つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

今は昔、失われたよそおい有りけり。

2024年06月30日 07時30分00秒 | 手すさびにて候。
                                
拙ブログをご覧の貴方は「化粧」をした事がおありだろうか。

紅 (べに) や白粉(おしろい)などを使って、顔を美しく見えるようにすること

辞書に掲載された定義に従うなら、僕は「ない」。
将来、機会があるとすれば「死化粧」。
昭和生まれからすると“化粧は女性がするもの”という感覚なのだ。

しかし歴史を振り返れば、その意識が一般的になったのは明治の頃である。
また、近年メンズ美容・メイクの需要が高まっているという。
ジェンダーレス意識の推進により性の垣根が取り払われつつある。
SNSの発達、コロナ禍を経たオンラインの発達により「映え意識」が根付く。
他、様々な要因によって人心に変化が起こっているようだ。

ともあれ、ヒトは長きに亘り化粧をしてきた種族である。
今回は、昔日の粧いについて拙作・拙文を投稿してみたい。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十八弾「古(いにしえ)メイク」。



今からおよそ20万年前、アフリカ大陸に現生人類が出現。
5万年前くらいにアフリカからユーラシア大陸へ進出。
3万8千年前頃に南から海を越え、更に1万年後に北から陸路を辿って日本に到達。
「旧石器時代」のことだ。
寒冷期を含む厳しい気候だった当時、
肌を守るため獣脂を塗るなどのスキンケアはしていたと推測する。

縄目模様の土器に象徴される「縄文時代」、すでに粧いの習慣があった。
線刻、色付きの土偶や土面が出土していることからも明らかである。
特に「赤」が多用された。
主な原料は、大地から豊富に採れる酸化鉄「ベンガラ(弁柄/紅殻)」だろうか。
赤は、自然界で目立つカラー。
太陽・炎・血など生命力に繋がるそれは、縄文人たちの外見と精神を彩ったに違いない。

ちなみに古今東西、ヒトは赤の粧いに特別な意味合いを与えてきた。
例えば「赤いリップメイク」である。
その起こりは紀元前3500年の古代メソポタミア。
時の女王は権力の象徴として、唇を赤く塗っていた。
古代エジプトの貴族たちは赤土に樹脂を混ぜ大胆な赤い唇を演出し、
女王「クレオパトラ」は特にディープレッドを好んだという。
今でも唇用の化粧品を指し「口紅」とか「ルージュ」と呼ぶのは、
遠い先祖が抱いていた、赤への強い思い入れの名残かもしれない。

さて、話題は先史から古代へ。
時が流れ、日本の化粧に変化が訪れる。
赤に白と黒が仲間入りして“三色時代”の幕が開いた。



飛鳥時代から奈良時代は、化粧にとって大きな転換期。

朝鮮半島~大陸から遣隋使・遣唐使がもたらす先進国の風---
政治制度、文字、仏教などと一緒に、化粧法や化粧品も輸入される。
特に鉛白粉(なまりおしろい)は革新的だった。
鉛を酢で蒸して作る白い粉は、貝殻や米粉などのそれに比べ格段に延びが良く、
宮廷の女性たちが積極的に取り入れた。
鉛白粉を塗り、唇に紅を差す唐風メイクがスタンダード化してゆく。
それは「おしゃれ」の始まり。
呪い(まじない)や権威の意味合いから離れ、美を表現する手段になったと言える。

やがて平安時代の遣唐使廃止後、国風文化の熟成が進む。
漢字を元にした仮名文字が生まれ『枕草子』や『源氏物語』に代表される
和文で記された随筆や物語が著された。
寝殿造、大和絵など、独自のスタイルは粧いの分野でも同様。
丈なす黒髪(たけなす/身長に迫るロングヘア)。
日焼けがなく、皮下脂肪が透けて見えるような透明感を持つ白肌は美人の条件に。
そこに「眉化粧」と「お歯黒」が加わる。

