つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

カメラマンとスナイパー。

2021年09月26日 14時35分35秒 | 自然
              
<りくすけ、グラビアカメラマンになる!?>
           
きのう(2021/09/25)の投稿の舞台、
津幡町の「龍ヶ峰城址公園」で一匹のカマキリと出合った。



ハラビロカマキリ(腹広蟷螂)。
日本では本州~九州に生息する肉食昆虫。
名前のとおり、スマートで縦長な「オオカマキリ」と比べ、
腹部の幅が広く、胸にあたるところが短い。
背中の翅に白い紋、前脚基部の黄色い突起が特徴である。
尾に短い産卵管を有していることから「メス」だと思う。

逃げていかないようにと考え、ゆっくり慎重にスマホを近づける。
--- が、反応は意外。
こちらに立ち向かってきた。



スマホを伝って僕の腕に取り付き、身体のあちこちを這い回る。
攻撃にしては、穏やかな行動。
僕は「彼女」に気に入られたのかもしれない。
ならばと、撮影会開催。







「いいね、いいね~💛目線、こっちにチョーダイ」
「カワイイよ~💛ちょっとカマ持ち上げてみようか」
「恥ずかしがらないで、チラッ💛でいいから」
--- などと声は発しなかったが、心の中で褒め千切りつつシャッターを切る。
獰猛そうな顔。
太陽を反射し冷たく光る複眼。
情け容赦なく獲物を狩る太く大きな2つの鎌。
やはり生粋のハンターはカッコいい。
じっくりと観察させてもらった。
         
        
<りくすけ、スナイパーになる!?>
           
代わっては、津幡川に架かる「白鳥橋」でのワンシーン。
いつもの散歩で朝早く通りかかった僕は、ちょっと珍しい並びを発見。



ここはよく鴨が羽を休めているのだが、白鷺(シラサギ)が混ざっている。
あまり目にしない組み合わせだ。
細かく言えば白鷺という分類はなく、ダイサギ、コサギ、チュウサギなど
「白い色をしたサギ類」の総称。
サイズ的にコサギと見当をつけた。
コサギとは言え、鴨と比較すれば十分に大きい。



のっし、のっしと歩を進めると、鴨が川へと避難してゆき、
ついに独り佇み川面を見つめるサギ。



僕は、何とか飛び立つ瞬間を収められないものかと考えた。
首を伸び縮みさせたり、長いくちばしで羽の内側を突いてみたり。
こちらを見たり、対岸で自動車の音がすると気にしてみたり。
だが、なかなか「その時」はこない。
構えたスマホカメラを動かさず、同じ姿勢を維持して、
ひたすらチャンス到来を待った。

「もしかしたら“狙撃手(スナイパー)”は、こんな気分なのかもしれないな」

肩の力を抜いて、指先に集中する。
飛んだのを視認してからでは間に合わないだろう。
カメラの性能もたかが知れている。
標的だけを見続けるのではなく、その周囲を視界に入れ、
何か動きがあると感じたら、確実にシャッターをタップしよう。
そして---。



パシャッ。
およそ15分の持久戦を制し、何とか射止めることができた。
気分は「デューク東郷」である(笑)。
          
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半日で、500年の時を旅する。

2021年09月25日 19時45分45秒 | 旅行
                
わが津幡町と、お隣の富山県・小矢部市をつなぐ旧北陸道は、
「歴史国道(れきしこくどう)」の1つである。

@平安時代末期に「倶利伽羅峠」で源氏と平家の合戦があり、
 角に松明(たいまつ)を付けた牛を放ち、敵を追い落す「火牛の計」が行われた。
@江戸時代に加賀藩の参勤交代道として利用された。
--- などの理由から、歴史的 ・文化的価値を有する道路として認められたらしい。





明治期に幹線道が移行したお陰で開発を免れ、今も往時の風情が残されている。
道に係わる立場によって賛否両論だろうが、
少なくとも、歴史ファンにとって幸運だったと言えるかもしれない。

