つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町の凡人から、旧・根上町の怪物へ贈るエール。

2012年05月31日 08時06分43秒 | 日記
「今日の一枚」は、現在の津幡小学校グラウンドでの少年野球試合風景。
僕が彼等と同い年だった頃にはなかったバックネットが新設され、
ボールの飛び出しを防ぐ周囲のガードも充実した様子だ。

また、画面手前に写るフェンスが外周を囲む形で新設され、
外部からの行き来は制限されるようになった。
津幡町でも児童の安全面に配慮しなければいけなくなったのかと思うと、
時の流れ、時代の変化を感じてしまう。

さて、きのう1人の偉大なプレイヤーが、変化する時の流れに逆らい復活した。
石川県出身のメジャーリーガー「松井秀喜」選手である。

市町村合併によって地図上から名前が消えた「能美郡 根上町」生まれ。
地元の小学校~中学校~金沢の野球名門校「星稜高校」へ。
「読売巨人軍」~「ニューヨーク・ヤンキース」~「ロサンゼルス・エンゼルス」、
「オークランド・アスレチックス」~「タンパベイ・レイズ」へ。
その間の活躍ぶりは、万人の知るところだ。
取り立てて熱心な野球ファンではない僕ですら、
高校時代の5打席連続敬遠や2009年ワールドシリーズの勇姿など、
記憶に残るシーンは多い。

しかし、ケガや年齢が影響してか、今シーズンは所属チームが決まらず、
ペナントレース開幕から2ヶ月遅れ、しかもマイナーからの出発。
輝かしい経歴の中では、異例のスタートを切ったが、
ようやく待望のメジャー昇格。
初戦で今季メジャーでの初ヒットとなる2ランホームラン!
素直に素晴らしいと思う。
どれだけ実績があり一流の素質があっても、人は老いる。
運動能力は下降線を辿るのが宿命だ。
だが、彼は…ゴジラは復活した。

報道内容は、試合結果など二の次。
祝辞一色に塗り込められた論調は、スターの証である。
ともかくおめでとうございます。
本番はこれから。
津幡町の凡人より、根上町の怪物へ心からのエールを贈る。
                (※2011年4月4日:類似画像、関連掲載アリ)
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津幡町での初めて物語③

2012年05月30日 07時48分28秒 | 初めて物語
“シリーズ津幡町での極めて個人的初体験”その3。

「今日の一枚」は、夕日に染まる津幡川。
おそらく川尻水門が閉じられているためだろう。
また風が止んだためでもあるだろう。
穏やかで波一つ立っていないように見えるが、実際は違う。
僕の携帯電話のカメラでは捉えきれていないだけで、
鏡面のような川面には幾つもの波紋が起きていた。

魚が水中から浮かび上がり、束の間、水面に顔を出してはまた沈む。
そんな行為が、川のあちこちで何度も繰り返されていた。
呼吸のためだろうか…?
水の中の酸欠は、例えば、水温上昇で酸素が溶け込み難くなる、
バクテリア増殖によって水中の酸素が一気に消費されるなど、
水質や環境の変化によって一瞬に起こると聞いた。
おそらく、僕が目にしたのは、こうした理由だったと推測する。

…しかし、小学生だった僕が初めてこの現象を目撃した時、
何らかの毒物が原因ではないかと思い込んだものだ。

当時は、環境汚染と公害病が問題になっていた時期。
水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症、四日市喘息は、
“四大公害病”と呼ばれ大きな被害を出し、世間の耳目を集めていた。
東宝映画のドル箱・ゴジラシリーズでは、
1971年に公害をモチーフにした怪獣「ヘドラ」が登場。

 

宇宙から飛来した鉱物が、静岡・田子ノ浦のヘドロと結びつき変異・発生。
最初はオタマジャクシのような状態だったが、
化学工場の煙突に取り付いてスモッグを吸い、有機廃棄物を食べて成長。
排気ガスを噴射して空を飛び、直立2足歩行で素早く地上を移動しながら、
硫酸の霧を吹きかけ、汚染物質の爆弾を打ち出す、恐ろしい怪獣だった。
映画館の暗がりの中、その異様な迫力に圧倒された。

また、ヘドロにまみれた海がスクリーンに大写しとなり、
こんな歌詞の歌が流れた。

♪水銀、コバルト、カドニウム、鉛、硫酸、オキシダン、
 シアン、マンガン、バラジウム、クロム、カリウム、ストロンチウム
 汚れちまった海、汚れちまった空
 生き物、みんな いなくなって 野も山も黙っちまった

…公害と環境汚染の恐ろしさが刷り込まれた無知な子供が、
前述した川面の異変を勘違いしたとしても、無理からぬ事だったのである。

                  (※2010年5月19日に関連記載アリ)
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飛んで火に入る津幡町の虫。

2012年05月28日 22時25分10秒 | 自然
「今日の一枚」は「サークルK 津幡中須加店」の店頭にて撮影。
画面中央の柱の前で青白い光を放つ「誘蛾灯」からは、
小さな発光と共に炸裂音が聞こえる。
ジジッ…パチッ!パチッ!
それは、1つの命の終焉を告げる音だ。

かつては、青色蛍光灯などでおびき寄せ、
その下に置いた水盤に虫を落として駆除していたが、
今では高圧電流を流し、触れた途端、瞬殺してしまうのが一般的だ。
…つまり、痛みも苦しみも与えない死。
それは「安楽死」の類と言えるかもしれないが、同時に「突然死」とも言える。
温情であり残酷。
自覚した死と無自覚の死では、
果たして、どちらが幸せなのだろうか?