眉化粧は、常に穏やかで高貴な雰囲気を保つ為。
感情につられて上下してしまう生来の眉を抜いて白粉を塗り、
額の高い位置に、眉墨で新しい眉を描いた。

お歯黒の起源はハッキリしていないが、かなり古くから行われていたらしい。
3世紀ごろの日本・弥生時代の様子を記した『魏志倭人伝』。
8世紀に編纂された歴史書『古事記』に記述があるという。
使う材料は2つ。
米のとぎ汁や酢などに、古釘や鉄くずを入れた水溶液「鉄漿水(かねみず)」。
ウルシ科の樹木・白膠木(ぬるで)の虫こぶを乾燥させた「五倍子粉(ふしこ)」。
ホワイトニング全盛の現代からすれば黒く染めた歯は違和感を禁じ得ないが、
時代が違えば、美への眼差しも異なる。
尚、五倍子粉に含まれるタンニンは虫歯や歯槽膿漏の予防に役立ったとか。
お歯黒はオーラルケアの側面もあるのだ。

白粉の白。
口紅や頬紅の赤。
お歯黒や眉化粧の黒。
この三色は以後、千年以上に亘り化粧の基本色になるのである。

<付 録>

最近ある能面師の方にお目にかかる縁を持ち、少々驚く発見があった。
彼女曰く『女面は、ほぼ二重瞼(まぶた)』。
確かに小面(こおもて)も、逆髪(さかがみ)も、増女(ぞうおんな)も。
つまり妙齢の女性も、熟女も、老女も。
皆一様に二重なのだ。
古風な日本的美人は、目が切れ長で一重だと思い込んでいたが、誤りだった。
能面が、能の完成した頃の理想を反映しているとしたら---。
「室町美人」の条件は二重瞼となる。

“細目、かぎ鼻、おちょぼ口、ぽっちゃり体形”

そんな古典美女のステレオタイプな印象は、
絵巻物や浮世絵の様式が植え付けた先入観なのかもしれない。
                         
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ルーブルの女神。

2024年05月24日 22時00分00秒 | 手すさびにて候。
                        
今投稿から2ヶ月後、世界の耳目は“花の都”に集まる。
2024年7月26日「パリ・オリンピック」が開幕するからだ。

フランスに上陸した聖火は、現在、各地の観光名所を経由しながらリレー中。
市内に入って以降は全20区をくまなく回るそうだ。
ルートの1つとして外せないのは「ルーブル美術館」だろう。
その歴史は古く、12世紀まで遡る。
日本ではちょうど鎌倉幕府が成立して間もない頃。
国王・フィリップ2世の命令により城塞として建てられ、後に王の邸宅に改築された。
正式にミュージアムとなったのはフランス革命の勃発から4年後、1793年。
館内には、先史時代~19世紀まで様々な人類の遺産が並ぶ。
すべてを鑑賞するには1週間を要すると言われるほどの点数を誇る。
たとえ美術ファンならずとも知る有名な作品も多い。
3万点以上の常設展示から、三大美女のそれを挙げてみよう。

謎めいた微笑は説明不要「モナリザ」。
黄金比の立ち姿「ミロのヴィーナス」。
そして拙作の題材とした女神像である。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十七弾「幻想、有翼の美神」。
                


それは、1980年代末。
中庭に金属とガラスのピラミッドが出来る2年ほど前のことだ。
成田発ソ連経由~ギリシャに入りオランダまで。
欧州を南から北へ縦断する旅の途中、僕はパリに立ち寄った。
目当ては、ルーブル美術館の“三大美女アート”鑑賞。
旅程と列車ダイヤの関係で満足な時間が取れず、駆け足の訪問となる。
つまり無理を押して組み込んだのだから、
それなりの思い入れがあったはずなのだが、正直あまり印象は濃くない。
やはり、慌ただしかったせいかもしれない。

前述した通り元は城郭。
とにかく、やたらと広いのである。
3つに分かれた展示スペースのフロアはそれぞれ地下1階と地上3階。
しかも各フロアが中規模の美術館並み。
乱暴に言えば12個の美術館が合体したようなものだ。
当時は日本語の案内が乏しく、どこに何があるのやら。
限られた時間で探し回らねばならず四苦八苦。
楽しむより焦りが先に立った。
ようやく辿り着いた「モナリザ」は、人だかり越しではあまりに遠く小さい。
「ミロのビーナス」はアメリカ人団体観光客の壁に囲まれていて近づけない。
またどちらもレプリカを見過ぎていたせいか、感激は薄かった。

