つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

記憶を刺激する記録 ~ れきしる企画展。

2024年11月07日 15時15分15秒 | これは昭和と言えるだろう。
                         
僕の記憶は総じて「朧気」である。
いい例が「風景」だろう。

わが津幡町は、北陸の片田舎。
変化のスピードは緩やかながら、見慣れた場所でも建物が壊されたり替わったりすると、
以前の様子は曖昧模糊に。
拙ブログタイトルに付随した概要記載『いつか、失われた風景の標となれば本望』とは、
自分自身へ投げかけたメッセージでもある。
その意味で「記録」は大切な記憶装置。
特に、繰り返し観察・考察できる記録---「文章」や「写真」「絵画」は、
脳の奥、海馬に眠っていた過去を呼び覚ましてくれるのだ。



上掲は「津幡中学校」旧校舎の一部。
体育館と教室棟をつなぐ渡り廊下だ。
紅白枠で囲まれた横一文字看板には「祝 津幡町合併十周年」。
2度目の合併により現在の町域が整い10年の節目を迎えた昭和41年(1966年)、
同校で開催された記念式典のスナップである。
思えば少年時代、ここを何度往復したことか。
ある時は笑いながら、ある時は走りながら、ある時は隊列を組んで。
また、剣道部員だった僕は、残存木造校舎・板敷きの武道場へ行き来するため、
毎放課後、竹刀片手に刺子半纏・袴履きで歩いたものだ。





変わっては「昭和のつばたまつり」2枚のスナップ。
どちらも昭和47年(1972年)夏に撮影。

最初は津幡中央銀座商店街。
歩行者天国の告知が手書きなのが時代を感じる。
通りを跨ぐ横断幕に「村田英雄ゴールデンショー」の文字。
演奏会場は「津幡小学校」とある。
また、かつて小学校の体育館では、祭り期間中に他の催しも行われた。
ぐるりと暗幕を張り巡らせた、埃っぽく蒸し暑い空間で、
怪しげなマジックショーや、アマチュアバンドのコンサートなどを観た。

2枚目は小学校前の通り。
狭い道の両脇に、スマートボール、ひよこ売りに、金魚すくいなどの露天商が連なる。
その間を肩触れ合いながら歩くのは、実にワクワクしたものだ。
写真中央に上半身裸の男性が写っている。
「全国選抜社会人相撲選手権大会」の出場力士かもしれないが(詳細不明)、
このスタイルで街中を闊歩するシーンは、今時まずお目にかかれないだろう。

今投稿の画像は『津幡町ふるさと歴史館 れきしる』で12月22日(日)まで開催中の企画展
「写真で見る津幡町の移り変わり」にて展示されているものの極々一部だ。
町に所縁のある方なら忘れていた記憶を手繰るキッカケになるだろう。
そうじゃなくても懐かしい昭和の風景を想い起こす機会になるはず。
都合と時間が許せば、一度足を運んでみてはいかがだろうか。


                        
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電波は時空を超えて。

2024年08月06日 08時45分45秒 | これは昭和と言えるだろう。
                        
津幡ふるさと歴史館「れきしる」に於いて、企画展「あこがれの電化製品」が始まった。



<電化製品は明治時代の末期に登場しましたが、
 高価であったため家庭で使用されるものは少なかったようです。
 家庭への電化製品の普及が一般化した昭和30年頃から
 日常生活の中に深くかかわってきました。
 戦後の高度成長期を象徴する電化製品ですが、
 それまで電灯やラジオなど限られた物しかなかった人々の生活様式は大きく変わり、
 昭和30年代には「三種の神器」(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)があこがれの製品として、
 急速に広まりました。
 昭和40年代になると「3C」(カラーテレビ・クーラー・自動車)が
 あこがれの対象となりました。
 これらの時代の電化製品は高価で月賦で購入する人もいたようですが、
 それ以上に手に入れられる喜びが大きかったのです。
 サラリーマンの平均年収は、昭和25年の12.2万円から経済成長に伴い徐々に上がり、
 昭和35年には30.1万円、昭和46年には101.3万円となり、
 100万円を超えたのです。
 そして、その後も急激に年収が伸び、平成9年の年収は500万円を超えるまでになりました。
 今回の展示では、以前に開催した「なつかしい家電」での展示品に加え、
 時代背景と共に昭和時代を彩る製品から平成時代に至る電化製品を紹介します。>