先日、僕は歴史国道を通り、上掲画像案内看板にある場所、
「龍ヶ峰(りゅうがみね)城跡公園」を訪れた。



秋分を過ぎ、下界は刻々と秋色が濃くなっているが、
ここはまだ夏が残る。
雑木から降り注ぐのは、ツクツクボーシ、アブラゼミ、ミンミンゼミ。
かつて同じ道を鎧武者が駆け上がったのだろうかと想像しつつ、
なかなかの勾配を息を切らして登った。



「お城」と聞くと、立派な天守閣に石垣、水を湛えた堀を思い浮かべるかもしれないが、
「織田信長」登場以前、城郭の大半は山岳部の地形を利用した山城。
日本列島には、3万とも、4万を超えるとも言われる城館跡があり、
多くは14~17世紀に築かれた。
戦国の世は、世界史的に見ても他に類はない「大築城時代」だったのである。

「龍ヶ峰城」の正確な築城年月は不明ながら、
当初は、加賀一向一揆勢の拠点となったことから14世紀末頃には存在していたようだ。
天正元年(1573年)年「上杉謙信(うえすぎ・けんしん)」が攻め落とし、
後に「佐々成政(さっさ・なりまさ)」の属城となり、
最後の主は加賀藩「前田家」が務めた。



位置は標高194m。
最も高い「主郭」と街道との高低差は25m。
南北200m、東西150mの敷地に3段の段郭が配置され、
様々な工夫が盛り込まれている。

城郭の要所にあたり、敢えて狭く造られた「虎口(こぐち)」。
山を削って造成した平坦地「曲輪(くるわ)」。
巨大な包丁で切断しくり抜いたような空堀「堀切(ほりきり)」。
削り取った土で盛り土した防壁「土塁(どるい)」などの遺構は割合に残っていた。



この高みから弓を射かけられたり、石を落とされたりしたら、
下にいる敵はたまったものではないだろう。
「城」という文字は「土から成る」と書く。
確かに、山城を見分すると「土木技術」を結集した戦闘拠点だと納得できる。



街道を挟んで同公園の向かい側の駐車場は「道番人(みちばんにん)屋敷跡」。

加賀藩は、参勤交代の街道を整備、管理をする「道番人」を
1里(4キロ)ごとに2人が配置。
街道の掃除、砂入れ、水落とし、雪割、並木の手入れなどをさせた。
給銀70目(匁/もんめと同義)の月給は、小判1枚、6~7万円程度。
寝起きする居屋敷は50坪。
寮住まいの「道路設備係」といったところか。
現在、上物は失われているが、敷地の形状は当時のまま。
これまた400年前の世界を想像逞しく思い描く。



「龍ヶ峰城跡公園」は平成17年(2005年)に城址公園として整備され、
山頂までの遊歩道や主郭跡には休憩所が設けられている。
あちこち周って半日あまり。
手軽に時空の旅を楽しませてもらった。
                 
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その魔こそ、隣人。

2021年09月23日 13時13分13秒 | 手すさびにて候。
                  
「魔女」と聞くと、こんなイメージを思い浮かべるかもしれない。

黒いとんがり帽を被り、黒いローブを纏ったカギ鼻の老婆。
人里離れた森の奥に独りで暮らし、
黒猫やフクロウ、ヘビなどを「使い魔」として操る。
火にかけた大きな釜をかき回して怪しげな薬を作ったり、
箒(ほうき)や杖に乗って空を飛んだりする。

「魔女像」固定観念形成の源流は、中世後半~近世ヨーロッパ。
「魔女狩り」「魔女裁判」に端を発する印象操作のようだ。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第百八十三弾「或る魔女の肖像」。



英語で魔女を指す「Witch」の語源は、
「Wise Woman(賢い女)」と言われている。

薬草に通じ、鎮痛、炎症止め、出産補助、避妊、堕胎など、
民間療法に秀でた彼女たちを、人々(特に庶民)は頼りにした。
しかし、科学的な思考・知識が乏しく、医療が未発達だった昔。
薬草を調合して病を治す行為は、一種の「魔法」と受け取られ、
やがて「賢い女」は、弾圧の対象になっていった。