一方、大階段の踊り場にすっくと立つ「サモトラケのニケ」には息を呑んだ。



「サモトラケ」は発見地の島の名前。
「ニケ」はギリシア神話のキャスト。
神々の父・ゼウス、軍神・アテナの使いで、勝利をもたらす幸運の女神である。
古代世界で広く人気を博し、崇拝されたという。
それがなぜ壊されたのか。
詳細は不明ながら“時の趨勢”は無視できない。

ギリシアの気風を受け継ぐローマが地中海全域を治める大国に成長し、
広大な領土と多民族を抱えるようになると、安定のため「象徴」が必要となる。
それが「唯一の皇帝」と「唯一の神」。
統治システムは共和制から帝政へ。
信奉者が拡大していたキリスト教は公認から国教へ。
古(いにしえ)の神々は次第に廃れ、神殿・モニュメントは荒廃していった。
そんな背景がある。

制作時期は紀元前2世紀と推測され、作者は不詳。
1863年、欧亜を分かつエーゲ海の島で見つかった。
まず胴体が掘り起こされ、その周囲に118個のパーツが散乱。
大理石の欠片の殆どは左翼の一部と判明し、修復再現。
右翼の構成物は散逸、左を参考に形成復元された。

彼女は、頭も、両腕も欠くいわば「不完全品」。
にも拘わらず、問答無用の「説得力」を有していた。

風に煽られ棚引く薄布が張り付いた美しい肉体。
背中には力が漲る両翼。
天窓から降りそそぐ光の中に浮かび上がり、
備わった陰影が大理石の印象を有機体に変える。
とても2000年前の代物とは思えない。
まるで血が通っているかのような錯覚を覚えた。

ホントはどんなポーズを取っていたのだろう?
どんな顔をしていたのだろう?
きっと美人に違いない!
観る者の想像を掻き立てずにはおかない「サモトラケのニケ」。
上掲イラストは、ルーブルの女神に捧げる拙いオマージュと捉えてもらえたら幸いである。
                       
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俳聖、やはり旅人也「松尾芭蕉」②。

2024年05月12日 14時14分14秒 | 手すさびにて候。
                           
同カテゴリーの先回は「俳句」と「松尾芭蕉」について投稿した。
執筆のキッカケになったのは、先月(2024/04)出かけた西美濃への小旅行。
訪問地の1つ岐阜県・大垣市は「芭蕉」と縁が深い。
貞享元年(1684年)秋。
元禄元年(1688年)春。
元禄二年(1689年)秋。
元禄四年(1691年)秋。
履歴を時系列に沿って並べると、僅か7年ほどのうちに都合四度も来訪している。

うち三度目のそれが、あの大旅行の結び。
江戸・深川~関東~東北(奥州)~北陸と延べ2,400km、
およそ150日を費やした『奥の細道』のゴールに選んだのである。
大垣に「格別の思い」を抱いていたであろう事は、想像に難くない。

当時の大垣は、城主の文教奨励もあり俳句をたしなむ気風が充満。
しかも、大垣俳壇のリーダーは自分の弟子で俳友。
早くから「芭蕉」が編み出したスタイル---「蕉風」を受け入れてくれていた。
また、舟運(しゅううん)の拠点で、各地へのアクセスが便利。
旅をするにも滞在するにも、何かと都合のいい場所だった。

そんな経緯から、大垣には「奥の細道むすびの地 記念館」がある。


(※大垣 「奥の細道むすびの地 記念館」正面入口/りくすけ撮影)

施設オープンは平成24年(2012年)。
「奥の細道」の解説をはじめ、俳聖の人となりや人生を紹介する「芭蕉館」では、
各種展示やAVシアターを通じ、旅の概略を学び追体験ができる。
館内は撮影不可の為お披露目できないが、なかなかの充実ぶり。
貴方が歴史ファン、江戸ファン、俳句ファン、芭蕉ファンなら、
楽しいひと時を過ごすことが出来るだろう。

さて、ここからは記念館常設展示で個人的に気になった
「人間・芭蕉」コーナーにモチーフを得た拙作を紹介したい。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十六弾「大原女(おおはらめ)」。



