つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

飛光 飛光 勸爾一杯酒

2023年09月30日 21時52分52秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      
今年(2023年)わが母校「津幡小学校」が創立150年を迎え、
卒業生有志による応援団が発足。
微力ながら、末席に座る僕「りくすけ」も、それなりに情熱を注いできたのは、
以前にご紹介した通りだ。
(※今投稿カテゴリー「大西山の丘辺に立てば。」に分類)

もしかすると、その「ご褒美」と言えるかもしれない。
先日(2023/09/26)に開催された「津幡小学校運動会」に来賓としてお招きに与る。
後輩児童たちの躍動する姿を最前列で観覧でき、嬉しい限り。



グラウンドがある地点は、標高15メートル地点の大西山(おおにしやま)。
ここに鉄筋4階建ての校舎が落成したのは、昭和41年(1966年)。
通学校下の殆どから視界に入る位置に聳える堂々とした姿は、
まるで、かつてそこに建っていた「津幡城」を彷彿とさせる風格を漂わせていた。


(※昭和59年撮影/津幡小学校旧鉄筋校舎全景)

僕が通った学び舎はもう姿を消してしまったが、
僕も確かに同じ場所で催された運動会で、彼らと同じように汗を流した。
拍手を贈るうち、脳裏に霞がかかる。
気が付くと意識は半世紀前へ。
更に一足飛びに時を遡り、視界に佳日の光景が広がった。


(※昭和32年撮影/木造校舎時代の運動会)







--- さて、我が任務はいよいよ大詰めである。
学校の音楽室で録音した新旧校歌。
過去の校舎へ通学した方々へのインタビュー。
明治~大正~昭和~平成・令和、各時代の様子を紹介するナレーションなどを織り交ぜた、
ラジオ番組風「150周年記念 音声プログラム」完成まであと僅か。
ラストスパートなのだ。
                    
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実は好角家、増えてます。

2023年09月23日 20時44分44秒 | 日記
                     
僕たちが日常会話で使う言葉で相撲用語に由来する単語は少なくない。

勇み足(いさみあし)
痛み分け(いたみわけ)
肩透かし(かたすかし)
がっぷり四つ(がっぷりよっつ)
仕切り直し(しきりなおし)
序の口(じょのくち)
金星(きんぼし)

--- 他にもまだあるが「番狂わせ(ばんくるわせ)」もその1つ。
いわゆるジャイアントキリングの事。
おおよその実力差を推し量る番付下位が上位を破る下剋上を表す。

その番付、大相撲では6つのカテゴリーに分かれている。
上から順に幕内⇒十両⇒幕下⇒三段目⇒序二段⇒序ノ口。
2023年9月現在、わが津幡町民が熱い視線を送っているのは、
幕内よりも「十両」と言って差し障りないだろう。
何しろ津幡町初の関取が優勝争いを演じているのだ。



東十両十四枚目「大の里 泰輝(おおのさと だいき)」。
所 属 二所ノ関部屋
身 長 192.0cm
体 重 176.0kg
恵まれた体格を活かした突き・押し・右四つの寄りが持ち味。
相撲の強豪「日本体育大学」在学中、2年連続でアマチュア横綱に輝き、
卒業後、今年(2023)5月の夏場所で初土俵。
それから2場所で十両昇進を果たし、この秋場所で快進撃を続けている。
本日(2023/09/23)十四日目を終え12勝2敗で、優勝争い首位に並んだ。



津幡町文化会館「シグナス」ロビーには等身大のパネル、
大相撲中継モニター傍には、後援会勧誘チラシも設置。
応援の熱量が伝わってくる。

今場所、同じ星勘定のライバルは偶然同じ名前を持つ、
「一山本大生(いちやまもと だいき)」関。
幕内経験があり、西十両七枚目。
大の里より格上だ。
本割では負けているが、千秋楽で再戦・優勝決定戦になるかもしれない。

ちなみに明日(2023/09/24)の対戦相手は十両筆頭。
番狂わせの栄冠は願っている。
しかし、まだ「髷(まげ)」を結えるまで髪が伸びていないスピード出世だ。
無理せず、無事に取り組みを終え、結果が付いてくることを祈る。
                          
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令和五年の獅子が舞う。

2023年09月17日 16時20分20秒 | 日記
                     
今年も津幡町の旧市街で「秋季大祭」が催された。
清水(しみず)、庄(しょう)、加賀爪(かがつめ)、津幡(つばた)。
かつて宿場町を形成した4つの地区で大きな獅子が練り歩く。
しかし、今年は少々趣きの違うところもあった。
上記「清水区」では、事前に以下の案内が回覧。

秋祭り「獅子舞」について(お願い)

