つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町、戦時下の記録。

2023年11月15日 23時23分23秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      


2023年10月7日の投稿で取り上げたとおり「津幡ふるさと歴史館 れきしる」にて、
企画展「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」が開催中。

明治6年(1873年)の創立以来、小学校を取り巻く時代背景と、
校舎をはじめとした環境の変化による学校生活の移り変わりを諦観できる。
写真や教科書など多くの資料が展示され、なかなかの盛況と聞いた。
来館者は同校ゆかりの方が多く、昔の卒業アルバムなどに目を通し、
自分が通学した当時を振り返りながら話に花が咲いているとの事だ。

館内では、大型モニターのスライド上映に合わせ、拙作音声プログラムもリピート再生。
耳を傾けてもらえたら嬉しい限りである。
(津幡小学校HPでも聴取可能:https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/tsubae/



さて、今企画展はロングランだけに少しづつ充実を図っている。
先日お邪魔したところ「戦時体制時の写真」と題したコーナーが新設。
一番上に掲示されているのは、昭和16年12月8日に発表された詔書、
いわゆる対米英「開戦の詔(みことのり)」だ。



『天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ
 昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス---』

僕は、印刷全文を目にしたのは初めて。
文字通りの「史料」である。



津幡小学校木造校舎前で撮影された「大日本国防婦人会津幡町分会」の集合写真。

「大日本国防婦人会」の起こりは大阪。
一般の主婦たちが、出征兵士らにお茶を振舞い接待したのが始まりとか。
“国防は台所から”のスローガンを掲げ、全国へ拡大。
出征兵士の見送り、留守家族の支援、傷病兵や遺骨の出迎え
慰問袋(※)の調達と発送、兵営や陸軍病院での洗濯、防空演習などを行った。
銃後で戦争を支えた格好だが、見方を変えれば女性たちに「家」以外の居場所ができ、
社会活動へ参加する最初の一歩になったと言えなくもない。

※慰問袋
戦地の兵士を励ますため内地の家族や知人が送る慰問品を詰めた袋。
日露戦争中に始まり当初は特定の相手に送ったが、
太平洋戦争時には不特定の兵士宛てになる。



陸軍病院慰問の記念写真。
傷病兵のベッドが並ぶ病室で、歌の披露でもしたのだろうか?
戦時に於ける少年少女の風景の1つだ。

これら貴重な記録は、津幡小学校が積み重ねた150年の時間の中に、
今では思いもよらぬシーンがあった証である。
是非「れきしる」へ足を運び、じっくりと眺め思案してみてはいかがだろう。
「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」の会期は、
2023年12月17日・日曜日までである。
                      
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津幡小学校 創立一五〇周年記念式典。

2023年10月21日 16時23分23秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                         
本日(2023/10/21)わが母校「津幡小学校」の創立150周年記念式典が行われた。
場所は、同校体育館。
お招きに与り、僕も臨席させてもらった。







在校児童たち、PTA、関係各位が集い賑やかな記念式典。
一、開会の辞
一、国家斉唱
一、校歌斉唱
一、学校長式辞
一、児童発表
一、歴代校歌紹介
一、お祝いの言葉
一、お礼の言葉
一、閉会の辞
『起立!』『一同礼!』『着席!』の司会進行に従い動いたのも、
声を合わせて国家・校歌を歌ったのも、一体何年ぶりだろう。
オジサンの日常ではまず味わえない体験で妙に新鮮に感じた。
都合およそ1時間少々、式典はつつがなく終わり小休止。

第二部では、同校卒業生で現在・声楽家(メゾ・ソプラノ)として活躍している方、
小泉詠子(こいずみ・えいこ)」氏のコンサートを開催。
一、シューベルト「アヴェ・マリア」
ニ、ロジャース「エーデルワイス」
三、滝廉太郎「花」
四、ロジャース「ドレミの歌」(※児童と一緒に)
五、ピアノソロ(崖の上のポニョ)
六、アメイジング・グレイス
七、ロウ「踊りあかそう」
アンコール:「翼をください」
素晴らしい歌声に皆が聴き惚れ、児童たちは楽しそうに参加していた。



「小泉」氏と同様「津幡小学校」卒業生として名を馳せる1人が、
二所ノ関部屋所属の力士「大の里(おおのさと)」関。
今年9月の大相撲秋場所で新十両ながら優勝争いを演じたのは記憶に新しいところ。
校内には特設コーナーが設置されている。



そして、記念式典にサプライズゲストとして登場!
場内大歓声と拍手で迎えたのは言うまでもない。
児童全員とハイタッチ、質問コーナーでは気さくに受け答え。
自身の益々の努力と出世を誓い「ヨコヅナ」コールに送られて会場を後にした。
後輩たちにとっては、いい思い出になったと思う。



