日本各地に、平家の落人伝説が残されている。
西暦1180年代「石橋山の戦い」に始まり「壇ノ浦の戦い」まで、
源氏と平家が争った源平合戦において敗者となった平家方の残党・難民が、
いわゆる「平家の落人」。
そして、彼等が追手を逃れて暮らした「隠れ里」があったというのだ。
津幡町は、中世戦史上の奇策「火牛の計」による「倶利伽羅峠の戦い」の舞台。
その激戦にまつわるこんな言い伝えが残されている。
以下、津幡町HP、津幡町観光ガイドより引用・編纂して掲載。
『寿永2年(1183)源平合戦の時、
平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は
倶利伽羅山に陣をとり、
平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)は、
従兄の通盛(みちもり)と共に兵3万で
志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣をとっていました。
倶利伽羅峠の戦いで、維盛が敗れたことを聞いて援軍にきた知度は、
激しい戦いの末、津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」において
自害したと伝えられ、ここにある塚が知度の墓だといわれています。
この平谷は、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで
生活したところともいわれています。』
(※『 』内、津幡町HP、津幡町観光ガイドより抜粋編纂)
平家の落人伝説には、有名なものもあれば、そうでないものもある。
津幡町に伝承されるそれは、後者の類と言えるだろう。
しかし、900年余り昔の歴史に思いを馳せてみるのは悪くない。
…という事で、少々前置きが長くなったが、
きのう1時間余りをかけて伝説の地を訪問してみた。
「冒頭の一枚」は、津幡市街から緑が丘団地の横を抜けて達した
「津幡北バイパス」。
富山・小矢部方向へと歩くうち程なく現れる案内看板に従って左折し、
バイパスを下って「森林公園」方面へ。

道なりに進むと、森林公園の「南口」と「津幡口」への分岐点に到着。
再び左折して「津幡口」方面へ。

これだ。

散り始めた八重桜が根付いた小さな丘に、
「平知度」の墓と伝えられている首塚がある。

かつて、ここでどんな情景が繰り広げられたのだろうか…。
しばし手を合せ「りくすけ」と一緒に、御霊を弔った。
西暦1180年代「石橋山の戦い」に始まり「壇ノ浦の戦い」まで、
源氏と平家が争った源平合戦において敗者となった平家方の残党・難民が、
いわゆる「平家の落人」。
そして、彼等が追手を逃れて暮らした「隠れ里」があったというのだ。
津幡町は、中世戦史上の奇策「火牛の計」による「倶利伽羅峠の戦い」の舞台。
その激戦にまつわるこんな言い伝えが残されている。
以下、津幡町HP、津幡町観光ガイドより引用・編纂して掲載。
『寿永2年(1183)源平合戦の時、
平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は
倶利伽羅山に陣をとり、
平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)は、
従兄の通盛(みちもり)と共に兵3万で
志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣をとっていました。
倶利伽羅峠の戦いで、維盛が敗れたことを聞いて援軍にきた知度は、
激しい戦いの末、津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」において
自害したと伝えられ、ここにある塚が知度の墓だといわれています。
この平谷は、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで
生活したところともいわれています。』
(※『 』内、津幡町HP、津幡町観光ガイドより抜粋編纂)
平家の落人伝説には、有名なものもあれば、そうでないものもある。
津幡町に伝承されるそれは、後者の類と言えるだろう。
しかし、900年余り昔の歴史に思いを馳せてみるのは悪くない。
…という事で、少々前置きが長くなったが、
きのう1時間余りをかけて伝説の地を訪問してみた。
「冒頭の一枚」は、津幡市街から緑が丘団地の横を抜けて達した
「津幡北バイパス」。
富山・小矢部方向へと歩くうち程なく現れる案内看板に従って左折し、
バイパスを下って「森林公園」方面へ。

道なりに進むと、森林公園の「南口」と「津幡口」への分岐点に到着。
再び左折して「津幡口」方面へ。

これだ。

散り始めた八重桜が根付いた小さな丘に、
「平知度」の墓と伝えられている首塚がある。

かつて、ここでどんな情景が繰り広げられたのだろうか…。
しばし手を合せ「りくすけ」と一緒に、御霊を弔った。