※<   >内企画展リーフレットより引用、原文ママ
赤文字下線箇所、リンクあり

確かに手元にある印刷物には、電化製品の写真とその時代背景を時系列に沿って記載。
移り変わりの様子が分かりやすく、興味深く鑑賞できる。
物言わぬはずの道具が、雄弁に語りかけてくれるようだ。
企画展の詳細は、是非、れきしるに足を運んでご覧いただきたいと思う。
今投稿では、3つの展示品を取り上げ、個人的な記憶と思い出を書いてみたい。





日本国内に於いて家庭にテレビが普及し始めたのは、昭和30年代。
僕が幼かった頃、生家のテレビは白黒だった。
上掲画像のように木箱に収められ、うやうやしい趣き。
現在の薄い構造のモニターとは違い、奥行きの長いブラウン管である。
やや高い位置に据え置かれ、ずい分目線を上げて見ていた気がするのは、
自身の背丈が低かったからかもしれない。
チャンネルは3つ。
NHK、NHK教育、MRO(北陸放送/TBS系列)だ。
番組の記憶は朧気。
「どろろ」「ゲゲゲの鬼太郎」「オバケのQ太郎」「ウルトラQ」。
人形劇「ひょっこりひょうたん島」といったところが印象に残る。
日本国内に於いてテレビが普及し始めたのは、1959年~1961年にかけて。
設置率9割を超えたのは、昭和40年(1965年)と言われる。
つまり、僕が生まれた頃だ。



生家に於いてテレビのカラー映像が常態になったのはいつだったか?
明確には覚えていないが、1970年代初期だと思う。

導入間もない当時、心に残る旧い映像の1つは「あさま山荘事件」。
昭和47年(1972年)2月、長野県・軽井沢町にある河合楽器保養所に、
連合赤軍が人質をとって立てこもり警察と銃撃戦を繰り広げた。
突入作戦時、NHKと民放各社が犯人連行まで生中継。
全局の視聴率を足すと、89.7%。
ほゞ国中が見ていたと言っていいだろう。
お茶の間のテレビが報道のど真ん中いたのは、今や昔日の感がある。

もう1つ「オリンピック・モントリオール大会」も忘れ難い。
特に女子体操史上初の10点満点には目を奪われた。
ブラウン管の中で力強く跳び、美しく舞う“白い妖精”。
鉄のカーテンに閉ざされた国・ルーマニアのミステリアスな美少女、
「ナディア・コマネチ」に恋をしたのである。



カセットテープレコーダーにラジオチューナー。
アンプとスピーカーを備えたオールインワン音響機器。
ラジオカセットレコーダー、略称「ラジカセ」である。
この決して大きくない機械は、僕に世界への目を開いてくれた。

日本海側は電波の伸びがよくなる夜間を中心に、海外からAM波が届く。
チューナーのダイヤルを回していると、
半島から、大陸から、ソ連極東からの放送を受信できた。
もちろん何を言っているのかはさっぱり分からないが、
しばし耳を傾け、まだ見ぬ異国を思い浮かべるひと時が好きだった。

そして、時折それらが発信する「日本語放送」にもチューンイン。
ちょうどこんな時期の事---『こちらは北京放送・中国国際放送局です』と
アナウンスが聴こえた時はコーフンした。
その番組内容は忘れてしまったが“夏らしい音”を聞かせる一幕はよく覚えている。

ポンッ!(瓶ビールの王冠を抜く音)
トクトクトク、シュワシュワ~(コップに注ぎ泡立つ音)

たっぷりとエコーを利かせて納涼感を演出する様子は実に微笑ましい。
1000km余り彼方ではためく五星紅旗の向う側が透けて見え、
僕たちと変わらない“人の顔”が見えた気がした。



「れきしる」企画展「あこがれの電化製品」は10月6日(日)まで開催。
大正時代の扇風機をはじめ、昭和30年代から40年代のものを中心に、
平成までの新旧様々な電化製品が並んでいる。
お隣では民俗資料展示「夏のくらし」も併催。
機会と時間が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
                           
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暑中見舞い ~ 心象、夏の銀幕。

2024年07月21日 09時09分09秒 | これは昭和と言えるだろう。
                        
暑中お見舞い申し上げます。

大暑の候 拙ブログをご覧の皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
列島各地から梅雨明けの便りが届いています。
ここ北陸も程なく夏本番。
くれぐれも夏バテや熱中症にはお気をつけくださいませ。

猛暑・酷暑の今日(こんにち)。
「無理せずエアコンを使いましょう」が常套句になって久しいですが、
少年時代を思い返すと、冷房装置は高根の花でした。
生家はもちろん、学校、役所などは皆無に近く、交通機関の車内も扇風機が関の山。
そんな中、比較的早くクーラーを導入した場所の1つは「映画館」かもしれません。
そこは眩い光が支配する外界と隔たれた、薄暗い異世界。
冷気に満ちた快適な空間で、肘掛け、背もたれが付いた椅子に身を沈めるひと時は、
とても贅沢な心持ちになったものです。

幼い僕が映画館に連れて行ってもらえる機会は夏休み。
本津幡駅から鈍行列車に揺られ金沢駅へ。
乗り合いバスで香林坊へ。
ようやく複数の劇場が軒を連ねる映画街に到着。
流れる汗も構わず、勇んで「金沢東映」の扉を開けました。
目当ては、夏のオムニバス企画『東映まんがまつり』です。



・巨大ロボの金字塔『マジンガーZ』
・みんなで歌おう♪『ゲゲゲの鬼太郎』
・梶原スポ根の傑作『タイガーマスク』
・お色気変身大活劇『キューティーハニー』
・影負う正義の味方『仮面ライダー』
・マハリクマハリタ『魔法使いサリー』
・テクマクマヤコン『ひみつのアッコちゃん』
・哀愁誘う宇宙猿人『スペクトルマン』
・砂の嵐に守られた『バビル2世』etc---。

組み合わせは年によって変わりましたが、
アニメや特撮ヒーローものを立て続けに4~8本上映。
TV版の再編集あり、劇場オリジナルあり。
いわば玉石混交ながら、それはまったく問題に値しませんでした。

何しろ時は70年代。
家庭にビデオデッキが普及する以前、
放送済み作品を見返すチャンスは、滅多にありません。
それが小さなブラウン管を飛び出し、映画館の大スクリーンに甦る。
しかも、まとめて一度に観賞できる。
僕にとって『まんがまつり』は“夢のオールスター戦”だったと言えるでしょう。

--- そして、それは懐かしい過去の夢。
もう僕は少年ではなく、もう昭和ではありません。
金沢中心部の映画街は取り壊され、跡形もありません。
生々流転。
瓶コーラ片手に感じたあの興奮、あの歓びは、
遠い夏の日の陽炎のようなものですね。

今年の夏はこれから。
自分自身、年齢を重ねるにつれ暑熱が身体に堪えるようになりました。
「慎重」を旨に乗り切ろうと考えております。
どうかお元気で。
では、また。

令和六年 大暑
りくすけ
                           
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令和の新関脇と、昭和の名古屋場所。

2024年07月18日 09時33分33秒 | これは昭和と言えるだろう。
                           
この投稿の少し以前(2024/07/07)の事になるが、
わが津幡町で、新関脇「大の里」の祝賀パレードが行われた。
大の里は今年5月の夏場所で幕下付け出しとしては歴代最速となる所要7場所で初優勝。
津幡町発表によれば、沿道には2万人以上が詰めかけたという。
僕も観衆の1人となった。





パレードは、当日午後4時半ごろスタート。
コースは、津幡町文化会館シグナスと町役場を結ぶ1キロ未満。
オープンカーには、主役と「二所ノ関親方」が乗り込み、
激励と応援の声、拍手に手を振り応えていた。
ここは少年時代の彼が何度も行き来した道。
きっと懐かしい顔も少なくなかったはず。
感慨を抱いたであろうことは想像に難くない。

喜びに包まれたひと時から10日余り、新関脇は苦しんでいる。
4日目を終え1勝3敗と、落胆の色(黒星先行)は明らかだ。
僕は専門家ではないが--- 腰高で動きがちぐはぐな印象。
身体の末端まで力が伝わり切らず、持ち前の馬力を活かせていないように見える。
試練の只中、暗中模索を越えた先に待つ光を掴んで欲しい。