それにしても、最近は虫の姿が減ったなと思う。
昭和の夏、街頭の下は宛ら昆虫のコロニーだった。
蛾、黄金虫、カミキリムシ、蝉類、蜂類などが主。
時たま、クワガタ虫やカブト虫などの掘り出し物も採集できた。
もしも当時、現在のような高性能誘蛾灯があったなら、
きっと屍の山が築かれていた事だろう。
飛んで火にいる虫の数は比較にならないほどに多かったのだから。
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津幡町民体育館。

2012年05月27日 19時45分39秒 | これは昭和と言えるだろう。
「今日の一枚」は、民家の壁に立て掛けられた竹刀。
鍔付きの2本はおそらく3尺4寸(105cm)、いわゆる「サブヨン」だ。
まだ体格の小さな小学校低学年用だろう。
奥のやや長めの1本は3尺6寸(111cm)の「サブロク」。
どちらも、少年時代の僕にとって大切な稽古道具だった。

あれは小学校三年生の夏の終わり。
遊び場からの帰り道にすれ違った友人が、
何やら長い袋を肩に担ぎ、大きな信玄袋を提げて歩いていた。
それは何?何処に行くの?…と尋ねると、
これは剣道の防具と竹刀で、今から剣道教室に行くのだと胸を張る。
そして、一緒にやらないかと誘い水を向けてきた。
僕は、少し悩んだものの快諾。
生家に戻り、母親に剣道を習いたいと申し出た。
早速、体験入門の許しを得て、大急ぎで食事。
…その時のメニューを、何故かよく覚えている。
プレスハムに醤油を付けて、茶碗のご飯を巻いてパクリ。
口いっぱいに頬張る僕の顔には、きっと微笑みが浮かんでいたのだろう…。

当時、剣道教室の開催場所は、加賀爪の「町民体育館」である。
同所には、今は津幡町の消防署が建っていて、体育館は跡形もない。
昭和49年に編纂された「津幡町史」より、往時の姿と概要を転載する。

 

『町民との結びつきを強めるための施設として
 町民体育館が昭和四十四年に建設された。
 町民体育館は、津幡町体育館条令によって運営されている。
 それによると、「体育館の使用は、スポーツ振興法、
 社会教育法及び社会福祉法に基づく
 津幡関係諸団体に限る。ただし興業に類しないものであって、
 町が主催もしくは後援するもの、
 他の地方公共団体が主催もしくは共催するもので、
 町長が認めるものについてはこの限りではない」とある。
 昭和四十六年度の利用状況は次の通りである。
 剣道教室 八八回     一八四九人
 バレーボール 九七回   一七九五人
 卓球      五九回     八九二人
 バスケット 二六回       六九二人
 バドミントン 五一回      六六二人
 その他 一一回       一一三〇人
  計 三三二回       七〇二〇人』
           (※写真及び『    』内、津幡町史より抜粋、一部編修)

剣道教室の開催期日は、確か毎週水曜日。
体育館の高い天井から吊り下がる水銀灯の下で、汗を流した。
入場時のあいさつ。
すり足、素振り、切り返し、打ち込み稽古、掛かり稽古。
稽古後の黙想と礼。
僕の傍らには、常に竹刀があった。
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津幡町のレイクサイド。

2012年05月26日 18時14分06秒 | 自然
「今日の一枚」は、津幡町・庄の「コメリパワー津幡店」裏から望む内灘。
画面左手奥…彼方に金沢医科大学病院。
手前は、整備され、均一に区画された水田と、真っ直ぐに伸びる農道。
その間には「石川県で一番大きな水辺」…
津幡町・内灘町・金沢市にまたがる「河北潟」が横たわっている。

河北潟は、内灘砂丘の発達によって日本海と遮断されてできた「潟湖」。
成り立ちは数千年前に遡る。
元々は、海水と淡水が混ざった「汽水湖」。
サイズも、東西4km、南北8kmと、今の3倍の大きさを誇っていた。
それが、1963年に始まった国の干拓事業により、水面積が縮小。
海水が入りにくくなってゆき、1980年、水門が設置されて海と隔絶。
完全に淡水となった。

こうした劇的な環境の変化は、河北潟の自然にとってマイナス面がある。
例えば、水が減り浄化力が落ちて、流れ込む生活排水などの負荷が増加。
水質が悪化した。
また、シジミやボラ、スズキなどの汽水性の生物が激減。
干拓以前、盛んだったこれらの漁ができなくなり、
周辺住民との繋がりが希薄になった。
かつて「蓮湖」と呼ばれた水辺から、オニバスの姿が消えた…。

しかし、一方、干拓によって出来た土地には、
ヨシを中心とする広大な草原が出現。
そこは、絶滅危惧種に指定された希少小型猛禽類…「チュウヒ」、
津幡町の鳥ハクチョウをはじめ、オオヨシキリ、ノスリ、オナガなどの生息地。
津幡町の地平は、北陸有数の野鳥の棲家なのだ。
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