芭蕉門下の1人に「野沢凡兆(のざわ・ぼんちょう)」という人物がいる。
金沢出身で京都に暮らし、医の道を志していたが、
「芭蕉」の作品に感化され文芸にのめり込んだ。
彼が遺した俳文(はいぶん/歌に関するコラム・エッセイのようなもの)「柴売ノ説」に、
師匠が戯れにこんなことを語ったと記録がある。

『身のいやしさを思へば 官女もかたらひがたし
 心の鈍きを思へば 傾城もなほ交わりがたし
 もし妹背をなさむに このおなごをなむ』

■「官女(かんじょ)」は、
宮中、将軍家・大名などに仕える女官。
身分が確かで眉目秀麗なVIP専用女性スタッフといったところ。

■「傾城(けいせい)」は、
紀元前の中国王朝「前漢」の歴史を著した「漢書」に由来。
色香で君主を惑わせ、国政を蔑ろにさせ城を傾けてしまうほどの美女のこと。
江戸期の日本では、太夫や天神などの最上級遊女を指す。

■「妹背(いもせ)」は、
兄妹・姉弟・夫婦の仲、ひいては睦まじい男女をいう。

■文中の「このおなご」とは、
京の山里・大原の女性たち「大原女」。
紺の着物、赤の襷(たすき)掛け。
白手拭を吹き流すのが定番の装束。
柴(しば)や炭、薪などを頭に載せ、
往復20数kmもの道のりを歩き、都まで行商にやって来た。
 
補足を交えたうえで前掲の芭蕉談を、
フランクな話し言葉に現代意訳するなら、こんな感じになるかもしれない。

『凡兆ぉ~、俺って元々農家の次男坊で田舎者だろ。
 だからぁ、いい匂いのするお女中っていいなぁ~と思うけど、高根の花なんだよな。
 じゃあプロでいいじゃんってなるかもだけど、ピンとこないんだよ。
 色っぽいハナシで盛り上がるんなら、やっぱフツーの娘(こ)が---
 ほら!あそこを歩いてる柴売りの大原女なんかがイイんだよ。 
 よく見れば、結構カワイイぜ。』


---「芭蕉」先生、失礼しました!

大原女は、古くから京都の名物の一つ。
江戸時代には彼女たちをモデルにした美人画が流行ったとか。
華やかな都大路にはいない、純朴な雰囲気がウケたと考えられる。
また、僕は人気の一因として、一種の“神秘性”を帯びていたとも推測。
大原の位置は、京都市左京区の北東部。
比叡山の麓にあたるそこは「延暦寺」の影響が強く及ぶ所だった。
幕府による政(まつりごと)、御所の威光とは違う、
仏の力に護られたパワースポットからやって来る涼し気な瞳の女性たち。
大原女には、そんなイメージが備わっていたかもしれない。

ともかく弟子の書にある一幕は、文学史上の偉人として持ち上げられがちな「芭蕉」の
人間臭いエピソードではないだろうか。

もう一つ「奥の細道むすびの地 記念館」常設展示「人間・芭蕉」コーナーから紹介したい。
「芭蕉」は、故郷で造り酒屋を営む門人「宗七(そうしち?)」へ宛て、
こんな手紙を出しているという。

『から口一升 乞食(こつじき)申したく候』
(伊賀へ帰ったらアンタのとこの旨い酒、分けてね。一升だけでいいから)

何しろ「芭蕉」は自らの創作活動を優先するため、
苦労して手に入れた俳句レッスンプロの座を捨て、収入の道閉ざしている。
名声を得て以降も暮らし向きは楽ではなく、借金、もらいもので日々を繋いでいた。
ちなみに酒の句も少なくなく、呑兵衛の傾向が見え隠れ。
俳聖はアーティストらしく、わがままで、だらしなく、自己中心的な面がある。
でも、才能の輝きにいささかの翳りなく、弟子たちから慕われ愛されたのだ。
それは、大旅行を結んだ時の様子からも窺える。

元禄2年(1689年)8月21日(現在の暦では10月4日)、
「芭蕉」は敦賀まで出迎えに来た弟子を伴い大垣に着いた。
およそ2週間の滞在中、多くの親しい人たちが尋ねて来たという。
ある者は急ぎ足で、ある者は早馬を飛ばして、あるものは土産持参で。
皆「芭蕉」の無事を喜び、労わりたいと思い集った。

