つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡中学校にて、静謐なりマウンド。

2010年08月08日 22時36分54秒 | 日記
今日は日曜日。部活動も休日である。
そこで、今朝の散歩は「津幡中学校」…「幡中」へと足を向けた。
無人のグラウンドに入り、マウンドに佇んでみると、
ピッチャープレートから見つめた先には、ホームベース。
想像したよりずっと近い。
中学野球なら、これ位になるのかと軽く驚きを覚える。

以前にも投稿した通り、僕は中学時代、剣道部だった。
バットではなく竹刀を握り、プロテクターではなく胴を付け、
グローブではなく小手をはめ、キャッチャーマスクではなく面を被った。
当時、スポーツ全般で人気の頂点にあった野球ではなく、
部活に剣道を選んだのは、主に2つの理由があった。

第一に、僕には球技のセンスがなかった。
これは、球が小さくなるほど顕著だった。

第二に、僕はチームプレイが嫌いだった。
誰かのせいで負けるのも、自分のせいで誰かが被害を被るのも御免だ。
自由も責任も、独りで背負う個人競技の方が気楽に思えた。

だが、今日、静謐な空気が流れるマウンドに立ち、僕は迷った。
果たして、この選択は正しかったのだろうか…と。
団体競技での責任を背負わず、同時に、助け合いの精神を学ばなかった僕は
何かが欠けたまま大人になってしまったのかもしれない。

時間は常に一方通行で、平等だ。
もうやり直すことはできない。
前を向いて歩いて行くしか道はないのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津幡の街角に名車あり。 名車の背後に戦あり。

2010年08月08日 11時19分42秒 | 日記
散歩途中の街角で、珍しい車を見つけた。
「今日の一枚」、「スバル360」である。
1958年から1970年までのべ12年間に渡り40万台近くが生産された名車のルーツを辿ると、
源流は航空機産業…軍用機に行き着く。

スバル・ブランドの富士重工、前身は「中島飛行機」。
太平洋戦争終結までは東洋一、世界有数の規模を誇った航空機メーカーだ。
戦後、その技術者たちが作り上げた最初の傑作が「スバル360」。
超軽量構造。 限られたスペースでの高い居住性を確保。
量産型の軽自動車としては、初めて大人4人の乗車。
独創的な名車が生まれた裏に、航空機メーカーの技術があったのは言うまでもない。

そんな「中島製」で最も有名なのは、陸軍の一式戦闘機・「隼」だ。
太平洋戦争中、日本陸軍を最初から最後まで支え、陸軍最多の5700機を生産。
また終戦後も日本軍が各地に置いていった「隼」を現地軍が接収し、
インドシナ戦争などで使用された。
それだけ、安定した優秀な機体だったことが想像できる。

「隼」は、登場したタイミングや同じ種類の戦闘機として、
海軍の「三菱製」・「零戦」と比較される。
どちらも大戦中を通じて、主力を担い、活躍した名機だが、
速度、格闘戦性能、火力は「零戦」。 
上昇力、加速性、防弾性では「隼」に軍配が上がるとするのが一般的。
個人的な意見としては、トータル面で「零戦」の勝ちとしたい。
但し、零戦が最も輝かしい戦果を上げた大戦初期、
その活躍を支えたエンジンが「中島製」の「栄」だった事を考えると、
企業の技術力では中島飛行機がトップと言えるかもしれない。

そして、「隼」も「零戦」も、大戦末期には「特別攻撃機」として使われた。
どちらもデビューから10年に満たないスピードで時代遅れになってしまった。
残酷なまでの結果至上主義で、恐るべき速さで物事が進む戦時では、
栄光は束の間の輝きに過ぎない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする