きのう(2023/03/25)は、わが津幡町の桜について投稿した。
花の好みは人それぞれだが、日本では総じて桜の人気が高く、
日本人が桜を特別視しているのは異論のないところだろう。
それは「言葉」からも窺える。
花が咲く頃の薄ぼんやり霞む空は「花曇り」。
同じ時期に訪れる一時的な寒さを「花冷え」。
お花見用の敷物は「花筵(はなむしろ)」。
満開の時期は「花盛り」。
盛りを過ぎ、ハラハラと舞い散るさまは「花吹雪」。
花びらが吹き寄せられ川面を流れてゆくのは「花筏(はないかだ)」。
--- これだけ多彩なバリエーションを与えられた花は、桜だけ。
また、パッと咲き、パッと散る桜にはどこか“死の影”が付きまとう。
今回は、そんな観点から一つの物語を取り上げてみたい。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百二十二弾「花時に佇む八雲とセツ」。
嘘のよな 十六櫻 咲きにけり
伊予の国の和気郡に、十六櫻と呼ばれる有名な老木がある。
そう呼ばれるのは、陰暦の正月十六日になると花が咲くからで、
しかもその日にしか咲かないからである。
桜が咲くのは普通、春が来るのを待ってからだが、これは大寒の最中に花が咲く。
しかし十六櫻は自分の命の力で咲くのではない。
自分のものではない(少なくとも元は別の命の)カで花を開かせる。
この木には、ある人の霊が宿っているのだ。
その人は伊予の侍であった。
櫻は侍の家に生えていて、他と同様、三月末か四月の初めに花をつけた。
侍は子供のころその木の下で遊んだ。
百年以上、花の季節になると父母も祖父母も、またその親も先祖代々、
櫻を讃える漢詩や和歌を色とりどりの短冊に記しては、満開の枝に結んできたのだ。
だが、今は侍もたいそう年老いて、子供たちには皆先立たれ、
この世に男が慈しむものとて、もはやこの木を於て他にない。
--- ところが何と、ある年の夏、櫻は枯れてしまったのである。
老人の落胆ぶりは尋常ではなかった。
見かねた近所の人が、せめてもの慰みにと美しい桜の若木を庭に植えてくれた。
老人は礼を言い、嬉しそうな素振りをしてみせた。
しかしその実、胸は嘆きと悲しみに溢れていた。
あれほど心にかけた櫻の代わりになるものなどなかったのである。
ついに妙案が浮かんだ。
あるいは枯れゆく木を救えるかもしれぬ術を思いついた。
正月十六日のことだった。
老人はひとりで庭へ出て、しおれた木の前で一礼し話しかけた。
「お願いです。いま一度花を咲かせて下さい。私があなたの代わりに死にます」。
(神明の加護により、人は自分の命を他の人、動物、樹木にさえ、
譲り渡すことが出来ると信じられている。
魂を他へ転移することを日本語で“身代わりに立つ”と言う)
侍は桜の下に白布や敷物を広げて正座すると、武家の作法にのっとって腹を切った。
彼の霊は樹に乗り移り、即座に老樹に花を咲かせた。
それからというもの、櫻は毎年の正月十六日、雪の時節に花を咲かせるのである。
(※原典『十六櫻』 - ラフカディオ・ハーン/小泉八雲 著「怪談」より引用)
「十六桜」は、ヤマザクラの早咲き品種。
旧暦小正月頃(新暦2月中旬)に開花することからこの名が付いた。
辺りがまだ冬枯れに沈み、小雪舞い散る中で孤高の美を醸す桜は、幾つかの伝承を生む。
前述の物語は、その言い伝えを基にしている。
作者「ラフカディオ・ハーン」は、この奇譚に日本人の自然観を見い出し、死生観を加えた。
実は、愛する桜の身代わりとなる切腹は創作、演出なのだ。
彼が、西欧の文化・宗教・倫理と大きくかけ離れた日本的な思考を受け容れ、
自己犠牲を旧き日本---武士階級特有の美徳として理解したのは、
本人の気質・好奇心に因る(よる)だろう。
そして「伴侶」の存在あればこそと思うのだ。
その女性---「小泉セツ」は、松江藩家臣の娘。
生後僅か数ヶ月、世は江戸から明治になったが、
大人たちは髷を結い、家の奥には鎧兜・槍刀が仕舞われていた。
まだ昔ながらの武家の営みが息づく中で暮らす童女は、
周囲に昔話や民話、伝説などが聞きたいとせがんだという。
しかし、幸せな日々は長く続かず、維新を機に家禄を失った士族は軒並み困窮。
彼女の境遇も例外ではない。
成績は優秀だったが義務教育を終えると進学を断念。
11歳から織子となり家計を支える。
やがて一度結婚するもうまくいかず、生家に復籍した。
一方「ラフカディオ・ハーン」は、ギリシャに生まれ、アイルランドで育つ。
複雑な家庭の事情から実父母と離別。
不幸な事故で隻眼となってしばらく後、養育者が破産。
学業を中途で諦め、遠縁を頼りに渡米。
赤貧に洗われながら勉強を続け、新聞記者の職に就き生活の安定を得る。
また、移り住んだアメリカ南部の港町・ニューオーリンズで大いに刺激を受けた。
