つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

花も花なれ 人も人なれ。

2024年09月28日 20時00分00秒 | 手すさびにて候。
                              
2024年、米テレビ界最高峰とされる「エミー賞」に於いて、
ドラマ『SHOGUN 将軍』が18部門を受賞と話題になっている。

主演/プロデューサーは「真田広之」氏。
日本人役には日本人、または日本にルーツを持つ役者を起用。
日本から時代物に精通したスタッフを招聘。
劇中7割が日本語の台詞で進行。
時代考証を重んじ、衣装・美術を細部まで作り込んだ
アメリカ的サムライ像とは一線を画す“ハリウッド版 戦国エンターテイメント”だ。

物語の舞台は、関ヶ原前夜。
英国人航海士「ウィリアム・アダムス(三浦按針)」、
「徳川家康」「石田三成」「豊臣秀吉」など歴史上の人物を元ネタにしたキャストが登場。
今投稿ではそれらの中から、ストーリーの核となる女性を取り上げてみたい。
ドラマでは「按針」の通訳を務める主演女優のモデルである。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百四十弾「細川ガラシャ」。



一般に知られる「ガラシャ」はクリスチャンネーム。
また「細川」は嫁ぎ先の姓である。
本名は「明智たま(※今投稿は「珠」で統一)」。
永禄6年(1563年)「明智光秀」の三女として生を享けた。
名前の通り珠のように美しく知的な才色兼備だったという。

彼女が細川家当主長男に輿入れしたのは16歳の時。
媒酌人は“魔王”「織田信長」。
明智と細川は、共に織田に仕える同僚だった。
子宝にも恵まれ、夫婦仲も円満。
結びつきは政略結婚だったが、幸せな時間を過ごしていたと推察。

--- しかし、あの大事件を境に「珠」の運命はあらぬ方へ転がり始めるのだった。

天正10年(1582年)初夏、京都本能寺に火の手が上がる。
天下布武完遂目前にして信長は憤死。
弓を引いたのは、ご存じ珠の父・光秀。
彼女の立場は政権中枢の身内から一転、クーデター首謀者の娘に堕ちた。

当の光秀は信長の息子を討ち、安土城を占拠し、畿内対抗勢力の拠点を制圧。
朝廷や有力寺社に銀子を贈り、自身の行動を容認させるなど、
数日のうちに天下平定の足場固めを進める。
順調に推移しているかに見えたが、2つの誤算が生じた。

まず「懐柔失敗」。
娘婿の盟友・細川が、支援要請に首を縦に振らず「大殿の喪に服す」として頭を丸め、謹慎。
居城から離れた山中に正室を幽閉し、中立の姿勢を取った。
更に「中国大返し」。
現在の岡山県で戦いの最中にあった「羽柴(豊臣)秀吉」が、
主君の仇を討つべく、京都までの230キロを10日間あまりで走破。
充分な体制を整えられないまま、突然現れた大軍団と戦うことになった光秀は、敗北。
世に言う「三日天下」に終わるのである。

こうして時局はスピードを上げて流れていったが、珠の時は止まったまま。
丸2年に及ぶ物寂しい暮らしの中で複雑な思いが募った。
謀反人の血を分けた者としての孤立感。
父を見捨てた細川家への不信感。
側室を迎えた夫に対する憤りに似た嫉妬。
--- おそらく聡明な彼女は理解していただろう。
どれも乱世が招いた悪戯であり、仕方のない面はあるのだと。
でも、人はロジックだけで割り切れない厄介な生きもの。
不協和音が生じた心の拠り所になったのは「イエス・キリスト」が遺した言葉だった。

少しハナシは横道に逸れるが---
当時、キリスト教は思っている以上に普及していた。
本能寺の変が起った頃、信徒の数は15万余との説がある。
全人口10%に迫るまで共感を呼んだ理由は様々だろうが“来世救済”の教義は無視できない。
戦災・落命・飢餓と隣り合わせの戦国時代。
厳しい現世を生きる人々は、ハライソ(天国)での幸福にすがった。

ちょうどヨーロッパは「大航海時代」。
宗教改革により版図を広げる新興・プロテスタント対策として、
カソリックは信徒拡大の道を遥か東方に求める。
宣教師たちは、スペイン、ポルトガルの帆船に乗り布教の旅に出発。
ゴア(インド)~マラッカ(マレー)~マカオ(華南)~そして日本。
イエズス会の「フランシスコ・ザビエル」薩摩上陸を端緒に、
九州を拠点として中国・近畿地方などで活動した。
ちなみに織田信長は、布教を許可。
強大な仏教勢力を削ぐため、南蛮貿易がもたらす西洋の知識・技術などが目的と考えられる。
続く秀吉もソロバンを弾き、保護政策を受け継ぐ。