7月12日の線状降水帯による洪水にて、清水区において住宅のみならず
自動車など多数の浸水被害が発生した事、被害に会われた方に心からお見舞い申し上げます。
このような時、秋祭り行事の獅子舞をどうするか検討しました。
令和2年から3年間「新型コロナ感染防止対策」として中止してきましたが、
伝統の灯を消さないよう、昨年から獅子舞を復活・開始したところです。
その勢いをなんとか盛り上げたい青年団には気の毒なことになってしまいましたが、
街廻りを遠慮してもらい、被災者の皆さんにご負担をかけないよう、
下記のように時間と場所を定めて、獅子舞を楽しんでもらえるようにしました。
区民の皆さんには、誠に恐縮ですが、ぜひ深い御理解をいただき、
近くの場所で大きい「花」をたくさん打って、楽しんで頂きたく、切にお願いいたします。

(※太字 回覧文より抜粋引用/原文ママ)



例年ならすべての家々を廻り数百回は行う演舞も、今年は時間と場所を限定して5回だけ。
その1つに足を運んだ。
会場の「本津幡駅前」は、近隣の方々が詰めかけ盛況。
獅子舞の担い手も、ここぞの見せ場にあたり気合が入った“いい顔”をしていた。







獅子頭持ちは神、棒振りは人、囃子は自然。
石川県・加賀の獅子舞は、棒振り役が巨大な獅子に立ち向かう。
霊獣である獅子を殺す様子を悪霊に見せつけ退散させ、
獅子舞演者が地面を踏み込み大地を清め、豊作を願う。
「加賀の殺し獅子」は迫力があるのだ。







稽古の成果を披露する機会が少ないのは、
諸般の事情により致し方なし。
ご意見様々あるだろう。
こんな年もあるだろう。
今投稿の後(2023/09/17 18:30~)町中心部の四ツ角で催される
「獅子舞頭合わせ」で技と力を発揮して欲しい。
                                    
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近代の闇に蠢く。

2023年09月13日 10時10分10秒 | 手すさびにて候。
                       
今投稿の10日後(2023/09/22~24)、
福島県・会津若松市に於いて「会津まつり」が催行予定。
3日間に亘るお祭りのメインイベントは、総勢500名超の参加者による歴史絵巻---
「会津藩公行列」である。

会津若松のシンボル、鶴ヶ城での出陣式の後、
藩政期の殿様、お姫様、武者などに扮した行列が街中を練り歩き、
時折、殺陣などのパフォーマンスなども披露。
パレードには「新選組」や「白虎隊」が加わり沿道の耳目を集める。
そして、頭に白鉢巻を締め、刀や薙刀で武装した勇ましい女性たちも欠かせない要素だ。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百二十九弾「会津娘子隊(じょうしたい)」。



カン!カン!カン!
カン!カン!カン!
突然、けたたましい半鐘の音が朝の空気を切り裂く。
最大限の警戒を促す報せ。
敵がいよいよ会津の内懐に喰らい付いてきたのだ。
慶応4年(1868年)8月23日の事である。

それは僅か15年前から始まった。
遥か水平線に太平洋を横断してきた黒船の威容が現れた時、人々は悟る。
もはや井の中の蛙ではいられないと。
鎖国継続か、開国か、世論は二分し沢山の血と涙が流れた。
大政は奉還され、王政復古が宣言され、江戸は東京に。
趨勢は明らかだが歴史はまだ満足しない。
次なる生贄を求めていた。

徳川幕府に引導を渡した新政府軍(官軍)は、残る旧勢力に狙いを定める。
即ち東北の雄、庄内と会津。
--- 特に会津攻めは、目の色が違ったとか。
幕末、会津藩主が京都守護職に就いていた当時、
「新選組」らを使い討幕派を粛清した経緯から憎悪を募らせていたのだ。

錦の御旗を押し立て、雪崩を打って攻め入る官軍。
街は混乱を極めた。
諦めて死を選ぶ者、避難する者、決戦地・鶴ヶ城を目指す者もいる。
そこに武器を手にした女性たちの姿があった。
後に「娘子隊」と呼ばれる義勇兵は6名。
程なく20余名が志を同じくした。
年齢は10代~40代と幅広い。
皆、先に逝った夫や父、兄弟の無念を晴らす意思を固めていたのである。

だが、家老に従軍を願い出るも相手にされなかった。
『婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩士の名折れ!』

それでも決死の覚悟で食い下がった。
『願いを聞き届けてもらえぬなら、この場で自決します!』

許しを得た「娘子隊」は、8月25日夕刻、
会津と新潟を結ぶ越後街道の川にかかる橋上で、ついに仇敵と遭遇。
官軍は、女性が交ざっている事に気付き生け捕ろうとしたが、
渾身の太刀を受け、慌てて銃を構えた。
激しい戦闘を繰り広げて生き残った5名は城に戻り、
負傷者の手当てや炊き出しなどに尽力。
また、有名な「新島(旧姓/山本)八重」とライフルを並べて戦った。