---『奥の細道』という長編ロードムービーのハッピーエンディングである。
そして、ラストシーンで主人公は意外な台詞を口にした。

『旅は終わらない』


(※大垣 船町湊の句碑「蛤塚」/りくすけ撮影)

『蛤の ふたみに別 行秋ぞ』
(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)

過ぎ去ろうとしている秋に別れを告げ、手を振る諸君に別れを告げる。
貝の身と殻とを二つに引き裂く様に、再び悲しい別れの時が来たのだ。

旅の疲れを癒やした「芭蕉」は、歌を残し川港から舟に乗る。
目指すは、伊勢の二見浦。
伊勢神宮の遷宮へ参上するため、
多勢の見送りを受けながら、栖(すみか)に帰ってゆくのだった。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり
                  
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俳聖も、同じ人也「松尾芭蕉」①。

2024年05月09日 20時00分00秒 | 手すさびにて候。
                           
先月(2024/04)、僕は西美濃へ小旅行に出かけた。
訪問地の1つ、岐阜県・大垣市は「松尾芭蕉」が、有名な旅を終えた地である。

326年前のちょうど今時分。
元禄2年 旧暦3月27日に門人を伴い江戸深川を出発した「芭蕉」は、
関東~東北(奥州)~北陸と、和歌の題材になった名所・旧跡「歌枕」を訪ね歩いた。
およそ150日間、2,400kmに亘る大旅行の紀行文が『奥の細道』。
そこに収められた60余りの歌の幾つかは、
発表から長い時を経た今日(こんちに)でも、容易に思い浮かべることができる。

『夏草や 兵どもが 夢のあと』
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
『五月雨を あつめて早し 最上川』
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
『無残やな 甲の下の きりぎりす』
(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)

個人的には、序文冒頭も忘れ難い。

『月日は百代の過客にして 行き交ふ年もまた旅人なり
 船の上に生涯を浮かべ 馬の口とらへて老いを迎ふる者は
 日々旅にして旅を栖(すみか)とす
 古人も多く旅に死せるあり』


時は永遠の旅人。
歩みを止めず巡る季節も旅人だ。
一生の殆どを水の上に浮かべて過ごす船頭、
馬のくつわを引くうちに老いてゆく馬子などは、毎日が旅そのもの。
彼らにとって旅はねぐらである。
未練を残し道半ばで倒れた先人達の例を引き合いに出すまでもなく、
人生はゴールのない旅のようなものかもしれない。
(※現代意訳/りくすけ)
--- とまあ、少々拡大が過ぎる気もするが、ずい分若き日にそう解釈をした僕は、
「旅の空の下で死ぬ自分」にヒロイックな憧れを抱いたりした。
オッサンになって思い返せば面映い限りである--- 。

さて、後の人々が「松尾芭蕉」に冠した称号は“俳聖”。
“古今に並ぶ者のない俳句の大名人”だ。
そう聞くと近寄り難い印象かもしれないが、出自は庶民階級。
伊賀上野(現/三重県・伊賀市)の下級武士(実態はほゞ農民)の次男で、
城主に仕え俳諧の心得を学び、文芸で身を立てようと大都会・江戸へ出た。
まだ、俳句は歴史の浅い新ジャンル。
いわば「芭蕉」は、地方出身のハングリーな前衛芸術家だったとも言える。

日本橋に居を構え、様々な俳人と交流を持ち句会の審査員や指導をする傍ら、
土木工事などに従事して糊口をしのぎつつ腕を磨いた。
およそ6年間の下積み生活後、見事、宗匠(そうしょう/師匠格)になる。
いよいよ大活躍か!?--- と思いきや、せっかく手に入れた地位を捨て、
草深い江戸の外れへ転居し粗末なあばら家に籠る「芭蕉」。
世俗と距離を保ち、自然に包まれ、時の流れに身を任せ、
やがて心眼に映る「風流」をこう詠んだ。

『古池や 蛙飛びこむ 水のおと』
(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)

当時の俳壇の主流は、複数人が即興で歌を連ねてゆく言葉遊び、洒落、笑いなど。
それとは明らかに一線を画していた。
古典の美と身辺の日常を重ね合わせ、十七音の向うにある世界を考えたくなる詩的な表現。
独自のスタイル「蕉風」を確立。
そして彼は創作の旅を重ね、各地に多くのフォロワーを生んでいった。