そこは、黒人奴隷たちのルーツ・アフリカ、かつての宗主国フランスやスペイン、
イギリスに端を発するアメリカなど、多文化が同居する混沌とした土地柄。
彼の中で、オープンマインド(開かれた精神性)が熟成してゆく。
更に、当地で開催された博覧会に於いて日本に強く惹かれる。
英訳版『古事記』を読んで、いよいよ興味が募り来日を決意。
太平洋を渡り、横浜に降り立つ。
明治23年(1890年)のことだった。
--- 山あり谷ありの前半生を送った男と女が巡り合ったのは、出雲神話の舞台。
島根県・松江に英語教師として赴任した「ハーン」は身の回りの世話役を探していた。
読み書きができる「セツ」に白羽の矢が立ち、彼女は住み込みで働くことになる。
「セツ」は英語を解さない。
「ハーン」も日本語を話せない。
だが2人は馬が合った。
根気よく言葉の意味を辞書で確かめながら意思疎通を図り、
心を通わせ共に暮らす道を選んだ。
「ハーン」は日本に帰化し小泉家に入夫。
『古事記』にある和歌から引用した名前「八雲」を名乗るようになった。
では、ここからは「小泉セツ」自身が綴った『思い出の記』から抜粋/引用して、
2人の間柄の一端を紹介したい。
【 】内の太字が原典。
尚「八雲」はファミリーネームの愛称「ヘルン」で登場する。
【怪談は大層好きでありまして「怪談の書物は私の宝です」と云っていました。
私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。
淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談を致しました。
ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、
私の話を聞いて居るのです。
その聞いて居る風が又如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、
自然と私の話にも力がこもるのです】
【気に入った話があると、その喜びは一方ではございませんでした。
私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。
面白いとなると、その筋を書いて置きます。
それから委しく(くわしく)話せと申します。
それから幾度となく話させます。
私が本を見ながら話しますと
「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、
あなたの考えでなければ、いけません」と申します】
【書斎の竹籔で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと
「あれ、平家が亡びて行きます」とか、
風の音を聞いて「壇の浦の波の音です」と真面目に耳をすましていました。】
「八雲」は、結婚を機に作家として飛躍を遂げる。
数々の著作の中でも、各地に残る民間伝説・異聞・言い伝えに独自の解釈を加え、
文学作品に昇華させた『怪談』は広く知られるところ。
そのペンに欠かせないピースが「セツ」だった。
彼女のストーリーテリングが「八雲」を物語の世界へ導き、
創作の源泉となった意味で共著者同然なのである。
冒頭では、その代表作から『十六櫻』を取り上げたが、
「八雲」が死出の旅に出る間際、やはり桜が前触れとなった。
【亡くなります二三日前の事でありました。
書斎の庭にある桜の一枝が返り咲きを致しました。
日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。
けれどもヘルンに申しますと、いつものように『有難う』と喜びまして、
縁の端近くに出かけまして『ハロー』と申しまして、花を眺めました。
「春のように暖いから、桜思いました、
あゝ、今私の世界となりました、で咲きました、しかし…」
と云って少し考えていましたが
「可哀相です、今に寒くなります、驚いて凋み(しぼみ)ましょう」と申しました。
花は二十七日(※)一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。
この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、
それを思って御暇乞を申しに咲いたのだと思われます。】
明治37年(1904年)9月19日、「八雲」は心臓発作を起こす。
狭心症だった。
突如秋に桜が咲き、散った。
それを合図に、同26日、再び発作に見舞われる。
小さな声で「ママさん、先日の病気また帰りました」と告げ、床に入り間もなく亡くなった。
享年54。
口の端に少し笑みを浮かべた安らかな死に顔と伝えられている。
(※亡日9月26日と辻褄が合わないが「セツ」さんの勘違いかもしれない)