--- さて、母校の創立150周年にあたり卒業生有志による応援団が発足。
僕「りくすけ」も末席に座り、任務を果たした。
以前紹介したとおり、ラジオ番組風プログラムの制作である。
関係各位のご協力を賜り、無事完成。
津幡小学校HPにて聴取可能となっている。

リンク:https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/tsubae/
「大西山の丘辺に立てば」(作、構成、編集/りくすけ)

学校の音楽室で録音した新旧校歌。
過去の校舎へ通学した方々、校長先生へのインタビューなどを織り交ぜ、
明治~大正~昭和~平成~令和、150年の歩みを紹介している。
ナレーションは本職のアナウンサー。
インタビュアーは不肖、僕が務めた。

また「記念誌」の閲覧もできる。
津幡町と津幡小学校に地縁血縁があれば楽しんでもらえると思う。
そうではない方にはピンとこない点が多々あるのは否めないが、
気が向いたら覗いて、聞いてやってくださいませ。
                            
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大西山の丘辺に立てば。

2023年10月07日 21時55分55秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      
このカテゴリー「大西山の丘辺に立てば」を立ち上げて、およそ1年3カ月が経つ。
ネーミングの由来は「津幡町立 津幡小学校」校歌の一節である。

『古城跡(こじょうし)に 河北の花と 
 大西山の丘辺に立てば
 山はみどりに 潟ひらけたり  
 わが学び舎ここに立てり』

その目的は、わが母校の創立150周年に華を添えたい一心。
応援団末席に座り取り組んできた任務を果たし終え、そろそろ区切りが見えてきた。
同校に縁のない方にはピンと来ないだろうが、
いち学び舎の歩みに明治~大正~昭和~平成~令和と流れた、
「時の光の飛沫」を見つけてもらえたら幸いである。

さて「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて企画展がスタート。
今回は「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」を紹介したい。





写真40点、教科書42冊、賞状など26点。
アルバム22点、掛図6点、教材6点、文房具7点。
合計150点に上る展示品が並んでいる。
しかも12月半ばまでのロングラン開催で、若干の入れ替えも考えているとか。
「れきしる」最大の規模といえるかもしれない。





この2枚の写真、
上段は明治22年(1899年)の卒業写真。
男児は全員坊主頭、女児は桃割れなどの日本髪だ。
下段は尋常小学校卒業記念筆跡集。
卒業生本人が肉筆で書いた名前が並ぶそれは、後の卒業アルバムに匹敵する。
ページ構成が成績順で、男児が先、女児が後に配置されているのは時代を感じるのだ。



これは明治32年(1899年)に設立された「子守学校」の様子。
裕福な家の子守奉公に従事する女性たちが対象。
週3日午後2時間、「おんぶ紐」で赤ちゃんを背負いながら、
現在の「道徳」にあたる修身、読書、算術、唱歌などを学んだ。
姿を消した授業風景の代表格だろう。

この頃の主な出来事として、2つの対外戦争は外せない。
日清戦争、日露戦争では津幡町からも若者たちが出征してゆき、遠い異国で命を落とした。
大西山に建つ忠魂碑傍の石板には、その後の「日中戦争」や「太平洋戦争」と併せ、
戦没者の芳名が刻まれている。



その忠魂碑建立の年、皇紀2600年(昭和15年/1940年)は、
日本各地で様々な記念行事・記念事業が行われた。
上掲写真は、その式典に参加した資料である。
興味深いのは手前中央の「献立の栞(しおり)」。
『紀元二千六百年の聖代を寿ぐ限りなく喜びの裡に、遥かに思ひを戦線の将士に馳せ、
 其の奮闘を偲ぶよすがにもと、食饌は我が国古来よりの食物を材料とした
 軍用携帯食を調えたものであります。』
--- と前置きして、乾燥粉末味噌を使った汁、味付乾燥牛肉の主菜、
携帯口糧(けいたいこうりょう)のご飯などが振舞われたようだ。
当時の風潮が窺える。





昭和45年(1970年)の教材「小学社会科掛図」。
黒板の前や横に掛け下げて、指し棒片手の先生が説明を行った。
・放し飼いのニワトリが行き来する庭の縁側に腰かけ、割烹着の女性と話す絵
・溝を流れる下水を噴霧器で消毒する絵
どちらも、なかなか見かけることは叶わない「失われた風景」である。
この掛図は程なく姿を消し代わって「OHP(オーバーヘッドプロジェクター)」が登場。
重厚な光学拡大表示機器も、やがて液晶プロジェクターへと移り変わってゆく。





続いて「津幡まつり」の際、街中を練り歩く「鼓笛隊」のスナップ写真。
昭和55年(1980年)撮影。
個人的にはとても懐かしい。
小学生だった僕もリコーダーを吹きながら参加した。
これも「失われた風景」。
今はもう行われていない行事だ。
ちなみに下段、フラッグを掲げる子供たちの背後最奥に見える建物が、
僕が通った校舎である。