やがて自ら洗礼を受けるキリシタン大名(武将)も現れた。
代表的な1人が、摂津高槻城主「高山右近(たかやま・うこん)」。
彼は、夫と近しい関係にあり、その話を聞くうち関心を抱くようになったとか。
天正12年(1584年)、秀吉の計らいで幽閉を解かれた珠は、
洗礼名「ガラシャ(意:神の恩寵/※これ以降は「ガラシャ」で統一)」を授かる。

ようやく魂の平穏を得たと安堵した矢先、またも歴史は彼女の意に反して動く。
九州統一を目論む薩摩・島津氏を屈服させた秀吉が、
帰途の途中に立ち寄った博多で、突如「伴天連(宣教師)追放」を発令したのだ。

・ポルトガル商人による日本人奴隷(数万人規模)の海外交易。
・キリシタン大名が布教のため領地の一部を寄進。
・改宗強要と力による仏教排斥。
・伝え聞くアジア各地の植民地化。
伴天連追放令は、これらの事態を憂いた掌返し。
但し、禁教令ではなく、鎖国宣言とも違う。
急激な拡大のスピードを鈍らせ、精神の西欧化に“一定の歯止め”をかけたのだと思う。
とは言え、国内教徒への風当たりは強くなる。
細川家に於いても同様だった。
豊臣の信頼失墜を恐れ、激しく棄教を迫る夫。
一時は本気で離縁を考えるほどの誹りに耐え、愛を以て頑なに信仰を貫く妻。
軍配はどちらに上がったのか---?
屋敷内に祈祷室(礼拝堂)が建築されたことを見れば明らかである。

お家騒動に勝利を収めたガラシャ。
だがここで歴史は3度目の裏切りを仕掛ける。
最初は、本能寺の変。
次は、伴天連追放令。
今度は“天下分け目の大合戦”が間近に迫っていた。

慶長3年(1598年)夏、天下人・秀吉が死去。
「徳川家康」と「石田三成」の権力をめぐる鍔迫り合いは、武力衝突に発展。
家康は不穏な動きを見せる会津・上杉征伐に出陣。
細川家はこれに付き随った。
すかさず三成が動く。
大坂に居住する家康側武将の妻子を人質に取る計画。
真っ先に細川邸を取り囲んだ。
逃走も恭順も拒んだガラシャは最期を悟り、死出の供を願う侍女たちを退去させ、
夫が建てた礼拝堂に籠り祈りを捧げた後、跪き、濡羽色した髪から美しい頸をあらわに。

白刃一閃。

血飛沫をあげ横たわる亡骸は絹物で包まれ、火薬の畝で囲まれた。
介錯をした家臣らは別室に移り、切腹。
家中に撒き散らした火薬に火が付き、轟音と共に全てが灰燼に帰した。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

享年38。
辞世の歌を遺し、彼女は神に召された。
                          
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9・21 - 悲喜交々。

2024年09月21日 20時33分33秒 | 日記
                     
「悲喜交々(ひきこもごも)」とは、この事である。

本日(2024/09/21)、わが津幡町出身の関脇「大の里」が、
大相撲・秋場所14日目で2度目の幕内最高優勝を決めた。



結びの一番--- 対戦相手は大関「豊昇龍」。
過去、土俵で顔を合わせた3度の対戦は全て敗れていた“天敵”に、
一旦は“待った”を誘発する仕切りで揺さぶられたが、
迷わず双手で突いて出て、一気に土俵の外へ押し出し白星。
これで、場所後の大関昇進を確実にしたと断言していい。



初土俵から所要9場所での昇進は、昭和以降では最速。
出世の早さに髪の伸びが追いつかず、大銀杏(おおいちょう)を結えない、
前代未聞の“ちょんまげ大関”の誕生に拍手を送った。

