つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

牛に惹かれて河合谷参り。

2024年09月11日 23時23分23秒 | 日記
                                 
前回投稿では、わが津幡町の最北部に位置する地区「河合谷(かわいだに)」の風景を紹介した。
木窪川(きのくぼがわ)と瓜生川(うりゅうがわ)。
二本の川が合流する地点を「河合」といい、地名になったと伝わる河合谷は、
標高400~500mの山々が連なり森に守られたような地形。

間近に熊や鹿、猪などの野生獣が生息する山懐は、
薪・炭などの燃料源となり、山菜や果実といった食糧採集の場所にもなる。
危険と恩恵が共存するそこは、俗な街中からすれば別天地。
長年、人と山が深く関わり合いながら暮らし、
古くから伝わる文化・伝統を継承してきたと推測する。
同地区、河合谷ふれあいセンター内の「祭事の館」で、その一端が窺えた。













展示ホールには、河合谷の各集落で受け継がれてきた祭具、
獅子頭、神輿(みこし)、面、雅楽の楽器などが並ぶ。
河合谷は、昭和29年(1954年)津幡町に編入する以前は「羽咋郡 河合谷村」。
更に以前は、大田村、下河合村、上河合村、牛首村、瓜生村に分かれていた。
獅子舞にもそれぞれに流派があり独立して伝承されてきたが、
取り分け異彩を放つのは上河合地区の「牛舞坊(うっしゃいぼう)」である。



12世紀、源氏と平氏が武家の覇権を争った内戦のさ中、
現在の石川県・津幡町と富山県・小矢部市を分ける倶利伽羅峠で合戦が勃発。
そこで、源氏方が採用したとされる奇策が「火牛の計(かぎゅうのけい)」。
角に燃え盛る松明を括り付けた牛を敵陣に突撃させ、
大混乱を演出し勝利を収めたという。
作戦遂行の為、上河合からも大切な牛が問答無用で徴収された。
勿論---“特攻兵器”として使い捨てられた牛が帰ってくるはずもない。
古くは、牛を神仏・神仏の使いと崇める風習があった農民たちは悲嘆に暮れ、
冥福を祈り仏僧に供養を頼んだ。
その際、僧と農民が一緒に、藁(わら)で形作った牛を引きながら舞ったのが、
「牛舞坊」の始まりと伝えられる。
やがて、牛の頭には、穀物をふるい分けるザルのような農具「箕(み)」を、
胴体には獅子舞用の蚊帳を用いるようになった。



素朴で哀愁漂う「牛舞坊」の舞いは、鎮魂と平和祈念のダンス。
是非、目の前で鑑賞してみたいと思うのだが、現在は叶わない。
人口減、少子高齢化により催行されていないのだとか。
それは、何とも寂しいハナシなのである。
                               
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夏と秋 季節が融け合う 河合谷。

2024年09月08日 09時00分00秒 | 自然
                         
日本の国土を地形別に分けてみると、山地と丘陵地を合わせおよそ7割。
標高500m以上の地域が国土全体の4分の1を占める。
また、国土のおよそ3分の2が森林。
世界の森林率(国土面積に占める森林面積)の平均は30%程度だから、
日本は“山と森の国”と捉えていいかもしれない。



わが津幡町の最北部に位置する「河合谷(かわいだに)」は、その典型の1つ。
車でわずか30分余り。
面積の8割を森林が占める山村地域には、街中とは趣の違う世界が広がる。
一般社会から隔絶した異界としての高山という訳ではないが、
山と森に守られたような地形と景観は、やはり独特の雰囲気を有しているのだ。





そんな河合谷は、実りの季節を迎えようとしている。
日中の暑熱はまだ高いが、風が孕む湿度は左程でもない。
棚田の四方をぐるりと囲む山から降り注ぐ蝉の声。
首を垂れ黄金色に染まる稲穂の上空はアキアカネの群舞。
去りゆく夏。
忍び寄る秋。
2つの季節が融け合って醸し出す空気は、今だけのものである。



そして、民家の周囲に植えた栗の木から大地に落ちた毬栗が、時節を教えてくれる。
栗の雌花にあるトゲの部分---- 総苞(そうほう)には、
やがて種となる子房が、通常3つずつ入っている。
受精すると総苞はイガに、子房が栗となり、
イガの中に3個の種を抱えた「三つ栗」が出来るのだ。