およそ1ヶ月に及ぶ攻防の末、籠城側が降伏。
「落城」ではない。
鶴ヶ城は最期まで耐え抜いたのだ。
しかし、明治7年(1874年)、政府の命により石垣を残して取り壊される。
荒れ果てた、難攻不落の「名城」を題材に作詞されたのが、
日本音楽史上に名を刻む「名曲」なのは、有名なハナシだ。



--- さて、この内戦で藩を挙げ抵抗した会津側の戦死者は三千あまり。
武士階級以外、農夫や婦女なども含めると犠牲者は数倍に上ったとの説もある。
主戦場となった会津若松城下一帯は、火の海と化した。
戊辰戦争に於いて、ここまで殲滅・破壊の限りを尽くした都市は他にない。
更に、戦後の待遇も苛烈だった。

領地を没収され故郷を追われた人々は、下北半島の「斗南(となみ)藩」へ移住。
石高は28万石から3万石に激減。
土地はやせ、作物は育たず、障子に張る紙すらないあばら家で草の根を噛み、
零下20度に達する冬を耐えねばならなかった。

『会津は大勢の仲間を殺し、天子様に弓引く朝敵。打ち滅ぼして礎とせよ!』
『薩長の仕打ちに負けるな。国辱をそそぐまでここは戦場(いくさば)ぞ!』

互いの正義・信念に基づき刃を交えた者同士である。
どちらも拭えない恨み・痛み・哀しみを抱えていた。

ところが、やがて国際社会と向き合うようになった途端、歴史は掌を返す。
禍根を断てと言う。
もう官軍も賊軍もないと言う。
薩摩でも長州でも会津でもない「日本人」とやらが、新国家のため協力し合えと言う。
まるでそうするのが当然であるかのように--- 。

殖産興業、富国強兵。
文明開化、立憲君主。
近代の夜明けを告げる維新の眩い光が落とした影には、
たっぷり生き血を吸った「士魂」という蟲が蠢いていた。

<後 記>

既に拙ブログで数回書いた通り、僕のルーツは会津である。
祖父は明治のある日、会津の片田舎に生まれた。
おそらく士族の出ではないが、彼の親世代は戊辰戦争と無縁でいられなかっただろう。
いち会津人として激しいジレンマに陥り、トラウマに悩んだとしても不思議ではない。

僕は2度、彼の地に足を運んでいる。
最初は、まだ子供だった頃。
「白虎隊」が命を散らした飯盛山(いいもりやま)、鶴ヶ城を訪れた。
次は、今から30年近く前。
裏磐梯の五色沼(ごしきぬま)湖沼群の美しさが印象に残っている。
遠くない将来、3度目の旅に出たい。
そう考えている。
                                
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KADENから考える理想。

2023年09月10日 19時30分00秒 | 日記
                       
<はじめに>

台風13号などによる大雨で各地で浸水や土砂崩れが相次ぎ、
特に、千葉県や茨城県は被害甚大。
また、日本全体で、ここ1週間のうちに震度1以上を観測した地震の数は280回にのぼる。
拙ブログをご覧の皆さまに大事のないことを願っております。

<本 編>

身の回りをちょっと見渡しただけで、
実に多くの「家庭用電気機械器具」に囲まれていることに気付く。



電気掃除機。
電気洗濯機。
電気空調機。
電気炊飯器。
電気冷蔵庫。
食器洗い乾燥機--- まだまだある。

いずれも、持ち主に対し誠に従順。
電気さえあれば、文句一つ言わず献身的に働いてくれる。
遥か昔に照らし合わせると僕たちの生活レベルは、
多くの「召使い」に傅かれた(かしずかれた)“王侯貴族や大名並み”。
贅沢と言えるかもしれない。

もしも彼らがいなかったとしたら。
かかる負担は大きなものになる。
掃除洗濯は人力、炊飯は薪焚き、食材保存は塩漬けか干物。
どれも手間と労力、時間を費やして賄わなければならない。

しかし振り返ってみれば、昭和30年(1955年)に始まる高度経済成長期以前、
庶民は家電に頼らず暮らしていた。
当時に近い営みにチャレンジしたら不便を感じるだろうが、
やってやれないことはない。
家電ダイエットについて考えてみよう。

当世、冷暖房ナシは命にかかわるので、残さざるを得ない。
こうしてブログ制作をしたり、仕事の連絡ツールとしてPC(とネット)は必要不可欠。
竃(かまど)設備や燃料調達をする経費を考えれば、電子ジャーは欲しい。
あとは小さなオーブントースター。
手元灯り。

--- コレでいいのではないだろうか。

徒歩圏内にスーパーマーケットやコンビニといった大型冷蔵庫があり、
コインランドリーも近いし、掃除は箒(ほうき)と雑巾でオッケー。
充分生きていける気がする。

そんな必要最小限の人生を送りたいものだが、事は簡単ではない。
一番の障害は「人」だ。
自由気ままな身分ではない僕にとって、理想の生活は夢のまた夢なのである。
                         
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