---しかし--- 。

歓喜の瞬間を伝えるモニターには、厳しく悲しい現実も映し出されていた。



南から流れ込んだ温かく湿った空気が北からの風とぶつかり、
日本列島にかかる秋雨前線の付近で積乱雲が発達。
能登半島地震で大きな被害を受けた奥能登に局地的で猛烈な大雨を降らせた。
午後4時までの24時間降水量は、観測史上最大。
河川の氾濫や土砂崩れが相次いだ。
現段階で死者は珠洲市で1人、行方不明者は輪島市・珠洲市・能登町で各1人の計3人。
重傷者は2人にのぼっている。
輪島市では、復旧工事に携わっていた作業員4人と連絡が取れない状態になっているという。



僕は、金沢と能登を結ぶ幹線道「のと里山街道」近くで仕事に従事していたが、
午前から夕方にかけ、ひっきりなしに緊急車両のサイレンが聞こえた。
帰り道ですれ違った消防車・救急車には「福井県」の文字。
隣県から応援を請わねばならないほど切迫した状況なのかと愕然としたのである。

気象庁は、今後の天気について大気が不安定な状況が続き、
石川県のほか、新潟・山形など東北や北陸で
警報級の大雨となる可能性があるとしている。
どうか、ご無事で。
                                
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令和六年の獅子が舞う。

2024年09月15日 11時33分22秒 | 日記
                       
令和二年(2020年)と令和三年(2021年)は、コロナ禍によって。
昨・令和五年(2023年)は、津幡町の豪雨災害の影響によって。
近年は図らずも「自粛」が重なった秋季大祭だが、今年は無事催行。
昨夕(2024/09/14)から、大きな獅子が町内を練り歩いている。





加賀の獅子舞は、獅子の胴が長い。
「カヤ(蚊帳)」と呼ばれる布で構成されるそれは巨大で、
内部には布を張る「胴竹」が通常3本ほど渡され、10数名が支える。
また、更にカヤの周囲を数名が引っ張りながら波打たせ勇壮な動きを演出。

この胴長の獅子に相対する演者が刀や薙刀などの武器を手にして獅子退治。
「獅子殺し」は霊獣である獅子そのものを滅するのではなく、
獅子に宿った災厄を祓い落すことが目的。
一旦は演者の前にひれ伏すが、また復活して次へと移動。
これを繰り返しながら家々を周るのである。





獅子を退治する芸態で用いられる技は、武術の伝承者が考案し伝授したもの。
明治時代以降「旧弊」とされた武術は衰退していったが、
その遺伝子は、祭礼の中で生き残った--- と考えられるかもしれない。

個人的には「カポエイラ」との類似性を感じる。
格闘技ファンならご存じの通り、
カポエイラの原型は、16世頃、南米ブラジルで誕生した護身術。
ポルトガルの支配下で奴隷となっていた人々が、
音楽に合わせて踊っているように見せかけながら蹴り技・突き技を磨いた。
現在は武術として、またダンスとして受け継がれている。

--- 獅子舞の技(棒振り)も、元になった武術とは別の次元ながら、
系譜は今に続いているのだ。



津幡四町、中央の清水・能登口の庄・越中口の津幡・加賀口の加賀爪。
それぞれの拠点を周った獅子は、
今夕(2024/09/15 18:30頃~)町中心部の「四ツ角交差点」にて競演。
囃子方~獅子舞~棒振りが技を披露し合い、
最後に獅子がぶつかり合うと、祭りは最高潮を迎える。
時間と都合が許せば、晩夏の風物詩を観に出かけてみてはいかがだろうか?!


                         
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牛に惹かれて河合谷参り。

2024年09月11日 23時23分23秒 | 日記
                                 
前回投稿では、わが津幡町の最北部に位置する地区「河合谷(かわいだに)」の風景を紹介した。
木窪川(きのくぼがわ)と瓜生川(うりゅうがわ)。
二本の川が合流する地点を「河合」といい、地名になったと伝わる河合谷は、
標高400~500mの山々が連なり森に守られたような地形。

間近に熊や鹿、猪などの野生獣が生息する山懐は、
薪・炭などの燃料源となり、山菜や果実といった食糧採集の場所にもなる。
危険と恩恵が共存するそこは、俗な街中からすれば別天地。
長年、人と山が深く関わり合いながら暮らし、
古くから伝わる文化・伝統を継承してきたと推測する。
同地区、河合谷ふれあいセンター内の「祭事の館」で、その一端が窺えた。