秋晴の ひかりとなりて 楽しくも 実りに入らむ 栗も胡桃も

明治15年(1882年)山形県に生まれた歌人、「斎藤茂吉(さいとう・もきち)」の歌だ。
晴れ渡った空から降り注ぐ光の質感や、おそらく漂う風の具合により秋の訪れを実感。
そろそろ実りの季節をむかえる頃を題材に詠んだと思われる。
「楽しくも」 「栗も」 「胡桃も」 と並べた言葉遣いはリズミカルで調子がいい。
同類の事柄を並列・列挙する意、驚き・感動の意を表し明るく屈託のない印象。
しかし、歌の背景には「敗戦」があった。

作歌時期は、終戦の日から間もない昭和20年8月のある日。
「秋晴の ひかりとなりて 楽しくも」は、
打ちひしがれたとはいえ戦争終結後の未来に対する希望を。
「実りに入らむ 栗も胡桃も」は、
重い現実を乗り越え、やり直し、再び実を結ぶ決意を。
一足早く秋めく東北の山間に佇み、作者はそんな感慨を抱いたと推測する。
                      
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巴里は微睡みの中に。

2024年08月31日 20時40分40秒 | 手すさびにて候。
                     
もうすぐ8月が過ぎ去ろうとしている。
今夏は、よくオリンピックをオンタイムで観戦した。
それは、ある意味「ケガの功名」と言える。

フランス・パリで大会が開幕した頃、僕は腰を痛めてしまった。
体を横たえる時、寝た状態から体を起こそうとする時、
激しい痛みに耐えなければならない。
特に辛いのは後者。
うめき声を漏らしつつ四つん這いになり、脂汗を拭いながら辺りの何かしらに掴まり、
2本の足で立ち上がり大きな溜息を突くまで2分間。
毎回なかなかの大仕事。
こうなると寝床に入るのが億劫になり、
一人掛けのソファに身を沈め、目を閉じ、浅い眠りに就くのが常態となる。

幸いと言うべきだろう。
7時間の時差のお陰で、オリンピックが夜通し生中継。
うつらうつらしながら、時折TVに目を遣りつつ過ごした。
各競技の熱戦の合間、表彰式で目に留まったのがメダルと一緒に手渡された「細長い箱」。
中に収められているのは(既に報道などでご存じの通り)、
エッフェル塔・凱旋門・セーヌ川などが描かれた今大会の「アイコニック・ポスター」である。

--- パリにおけるアートポスターの歴史は古く、始まりは今から150年程前。
カラーリトグラフ(多色刷り石版画)の技術が確立し、
街角に現れた華やかなポスターは、消費行動を促すメディアとして定着。
更に、広告媒体の枠を超え、誰もが鑑賞できる芸術作品として親しまれ、
有名なポスター作家たちが登場する。
例えば「シェレ」、「ロートレック」、「カサンドル」、「サヴィニャック」。

そして「アルフォンス・ミュシャ」だ。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十九弾「極東の美しきハードラー(ミュシャ風)」。



近代オリンピック第1回大会が開催された19世紀末から20世紀初頭かけ、
ヨーロッパは繁栄の時を迎えていた。
発達した資本主義の下で生活水準が向上し、大衆文化が開花。
学校教育の普及、女性の社会的進出も始まる。
フランスの首都・パリは、放射線状に大通りが広がる明るくて開放的な街に変貌。
エッフェル塔も建造され、現在の姿が完成した。

そこで起こった文化運動「アール・ヌーボー(Art Nouveau)」は産業革命へのアンチテーゼ。
身の回りに溢れ始めた安価な大量生産品を批判し、
建築、家具、食器などの工芸、グラフィックデザイン、
ハンドメイドの生活アイテムを美術に負けないアートへ高める“新しい芸術”というわけだ。
花や草木といった有機的なモチーフや曲線の装飾、
木や石と鉄やガラス、新旧の素材を組み合わせた造形が特徴である。

前述した「アルフォンス・ミュシャ」は、
グラフィックに於いて、アール・ヌーボーを代表するアーティストの1人。
温もりや香りまで伝わってきそうな多彩な色使い。
繊細なタッチと曲線を多用したデザイン。
日本の浮世絵を参考にした構図。
モチーフの寓意に込めた古典の知識 等々。
絵画技法や図像学を貪欲に吸収して、
多種多様な要素を盛り込んだスタイルは、実に奥深い。

演劇、鉄道やタバコ、酒など様々な広告ポスター。
挿絵、パリ万博パビリオンの壁画や内装。
「ミュシャ」の元に舞い込む依頼は引きも切らず、稀代の売れっ子に。
創作の時代基盤であるアール・ヌーボーも一世を風靡した。
1914年、第一次世界大戦が勃発するまでは。