その背景には、大きく2つの理由が見え隠れする。

一つは「宗教上のイデオロギー闘争」。

中世半ば、主流派「ローマ・カトリック教会()」の権威が増大するにつれ、
時の為政者と結びつき、土地持ち、金持ち、妻帯の聖職者が現れる。
一方、そんな堕落を批判する動きも興り、対立が生まれた。
体制側は反対勢力を「異端」と称し、取り締まりに乗り出す。
やがて「異端」は、異教の魔法使いと結びついているとされた。
この場合の教会とは、建築物ではなく組織・団体

もう一つは「商売敵」。

当時の修道院は、祈りを捧げる場であると同時に、
庭で栽培したハーブを用いて病を治癒する病院の役割も兼ねていた。
心の安息に加え、身体の不安を取り除くことも布教の大切な要素。
しかし「賢い女」の知識は、聖職者のそれを凌駕することも珍しくなかった。
つまり、彼女たちは邪魔な存在だったのである。

折悪しく、ヨーロッパに空前のパンデミックが発生。
感染すると皮膚に内出血による黒紫の斑点ができる「黒死病」---「ペスト」だ。
正体不明の流行り病は、全人口の3分の1を死に至らしめ、
生き残った人々の心に「魔」を宿す。
大衆は言い知れぬ不安を紛らわすため「生贄」を求めるようになり、
魔女狩り・魔女裁判は熱狂を帯びていった。

口汚い、目つきが悪い、孤独を好み地域に溶け込まないから怪しい。
適齢期を過ぎた独身者、独居老人、心身障がいがある人は疑わしい。
‌ユダヤ人が、魔法を使って黒死病を招き寄せたらしい。
誠にもって馬鹿ゝしい言いがかりの告発を元に、魔女裁判が開かれ、
被疑者は怖ろしい拷問によって自白を強要させられた。

「賢い女」をはじめ、無実の同胞(はらから)が魔女()となり、
ある者は焚刑台で炎に焼かれ、またある者は絞首台にぶら下がった。
人々は、それを見て溜飲を下げたのである。
対象は女性に限らないが、今拙文の流れを鑑み魔女とした

こうした「迫害で秩序を維持する愚かな傾向」は、
自然科学の発達により終わりを告げる。
だが、既に、魔女狩りの歴史は300年に及んでいた。
冤罪によって命を落とした数は、数万を下らないという。

--- さて、魔女狩りは何も近現代以前限定ではない。
1930年代、ナチスの「ホロコースト」、ソ連の「スターリン大粛清」。
1950年代、アメリカの「赤狩り」。
1960~70年代、中国の「文化大革命」。
これら大規模な排他運動も同義に思える。
身近なら「いじめ」「偏見」「差別」も、似た悪しき例だろう。

どうやら、魔は人間と相性がいいらしい。
                 
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津幡短信vol.93 ~ 令和参年 長月。

2021年09月20日 19時10分00秒 | 津幡短信。
              
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回の話題は以下の3本。

【静々と色づく。】

日毎に秋の深まりを感じる今日この頃。
今朝、愛犬のリードを握り歩き始めてまもなく、街路樹の変化に目が留まった。



「住吉公園」前のイチョウ並木が色づいてきた。
最近まで青々と葉を茂らせていたが、もう。
例年より早いのではないだろうか。
しかも、仄かに臭う。
銀杏(ぎんなん)が熟してきたのだ。



黄葉と同じ色の果肉の中できる実は、
アンズ(杏)の実に似た形状で、銀のように白い。
ゆえに「銀杏」と呼ぶそうな。
樹木名「イチョウ」は、大陸名の音感に由来すると聞く。
その漢字表記も「銀杏」。
ややこしいが「銀杏が生る木」として字を充てたらしい。
諸説アリ。