展示ホールには、河合谷の各集落で受け継がれてきた祭具、
獅子頭、神輿(みこし)、面、雅楽の楽器などが並ぶ。
河合谷は、昭和29年(1954年)津幡町に編入する以前は「羽咋郡 河合谷村」。
更に以前は、大田村、下河合村、上河合村、牛首村、瓜生村に分かれていた。
獅子舞にもそれぞれに流派があり独立して伝承されてきたが、
取り分け異彩を放つのは上河合地区の「牛舞坊(うっしゃいぼう)」である。



12世紀、源氏と平氏が武家の覇権を争った内戦のさ中、
現在の石川県・津幡町と富山県・小矢部市を分ける倶利伽羅峠で合戦が勃発。
そこで、源氏方が採用したとされる奇策が「火牛の計(かぎゅうのけい)」。
角に燃え盛る松明を括り付けた牛を敵陣に突撃させ、
大混乱を演出し勝利を収めたという。
作戦遂行の為、上河合からも大切な牛が問答無用で徴収された。
勿論---“特攻兵器”として使い捨てられた牛が帰ってくるはずもない。
古くは、牛を神仏・神仏の使いと崇める風習があった農民たちは悲嘆に暮れ、
冥福を祈り仏僧に供養を頼んだ。
その際、僧と農民が一緒に、藁(わら)で形作った牛を引きながら舞ったのが、
「牛舞坊」の始まりと伝えられる。
やがて、牛の頭には、穀物をふるい分けるザルのような農具「箕(み)」を、
胴体には獅子舞用の蚊帳を用いるようになった。



素朴で哀愁漂う「牛舞坊」の舞いは、鎮魂と平和祈念のダンス。
是非、目の前で鑑賞してみたいと思うのだが、現在は叶わない。
人口減、少子高齢化により催行されていないのだとか。
それは、何とも寂しいハナシなのである。
                               
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夏と秋 季節が融け合う 河合谷。

2024年09月08日 09時00分00秒 | 自然
                         
日本の国土を地形別に分けてみると、山地と丘陵地を合わせおよそ7割。
標高500m以上の地域が国土全体の4分の1を占める。
また、国土のおよそ3分の2が森林。
世界の森林率(国土面積に占める森林面積)の平均は30%程度だから、
日本は“山と森の国”と捉えていいかもしれない。



わが津幡町の最北部に位置する「河合谷(かわいだに)」は、その典型の1つ。
車でわずか30分余り。
面積の8割を森林が占める山村地域には、街中とは趣の違う世界が広がる。
一般社会から隔絶した異界としての高山という訳ではないが、
山と森に守られたような地形と景観は、やはり独特の雰囲気を有しているのだ。





そんな河合谷は、実りの季節を迎えようとしている。
日中の暑熱はまだ高いが、風が孕む湿度は左程でもない。
棚田の四方をぐるりと囲む山から降り注ぐ蝉の声。
首を垂れ黄金色に染まる稲穂の上空はアキアカネの群舞。
去りゆく夏。
忍び寄る秋。
2つの季節が融け合って醸し出す空気は、今だけのものである。



そして、民家の周囲に植えた栗の木から大地に落ちた毬栗が、時節を教えてくれる。
栗の雌花にあるトゲの部分---- 総苞(そうほう)には、
やがて種となる子房が、通常3つずつ入っている。
受精すると総苞はイガに、子房が栗となり、
イガの中に3個の種を抱えた「三つ栗」が出来るのだ。



秋晴の ひかりとなりて 楽しくも 実りに入らむ 栗も胡桃も

明治15年(1882年)山形県に生まれた歌人、「斎藤茂吉(さいとう・もきち)」の歌だ。
晴れ渡った空から降り注ぐ光の質感や、おそらく漂う風の具合により秋の訪れを実感。
そろそろ実りの季節をむかえる頃を題材に詠んだと思われる。
「楽しくも」 「栗も」 「胡桃も」 と並べた言葉遣いはリズミカルで調子がいい。
同類の事柄を並列・列挙する意、驚き・感動の意を表し明るく屈託のない印象。
しかし、歌の背景には「敗戦」があった。

作歌時期は、終戦の日から間もない昭和20年8月のある日。
「秋晴の ひかりとなりて 楽しくも」は、
打ちひしがれたとはいえ戦争終結後の未来に対する希望を。
「実りに入らむ 栗も胡桃も」は、
重い現実を乗り越え、やり直し、再び実を結ぶ決意を。
一足早く秋めく東北の山間に佇み、作者はそんな感慨を抱いたと推測する。
                      
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