諸行無常、盛者必衰は世の倣い。
膨大な血が流れ、硝煙に包まれるうち、社会も経済も人心も変化。
アール・ヌーボーは退廃的と烙印を押され、衰退してゆく。

こうしてブームは過ぎ去ったが、作品は後世に遺る。

そもそもアール ・ヌーボーは“手仕事への回帰”を訴える運動ながら、
「ミュシャ」の歩みは、一足先を行っていた。
機械生産と結び付くことで広まったアートポスターにより、
近代デザインの扉を開いたのである。

--- さて、冒頭で書いた通り、僕は訳あって今オリンピックを観続けた。
微睡みの中でも、幾つか印象に残るシーンはある。
1つに絞るとすれば、
女子100mハードル日本代表「田中佑美(たなか・ゆみ)」さんを挙げたい。
戦績は準決勝止まりも、チャーミングな笑顔、鍛え上げた美しい肢体、
共に忘れ難く筆を執った次第。
彼女は、僕にとってパリのヒロインだ。
巨匠「ミュシャ」の足元にも及ばない今拙作は、
りくすけ的「パリ2024 アイコニック・ポスター」のようなもの。
そう捉えてもらえたら誠にもって幸いなのである。

< 後 記 >

2024年8月31日現在、偏西風に乗れず列島上陸後も迷走を続ける「台風10号」。
各地で影響が長引いている。
拙ブログをご覧の皆さまの周辺はいかがだろうか?大事はないだろうか?
石川県内は、午前中一部で強い雨が降った。
台風10号は、和歌山県沖を東南東に進み、進路を北に変え、
9月2日には熱帯低気圧に変わる見込み。
温かく湿った空気が入り込む今後、
土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水などに警戒が必要である。
どうか、ご無事で。
                      
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続・湖国小旅行 2024夏。

2024年08月25日 20時46分46秒 | 旅行
                        
前回投稿の続篇。
びわこ競艇場で4つのレースへの投票を終えた僕は、
結果を待たず次なる訪問地へ向けハンドルを切った。
大津市街中心部から車で20~30分の地点にある「坂本」は、比叡山延暦寺の門前町。
昨年は戦国期の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた石垣(LINK)を見に出かけたが、
今年の目当ては「比叡山鉄道 坂本ケーブル」である。





門前町の坂本と延暦寺を結ぶ比叡山坂本ケーブルの歴史は古い。
開業は昭和2年(1927年)。
その少し前、大正14年(1925年)に完成したのが、前掲の駅舎だ。
往時の姿を留める洋風木造二階建の建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
雑木林に囲まれ、蝉時雨に包まれた駅舎外観には、風格が漂う。
内装も木造のベンチが置かれ、乳白色ガラスの照明など雰囲気があったのだが、
他のお客さんも多く撮影を遠慮した。







京阪グループ比叡山鉄道によって運営されているケーブルカーは、全長2,025m。
日本一の長さを誇る。
急勾配に沿うため車両は平行四辺形。
車内もホームも階段状になっている。
車両にエンジンは付いておらず、レール上にあるロープを車両に接続し、
頂上からモーターで巻き上げる「つるべ式」で登り降りする。
その間、車窓に広がる比叡山の自然は美しく、登るにつれて涼しさが増す。
所要時間は11分。
降り立った山頂の「延暦寺駅」からは、琵琶湖が一望できた。



そこから徒歩10分。
木立の間を抜け、苔むした石仏の前を通り、比叡山延暦寺に到着。







ご存じの方も多いだろうが、比叡山に延暦寺という建物はない。
比叡山そのものが延暦寺を表し、
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区に分かれている。
近江出身の平安時代初期の僧侶「最澄」が開いた天台宗の総本山は、
数々の歴史に彩られてきた。
特に知られるそれは「織田信長による焼き討ち」だろう。





その発端は、姉川の合戦後、敗走する浅井・朝倉の軍勢を比叡山が匿ったこと。
数千の僧兵を抱える一大軍事力に対し「信長」は、
『中立を守って欲しい。 傍観してくれれば所領は侵さない。
 しかしあくまで浅井・朝倉に肩入れするなら容赦しない』と伝達。
比叡山は態度を示さず、黙殺。
「信長」は軍勢を動員して比叡山を囲んだが、この時は大事に至らず。
近畿一円の仏教勢力が「信長」に反発したため、渋々手を引いた格好。
“魔王”の胸中に遺恨の火が灯った。

翌年、諸勢力を各個撃破し体制を整えた「信長」は、比叡山攻めに取り掛かる。
元亀2年(1571年)晩夏、総攻撃開始。
建物ことごとくを焼き、経典類は灰燼に帰し、高僧も稚児も女も首をはねられた。
---と『信長公記』にはあるが、発掘調査の結果、焼き討ち時に焼失したのは
前掲画像「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」(※現在大改修中)と、
「大講堂(だいこうどう)」のみという説もある。