では、ここからはアーティスト人生集大成となった紀行文『奥の細道』から、
俳聖の人間味が窺える一作にスポットを当ててみたい。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十五弾「市振(いちぶり)にて」。



『一家に 遊女もねたり 萩と月』
(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)

『奥の細道』には、この句に関する挿話が綴られている。

暑さに焼かれ、雨に打たれながら北陸街道の難所を越え、
ようやく辿り着いた「市振の関」(現/新潟県・糸魚川市・市振)。
疲れ果てた「芭蕉」は草鞋を脱ぎ、早々床に就いたが、
隣から聞こえてきた年老いた男と2人の若い女の会話が気になった。
女はどうやら越後の遊女。
一夜の契りを重ねる罪深い暮らしを嘆き、前世の因果応報を憂いているようだ。
その話を耳にしながら「芭蕉」はいつしか寝入ってしまうのだった。
夜が明けて支度をしていると、遊女たちが涙ながらに頼み込んでくる。
女だけの旅は心細い。
後追いで構わないから、随行させてもらえないだろうか。
気の毒に思わないではなかったが、所々で滞在することも多いからと申し出を辞退。
歩き始めたものの、後ろ髪を引かれる気持ちが残り一句を創った。

--- という事らしい。

名所旧跡「歌枕」以外を題材にした句は、どことなく艶っぽい。
耳をくすぐる襖越しの声。
未練を残した早朝の別れ。
袖触れ合った遊女は、容姿端麗だったのではないかと空想してしまう。
俳聖といえど美人に弱く、人情にほだされ、人恋しい男の顔が垣間見えるのだ。
そもそもこのエピソード、
「芭蕉」に帯同した弟子の日記に記録がないことから、フィクションとも考えられている。
楽しくも苦しみ多い旅に、作者が添えた「彩り」かもしれない。

季語は秋の七草の一つ「萩」。
また一語だけの「月」も秋の月を指す。
地球と38万km離れて寄り添う大きな天体は、夜空が澄む秋こそ存在感が増すからだ。
2つ以上の季語が同居する「季重なり」の訳は何だろう?
季節感を強調している。
萩と月が主従の対を成している。
そんな捉え方もできるが、個人的には遊女の「境遇」を表していると考える。

燃えたぎる発光体が空を支配する日中(ひなか)より、
清光を放つ反射体が宙に浮かぶ時間、夜の方が似合う。
また、小さな蝶に似たつつましく美しい萩の花も、
影を纏う女性にしっくりくるのだ。

西美濃への小旅行に起因する「芭蕉」関連投稿は続く。
同カテゴリーの次回をお楽しみに!

<付 記>

「芭蕉」が活躍した江戸時代、
5・7・5のリズムで編んだ十七音の短文定型詩は「俳諧」と言われていた。
「俳句」と呼び名を変えるのは明治以降なのだが、
今投稿は読み易さを考慮優先し「俳句」で統一した。
                        
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女たちのブルーズ。

2024年02月10日 18時00分00秒 | 手すさびにて候。
                       
古くから近世に至るまで、日本人は「眼疾」に悩まされてきた。

江戸時代、安永4年(1775年)に来日した外国人医師は、
薪炭の煙と、トイレの臭気・ガスが原因と記している。
その指摘が全てではないが、確かに氷山の一角。
囲炉裏から立ち上る火の粉や煤煙、未舗装路から舞い上がる土埃。
低い栄養状態に起因するビタミンの欠乏。
極端に暗い照明、対抗薬のない様々な疫病など、
現代に比べ眼を病む要素が身近に溢れていた。

運悪く盲目になれば、職業の選択肢は限られる。
鍼や按摩で生計を立てるか、あるいは遊芸で糧を得るか。
--- 今投稿の主役は後者。
光を失い、生きる為に旅をして、歌を届けた越後の女性たちを取り上げてみたい。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十四弾「瞽女(ごぜ)」。



「この下に高田あり」

冬になると豪雪に埋もれる新潟県上越・高田には、
江戸時代、そう書かれた高札が立っていたという。
この町で生まれた設えが「雁木(がんぎ)」である。
家の前に庇を張り出し、道路が雪で塞がれても往来ができる空間を確保した。
総延長12kmに亘り連なる雁木は、令和の今も街並みを特徴づけている。



