に過ぎなかったが、
そこで目にした様子を記録しておきたい。





能登にアクセスする大動脈・自動車専用道路「のと里山海道」は、
地震で道路の一部が崩落するなど大きな被害を受け、一部区間は北行きだけの一方通行。
所々で路面が波打ち、蛇行箇所も多くスピードは出せない。
関係各位の尽力は続いているものの、
大きな半島故、物資・機材が充分に運べていないであろう事が窺える。





傾いた家屋が新たに倒壊するケースは珍しくないと聞く。
応急危険度判定で立ち入りを禁止された「赤判定」の建物は整理撤去も難しい。
仮に公費解体が決まっても、先に述べたように人手・資材が不足しているため、
順番が回ってくるまで時間を要する。
その間、思い出の品や必要なものを残そうと、
自主的に家の片付けを進め続ける方々もいらっしゃるとか。
床面が歪んでいれば作業中に気分が悪くなったり、
倒壊の怖さなどから時間が限られ、思うように進まないという。
無理もないことだ。

これまで石川県では「令和6年能登半島地震」において、
直接死が230人、災害関連死が30人、行方不明3人と発表。
亡くなった状況が分かっている方の大半が「家屋倒壊」。
死者の多かった輪島市と珠洲市では建物の3割が全壊した。





土砂崩れが起きた地点では土や樹木の根がむき出しになり、
家や車が呑み込まれたまま。
脅威の爪痕を生々しく留めている。



仮設住宅は確かに増えた。
残念ながら供給量は需要に追い付いていないという。
ピーク時に比べれば数は減ったが、未だ3千を超える方が避難所で生活しているという。
一方、長期に亘る避難所生活に見切りをつけ、
「安全ではない」と分かりながら、自宅に戻る方も少なくないという。

先月・5月末を区切りに、
全国各地の自治体から派遣されていた応援職員の多くが被災地を離れた。
広域避難所が集約されつつある。
被災地を取り巻く状況は「変化」し始めた。
また季節も巡る。
初夏を迎え田植えが終わった田んぼを何枚も見受けた。
地割れがあるだろうに。
畔や水路が崩れただろうに。
大変な暮らしが続いているだろうに。
それでも早苗が風に揺れているのだ。
和やかな風景の中に、能登の人たちの粘り強さや気概が漂っているように感じた。



帰り道、能登の「内浦」を通る。
地図上で言えば半島の右側にあたり、左側の「外浦」に比べ波静か。
鏡のように穏やかな海面を車窓から見遣る。
実に心地いい。

しかし、地震発生直後は様相一変したと聞く。
局地的な違いはあったが、
住居が海水につかり、船が陸に押し上げられ、津波が牙をむいた地点もあったとか。
ウインドーを開けた時、僕の背筋が震えたのは、
車内で渦を巻く潮風が運んできた冷たさのせいだけじゃないのは、明らかだ。
                       
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