--- さて、名古屋場所の会場となっている「愛知県体育館」は、今開催がラスト。
昭和39年(1964年)10月に開館したそこでの最初の優勝力士は横綱「大鵬」。
地元・愛知県蒲郡市出身の横綱「玉の海」の最後の優勝。
「千代の富士」と「北勝海」、同部屋横綱同士の相星優勝決定戦など、
数々の激闘が繰り広げられてきた。

上述の九重部屋全盛期、大学生の僕は名古屋の盛り場・錦三丁目でアルバイトをしていた。
当時はバブルが頂点を極める直前。
クラブ、ラウンジ、スナック、料亭などがひしめく歓楽街には、
訳の分からない金(マネー)が溢れ、連日押すな押すなのお祭り騒ぎ。
そこの夏の風物詩は、お相撲さんである。
名古屋場所開幕の少し前から、びんつけ油の匂いを纏う着流し姿の巨漢たちが、
チャリチャリと雪駄の音を立てながら闊歩した。
バイト先でも関取衆が豪遊。
勿論、彼らは財布は持たず『ごっちゃんです』の一言がお代替わり。
6桁の数字が並ぶ請求書はタニマチが引き取った。

ある日の夕方、店で掃除をしているとブラウン管に本場所の取り組みが映る。
赤房下で懸賞の束を鷲掴みしているのは、
10時間前にヘネシー3本を呑み干して帰った力士。
愛知県体育館内は、大歓声が木霊していた。
『こりゃあ、今夜も来るかもな』
カウンターの中でグラスを磨いていたバーテンが、
ため息交じりにそう呟き、酒屋に追加注文を入れた。



『あそこも随分と様変わりしているだろうな』

大の里の後ろ姿を見送りながら、僕は40年前の錦三(きんさん)を思い出していた。
                                 
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小品、ボクシング。

2024年03月10日 18時59分59秒 | これは昭和と言えるだろう。
                         
(2024年)3月も10日になるというのに、北陸の最高気温は一桁止まり。
まだ真冬の装いだ。



上掲画像は、前回投稿で書いた「中能登町」へ通う際に通る道、
石川県・七尾市~金沢市を結ぶ「国道159号線」で撮影。
羽咋市(はくいし)辺りのスナップである。
積雪こそ少ないものの、霙(みぞれ)交じりの氷雨や、
霰(あられ)が降ることも珍しくない。
慎重にハンドル握りつつ運転する道すがら、
「その看板」に気付いたのは1ヶ月ほど前の事だった。





いわゆる“キリスト看板”の下、
色褪せたサインボードには「角海老ボクシングジム」の文字。
上部、白抜きなってしまったところには、
左右にボクシンググローブ、中央にチャンピオンベルトが描かれていたと推測。
看板の最下部には、ジムの住所や連絡先が配されていたと考えられるが、
文字も絵柄も消えてしまっている。

この看板が掲げられたであろう当時、僕は大のボクシングファンだった。
観戦した拳の交錯の中で一番のヒーローは、
WBA世界ジュニアフライ級王者「具志堅用高」氏だ。
(※所属は「角海老」ではなく「協栄」)
バラエティ番組の影響で“オモシロいオジサン”の印象が強いかもしれないが、
実に凄い方なのである。
昭和51年(1976年)にベルトを巻き、
僅か5年の間に14度のハイペースでタイトル戦を重ね13度連続の防衛。
これは2024年現在も日本人男子最高記録に君臨している。



闘志を前面に出し、打つ手を止めないファイティングスピリッツ。
高いテクニックを駆使したボクサーファイター。
その闘いは多くのボクシング・ファンを魅了した。
僕も間違いなくその1人である。

--- さて、今投稿の題材としたボクシングジムは、東京都・豊島区に実在。
昭和52年(1977年)創設以降、
4人の世界チャンピオンと、多数の日本~東洋太平洋チャンピオンを輩出。
帝拳、ワタナベ、大橋、三迫、協栄らと肩を並べる業界大手だ。

まったくの余談ながら、僕はかつて人生の一時期、ボクサーだった。
その頃、一度だけスパーリングの為「角海老」を訪れたことがある。
もう40年ほど前、遠い遠いムカシ昭和のハナシ。
古びた看板を見て、オジサンはつい思い出してしまったのだ。
                           
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