その雁木通り界隈には、かつて「瞽女」たちの家があった。
瞽女は、目が不自由な女性旅芸人のこと。
明治半ばの最盛期には17軒90人あまりが暮らしていたとか。
厳格な戒律を持ち、共同で規則正しい生活を送りながら三味線と歌の稽古を積んだ。
数時間に及ぶ語り物、俗曲、流行り唄、民謡などレパートリーは多種多彩。
もちろん全て口伝であり、耳で覚え脳裏に刻み付けなければならなかった。

記録に瞽女が登場するのは室町時代。
当時の絵巻物に「琵琶法師」と共に描かれ、
江戸時代までは、ほぼ全国的に活動していたことが分かっている。
中でも、上越・高田のそれは広範囲。
越後各地~信州は言うに及ばず、関東・東北地方へ。
更に、出稼ぎ漁に便乗して、遠く蝦夷(北海道)まで渡った。

瞽女旅のユニットは3~4人が基本。
晴眼の「手引き」が先頭を担い、後に続く者は前の荷物に指をかけ歩く。
背負うのは生活道具一式をまとめた、重さ15キロの大風呂敷。
一行は心を1つにして、険しい峠や雪道を乗り越え、日に何キロも移動した。



馴染みの村へ着くと、まず「門付け」。
家々の玄関先で短い歌を披露し、報酬に金銭や米を受け取る。
夜は地主や豪農が提供する宿に泊まり、
集まった村人の前で夜が更けるまで演奏するのが常。
農山村の人々は、来訪を心待ちにしていたのだ。

高い期待感の訳は、娯楽が少ない時代だったという点は大きい。
だが、それだけではないだろう。
彼女たちはエンターテイナーとしてだけではなく、
「縁起のいい幸運の使者」だと歓迎された。
鉄道も自動車もなかった当時、旅は「冒険」のニュアンスを含む。
集落の外--- 遠い異界から困難を克服してやって来る盲人に対し、
ある種「畏敬」の念を抱いていたと考えるのは、無理がないように思う。

特に熱心に耳を傾けたのは、農家の嫁。
泥と汗にまみれて働き、家父長制度の下で我慢を強いられる中、
瞽女さんは「気晴らし」を与えてくれた。
演目が楽しい曲なら、手を叩いたり笑ったり。
泣き節なら、瞬きもせず食い入るように聴き入った。
また宴の後は、暮らしの愚痴を零し、悩みを打ち明けたという。
思いを受け止めてあげるのも、瞽女さんの役割だった。

そうして連綿と続いてきた瞽女の文化にも変化が起こる。
太平洋戦争~戦後の農地改革により、活動を支えてきた地主階級が没落。
ラジオやテレビの普及が新たな娯楽をもたらし、需要が減り、
昭和39年(1964年)を最後に、瞽女旅は消失した。

洗練された音楽ではないかもしれないが、
力強さと迫力、内包した情念が胸に迫る瞽女唄。
それは、女たちのブルーズ。
厳しい境遇を耐える聴衆と、辛い過去を背負う演者が、
数百年に及ぶ歴史を紡いできたのだ。

自らも隻眼だった作家「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」は、
日本語に通じる前に瞽女唄を聴き、友人に宛てた手紙にこう記している。
『私はこれほど美しい唄を聴いたことはありません。
 その女の声には、人生の一切の美と哀愁が、一切の苦痛と喜びが、
 戦慄のように、また小刻みに打ち震えていました。』

<後 記>

瞽女さんに興味を抱くようになって以降、
僕は2度、上越市高田の瞽女ミュージアム高田」(LINK)へ足を運んだ。



施設を訪れる前、瞽女さんに対しては、
近代化の過程で滅びた世界であり、過去の因習に縛られた歴史の暗部。
そんな印象が強かった。
だが、様々な資料を閲覧し、話を聞き、一味違うと気付く。
障害を受け入れ、芸を磨き自立して生きる彼女たちは実に逞しい。
また、彼女たちを支えた土壌と「温もり」があったことを知る。
拙作・拙文が、何かしら貴方の心に触れたならば、誠にもって幸い。
そして機会が許せば、上越高田へ出かけてみてはいかがだろうか。
                              
コメント (4)
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