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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

黄金週間、津幡町の歴史に触れる散歩旅。

2012年05月06日 10時14分24秒 | 日記
日本各地に、平家の落人伝説が残されている。
西暦1180年代「石橋山の戦い」に始まり「壇ノ浦の戦い」まで、
源氏と平家が争った源平合戦において敗者となった平家方の残党・難民が、
いわゆる「平家の落人」。
そして、彼等が追手を逃れて暮らした「隠れ里」があったというのだ。

津幡町は、中世戦史上の奇策「火牛の計」による「倶利伽羅峠の戦い」の舞台。
その激戦にまつわるこんな言い伝えが残されている。
以下、津幡町HP、津幡町観光ガイドより引用・編纂して掲載。

『寿永2年(1183)源平合戦の時、
 平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は
 倶利伽羅山に陣をとり、
 平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)は、
 従兄の通盛(みちもり)と共に兵3万で
 志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣をとっていました。
 倶利伽羅峠の戦いで、維盛が敗れたことを聞いて援軍にきた知度は、
 激しい戦いの末、津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」において
 自害したと伝えられ、ここにある塚が知度の墓だといわれています。
 この平谷は、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで
 生活したところともいわれています。』
(※『     』内、津幡町HP、津幡町観光ガイドより抜粋編纂)

平家の落人伝説には、有名なものもあれば、そうでないものもある。
津幡町に伝承されるそれは、後者の類と言えるだろう。
しかし、900年余り昔の歴史に思いを馳せてみるのは悪くない。
…という事で、少々前置きが長くなったが、
きのう1時間余りをかけて伝説の地を訪問してみた。

「冒頭の一枚」は、津幡市街から緑が丘団地の横を抜けて達した
「津幡北バイパス」。
富山・小矢部方向へと歩くうち程なく現れる案内看板に従って左折し、
バイパスを下って「森林公園」方面へ。

 

道なりに進むと、森林公園の「南口」と「津幡口」への分岐点に到着。
再び左折して「津幡口」方面へ。

 

これだ。

 

散り始めた八重桜が根付いた小さな丘に、
「平知度」の墓と伝えられている首塚がある。

 

かつて、ここでどんな情景が繰り広げられたのだろうか…。
しばし手を合せ「りくすけ」と一緒に、御霊を弔った。
コメント (2)
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