以上、紹介したのはほんの一端。
「津幡小学校創立150周年記念 ヒストリー展」は、
「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて絶賛開催中。
都合と時間が許せば、是非足を運んでみてはいかがだろうか。
                             
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飛光 飛光 勸爾一杯酒

2023年09月30日 21時52分52秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                      
今年(2023年)わが母校「津幡小学校」が創立150年を迎え、
卒業生有志による応援団が発足。
微力ながら、末席に座る僕「りくすけ」も、それなりに情熱を注いできたのは、
以前にご紹介した通りだ。
(※今投稿カテゴリー「大西山の丘辺に立てば。」に分類)

もしかすると、その「ご褒美」と言えるかもしれない。
先日(2023/09/26)に開催された「津幡小学校運動会」に来賓としてお招きに与る。
後輩児童たちの躍動する姿を最前列で観覧でき、嬉しい限り。



グラウンドがある地点は、標高15メートル地点の大西山(おおにしやま)。
ここに鉄筋4階建ての校舎が落成したのは、昭和41年(1966年)。
通学校下の殆どから視界に入る位置に聳える堂々とした姿は、
まるで、かつてそこに建っていた「津幡城」を彷彿とさせる風格を漂わせていた。


(※昭和59年撮影/津幡小学校旧鉄筋校舎全景)

僕が通った学び舎はもう姿を消してしまったが、
僕も確かに同じ場所で催された運動会で、彼らと同じように汗を流した。
拍手を贈るうち、脳裏に霞がかかる。
気が付くと意識は半世紀前へ。
更に一足飛びに時を遡り、視界に佳日の光景が広がった。


(※昭和32年撮影/木造校舎時代の運動会)







--- さて、我が任務はいよいよ大詰めである。
学校の音楽室で録音した新旧校歌。
過去の校舎へ通学した方々へのインタビュー。
明治~大正~昭和~平成・令和、各時代の様子を紹介するナレーションなどを織り交ぜた、
ラジオ番組風「150周年記念 音声プログラム」完成まであと僅か。
ラストスパートなのだ。
                    
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母校の景趣。

2023年06月18日 20時11分11秒 | 大西山の丘辺に立てば。

わが母校「津幡小学校」の開学は、明治6年(1873年)春。
今も津幡川のたもとに建つ寺院---
「弘願寺(ぐがんじ)」の境内に設置した仮校舎が始まりである。
当時の学年は4ヶ年で、読書、習字、算術などの科目を教えていた。


 
津幡小学校 開学の前年、
近代化を急ぐ明治政府は「国民皆学」のスローガンを掲げ義務教育をスタート。
しかし初期の就学率は、30%程度がせいぜい。
改善すべき点が多かった。
年齢に応じたカリキュラム、教科書を作成。
師範学校で養成した教育のプロ「先生」を派遣。
授業料を無償化するなどして、子供たちが通いやすい環境を整備。
就学率もアップし、いよいよ「大西山(おおにしやま)」に校舎が建設される。



『古城址(こじょうし)に河北の花と 
 大西山の丘辺に立てば
 山はみどりに 潟ひらけたり 
 わが学び舎ここに立てり』

「津幡小学校校歌」冒頭にそうあるとおり、
旧北陸道を見下ろす小高い丘陵地「大西山」は、かつての「津幡城」跡。
ここに木造校舎が建ったのは、明治20年(1887年)夏のこと。
男子・女子がそれぞれの校舎に別れて勉強していたという。
また、赤ん坊を背負った児童が授業を受ける風景があった。
当時、主に女の子が裕福な家の子守役として働くケースは珍しくなく、
それをこなしながら通学できるようにと「子守学校」が開設されていたのだ。

--- とまあ学校初期の姿をざっと書き出すと、そんな感じになる。
そして、150年の時が流れた。





既にこのカテゴリーで投稿してきたとおり、
僕は、母校の「150周年記念事業応援団」の末席に名を連ねている。
この1年余りの間に、担務セクション毎に何度か話し合いを重ねてきたが、
先日、年度替わり経て定まった新体制下での全体合同会議が開催された。





記念式典部会、記念事業部会、記念誌部会、
それぞれの進捗状況の報告と確認があり、内容もかなり具体化してきた。
式典執行は令和5年(2023年)の秋。
然るべきタイミングになれば、拙ブログでも発表致します。

さて、僕の役割といえば---「150周年記念 音声プログラム」を制作するのが1つ。
学校の音楽室で録音した新旧校歌。
過去の校舎へ通学した方へのインタビュー。
明治~大正~昭和~平成・令和、各時代の様子を紹介するナレーション。
こうした要素を織り交ぜたラジオ番組のようなもので、
尺は60分くらいを予定している。
こちらも然るべきタイミングに詳細を明らかにしたい。
                               
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