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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

越中・富山から加賀国・津幡へ、街道を往く。

2011年10月12日 23時32分41秒 | 旅行
今回は、先週末に出かけた富山市への日帰り小旅行について投稿したい。
往路は、北陸自動車道に乗って一気に富山市内へ。
目指すは「冒頭の一枚」…「富山城址公園」。
小さな天守閣の中に設置された「富山市郷土博物館」だ。
目的は、そこで開催中の特別展…
「街道を歩く~近世富山町と北陸道」の観覧である。

江戸時代の北陸道は、越前⇔加賀⇔越中⇔越後を結ぶ主要道路。
津幡町も通過し、多くの人と物の交流があった所縁の道だ。
この展示会で焦点を当てたのは3つ。
@藩政期、越中最大の都市だった「富山城下の道筋」。
@全国的な名所だった「神通川船橋」。
越中を東西に分ける「呉羽山越え」。
…について、富山藩領部分の道筋を紹介していると聞き、
興味を掻き立てられ、出かける。
また「富山公文書館」の特別企画展…
「越中の旅人たち~江戸時代の寺社参拝~」へも足を運んだ。

どちらも、版画や文献、江戸末期から明治黎明期の写真などが展示され、
当時の旅人の眼に映っていたであろう風景を追体験。
様々な知識を得て、充実した時間を過ごした。

復路はかつての街道を辿るため下道を選ぶ。
富山市から小杉・高岡へと続く道の途中、神通川を渡った。
 
前述通り、この川にはかつて「船橋」が架かっていた。
以下、パンフレットから引用する。

『今から百年余り前まで、神通川は富山の町を大きく蛇行して流れており、
 町は川の南北で分断されていました。
 その町の南北を唯一結んでいたのが神通川の船橋で、
 北陸道の「富山道」のルートにもなっていました。
 神通川船橋は、江戸時代初期の富山町の新たな整備にともない、
 渡舟に代わって設置されたもので、
 いわば、市街地の再開発によって誕生したものです。
 江戸中期以降は六十四槽の舟を繋ぎ、
 長さは約四百三十メートルもあったと伝えられ、
 常設の船橋としては日本一の長さを誇っていました。
 その雄大な規模・景観は、名所図会や浮世絵版画によって全国に喧伝され
 越中を代表する名所になったのです。』

鉄骨製の橋を渡って、富山の町の境に当たる呉羽山を超える際、
こんな地名に出会う。
 
「茶屋町」。
峠道を越えた旅人たちの喉を潤し、英気を養った頃の名残り。
茶屋は既にないが、名前は残った。
かつては道の両側に松並木が続いていたらしい。
 

そして高岡市内へ。
 
写真右手「翔龍」の看板はラーメン屋さん。
典型的な富山ブラックの味付けで、チャーシューメンが抜群に美味い。
個人的にお気に入りの店だ。
…ちなみに、お値段は一杯「800円」。
展覧会の資料に掲載された400年前の物価と比べてみるのも、一興である。

当時、蕎麦は一杯16文(400円)。
天ぷら蕎麦は倍の32文(800円⇒これに相当する)。
おでん一串4文(100円)。
豆腐一丁12文(300円)。
低成長の安定した経済状況とはいえ、
生活費の相場は、決して安くなかったのが分かる。

庶民が勇んで旅に出た、お江戸の旅ブーム。
ちなみに江戸を起点に人気ナンバー1だった伊勢神宮まで、
往復にかかる費用は「5両程度」。 
現在の貨幣価値に換算すると70万円から90万円…なかなか大がかりだ。 
江戸の人たちにとって「旅」は、それ自体が一種のアミューズメント。
各地の名所を巡り、名物を食べて、散財して、
人生の大きな楽しみを得ていた訳だ。
旅こそ生きる醍醐味、なのである。

さて、高岡市内ではこんな看板を数多く見かけた。
 
北陸には「天神(菅原道真)信仰」が根付いているが、
特に富山の呉西地区は盛んである。
家々では、正月に天神様を飾るのが習慣。
長男が生まれると、最初のお正月に母方の実家から
天神様の掛け軸や彫刻をプレゼント。
無病息災や学業成就を祈念するのだ。
店内は天神様がズラリと並んでいる。
 

ところで、高岡以西の小矢部⇒津幡の道のりだが残念ながら写真がない。
高岡市内で時間を使いすぎ、日没サスペンデッドである。
こちらの行程は、またの機会に。
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津幡町の願いと祈り。

2011年10月12日 06時11分27秒 | 日記
「今日の一枚」は、街角のフェンスに結わえられた、謎の「飾り」。
樹脂製の結束バンドに金属のリングを数枚通したそれは、
一体誰が何のために取り付けたのか?
理由は想像するしかないが、
勝手にロマンを盛り込んで妄想するなら…何かの「願掛け」?!
対象は、恋愛か、金運か、それとも仕事か。
いずれにしても手掛けた主の「思い」が詰まった
デコレーションなのかもしれない。

誰しも一度や二度は「願駆け」をした経験があると思うが、
僕にもある。
あれは小学生の頃、遠足の前日。
屋外に設置されたプロパンガスのボンベをつなぐ鎖に、
手製の「てるてる坊主」を引っ掛けた。
少々雲行きの怪しい空を見上げつつ、翌日の晴れを願って。

…今思うと、確かちょうど首の辺りが鎖に掛っていたはず。
見方によっては残酷なシチュエーションである。
しかし、ともかく僕は祈った。
「神様、どうか明日は晴れにして下さい」…と。
願いはやがて祈りになる。
世の「宗教」とは、そうして生まれたのだろう。

さて話題は変わるが、
ゆうべ、ある方のお通夜に列席した。
セレモニーが終わり、親族の代表として故人の長女が、
参列者への謝辞を述べた後、そのマイクを妹さんに渡した。
故人の次女は、プロシンガーである。
『一般的ではないかもしれないけれど…』と断ってから、
祭壇に向かってアカペラを披露。
曲は、日本語訳の「Amazing Grace」。
…いや、メロディはスタンダードで歌詞はオリジナルだったのかもしれない。
亡夫の安らかなる眠りを願い、祈りを込めて歌を捧げた。
やはり、歌は哀しい時こそ真価を発揮する。
素晴らしいパフォーマンスだった。

生の歌声が流れ、拍手が鳴る通夜の席は初体験である。
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