史実詳細は分からないが、比叡山延暦寺での出来事が強烈なメッセージとなったのは明らか。
『敵対する者はたとえ宗教的権威であろうと容赦なく滅ぼす!』
天下布武のため「信長」が人ならぬ領域へ一歩を踏み出した瞬間だったのかもしれない。



かつては大陸から導入された仏教の道場となり、
やがて血塗られ業火に焼かれ動乱の舞台となり、
歴史に名を刻んだ比叡山延暦寺。
今はただ静かな時が降り積もる。
ひとしきり感慨に浸った僕は、帰りのケーブルカーに乗って麓に戻った。
そして、スマホで投票したレースの結果を知る。

わが舟券、全敗---。

思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
肩を落として琵琶湖を後にした、夏の思い出である。
                      
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湖国小旅行 2024夏。

2024年08月24日 14時14分14秒 | 旅行
                       
猛暑・酷暑の夏、少々夏バテ気味だ。
体力・気力が萎え、忙しさにかまけてブログ更新も滞りがち。
久しぶりの投稿である。

--- さて先日、仕事の合間をぬって日帰り旅に出かけた。
行先は滋賀県・大津、びわこ競艇場他。
賭け事も楽しみなのだが、毎年「夏の琵琶湖」の景観を味わいに行くのは、
個人的に欠かせない恒例行事となっている。



往路途中に立ち寄った北陸自動車道のPA「杉津(すいず)」。
福井県・敦賀市にあるここは、廃線となった国鉄北陸線・杉津駅の跡。
かつては機関車が煙を上げて峠をスイッチバックとトンネル群で越え、
北陸線屈指の車窓風景とだったと聞く。
確かに眺めが良い。
駐車場~道路越しに広がる日本海・若狭湾を望み一息ついていると、句碑を発見。



名月や 北國日和 定なき(めいげつや きたぐにびより さだめなき) 芭蕉

<芭蕉が月の名所と呼ばれる敦賀の港に到来したのは元禄二年八月十四日で、
 翌日の中秋観月が目的である。
 待望の十五夜は雨月となってしまったが、
 はかり難い越後路の陰晴に翁は北陸の風情をひとしお感じて、
 この句を「おくのほそ道」に遺した。>(※<  >内句碑傍の解説パネルより引用)

今宵は煌々たる秋の月を期待していたが、あいにくの雨。.
昨夜の晴れがウソのよう。北陸の天気は変わりやすく、それだけに味わい深い。
肩を落としながらも自然の営みに感慨を抱く。
思い通りにいかないのが旅であり、人生もまた然り。
そんな作者の面持ちが偲ばれる一句である。

この句碑が建立されたのは昭和63年(1988年)。
北陸道が全通したタイミングは「奥の細道」の旅から300周年。
これを記念して北陸を通りかかった際に詠んだ一連の歌を石に刻み、
幾つかのSA・PAに置いたうちの一つだ。



しばし俳聖の姿に思いを馳せていたら空腹を覚え、
PA内のレストランで「越前おろしそば」をいただいた。
喉越しよく美味しかったが、残念なのは「辛味大根」じゃなかった点。
ツンと鼻に抜ける爽やかな辛味を期待していたが違った。

まあ、「芭蕉」先生に倣い、思い通りにいかないのも旅の醍醐味。
そう考えるとしよう。
何しろ訪問先の競艇などは「不如意」そのものなのだから。



今年はあいにく雲量が多く薄曇りだったのが玉に瑕ながら、
やはり夏のびわこ競艇場は風光明媚だと思う。
碧い水、青い空、白い雲。
遊覧船ミシガンやヨットが行き交う湖面。
現れては消える、モーターボートの描く航跡。
静と動が交錯する「借景」パノラマのようだ。





当日は4日間開催の2日目、予選最終日。
競艇は1日12回のレースが行われる。
銭を張るのは後半戦と決めていて、
各人機の調子を見極めようと、到着からしばらくは観戦に徹した。
自分なりにデータを収集し、8レース、10レース、11レース、12レース、
計4つのレースに投票することに。
あとは買い目をどうするかだ。



一旦、場内2階の食堂に落ち着き「ホルモンうどん」を注文。
スープは醤油仕立て。
甘辛く煮込んだ牛のフワ(肺)をたっぷりのせた麺が、実に旨い。
びわこ競艇に来たら外せないメニューとなっている。
舌鼓を打ちながら沈思黙考。
マークシートに記入して投票を終えた僕は、結果を見ずに競艇場を後にした。
もう一つ、訪れたい場所があったからだ。

※次回へ続く
                          
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