【静々と報恩講。】



街中を歩いていると、遠慮がちな鐘の音が聞こえた。
おやど橋傍の「弘願寺(ぐがんじ)」前には五色の仏旗。
掲示板には「報恩講(ほうおんこう)」とある。

報恩講は「親鸞聖人」の命日に営まれる法要。
誰もが聴聞できる会と記憶している。
浄土真宗の宗祖が他界したのは11月だった気がするが、
秋のお彼岸に合わせた開催なのだろうか。
開催時期は、あまり厳格なものではないのかもしれない。



本堂にも五色が風に棚引く。
しばし足を止め、いつもと異なるカラフルな光景を眺めた。

【静々と秋の例大祭。】



度々の話題になり恐縮だが、
コロナ禍でなければ、昨日(2021/09/19)が津幡中心部の秋祭りだった。
上掲「久世酒造」正面の柱に貼られた赤い紙は、
清水八幡神社・例大祭の告知である。
2年連続で獅子舞の出ないお祭りは少々味気ない。
--- と、思っていたら「白鳥神社」境内で神輿を発見。





本神輿と子供用の小さな神輿。
朱漆を塗った加賀爪・白鳥会の「赤獅子」も鎮座。
来年はこれらが躍動する姿を見たいものだ。

<津幡短信 vol.93>
                   
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潮(しお)と醤(ひしお)の香り。

2021年09月19日 19時19分19秒 | 日記
                
今朝(2021/09/19)、海岸清掃のボランティア活動に出かけた。



午前6時半頃に家を出て、車で片道およそ30分。
清掃会場の金沢市「金石(かないわ)海岸」に到着。
ごみ袋片手に、60分あまり。
ひたすら俯いてゴミを拾い集めた。
標的は、プラスチック、ビニール、金属、ガラスなど自然に帰らないもの。
30リットルの袋をいっぱいにして作業終了。
顔を上げ後ろを振り返ると、日本海の波が砂浜を洗っていた。



沖からの風に乗って、潮の香りが鼻孔をくすぐる。
しばらく海を眺め、不規則に寄せては返す波の動きを観察するうち、
せっかくだから、散策していこうと思い立った。





金沢港に近い金石と隣接する大野(おおの)地区は、古くからの港町。
藩政期には日本海海運を担う北前船が寄港し廻船業が発達した。
また、もう一つ別の産業でも知られる。

【元和年間(一六一五~二四)には前田家から醤油造りを勧められ、
 以来、醤油の醸造が町の主要産業となり、
 「大野醤油」と銘を持ち今に至っています。
 町屋・旧商家・醤油工場や醤油蔵といった歴史的な建物が多く残り、
 今も醤(ひしお)の香り漂う風情あふれるまちなみが、
 この区域の特徴となっています。】

上記【   】内は、当時の面影を色濃く残した保存区域の一角に建つ、
立て看板から抜粋/引用したものである。









日本国内では、千葉・野田/銚子、兵庫・龍野、香川・小豆島が醤油の四大産地。
かつて、金沢・大野は、それらに肩を並べる規模だったという。
江戸時代、人口10万人を誇った金沢は大都市の部類。
大消費地の城下町に支えられ、最盛期には醤油醸造業者60以上を数えた。
現在は18社と少なくなったが、各蔵元が醤油や味噌を醸造。
伝統的な食文化が様変わりする中、
淡麗甘口な「大野うまくち醤油」は奮闘を続けている。



店頭ではためく黄色の幟には「大野醤油ラーメン」の文字。
橋の袂の町中華「大野湊食堂」である。

ここは2008年に公開された映画「しあわせのかおり」のロケ地になった。
「中谷 美紀」演じるキャリアウーマンと、
「藤 竜也」演じる中華料理店の店主との交流を描いた作品である。
小品ゆえにヒットメイクはならなかったが、
制作当時、多少の縁があり何度か撮影現場にお邪魔した。
個人的に、多少の感慨を抱く場所なのだ。
--- もちろん今朝は営業時間前。
残念無念。

醤の香りを思い出し急に空腹を覚えた僕は、
帰り道の途中「吉野家」に立ち寄り遅めの朝飯。
「豚丼大盛」と「味噌汁」をいただいた。


              
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