「令和6年能登半島地震」の発災から5ヶ月が経過した。
時が流れ、日に日に報道の露出は減少傾向。
スポットを当てる対象は徐々に「復活」の話題へとシフト。
大きなダメージから立ち上がる地域、企業、人が増えていくのは、とても喜ばしい。
心から頑張って欲しいと思う。
微力ながら助勢は惜しまない。
しかし---。
復興ではなく復旧さえ道半ばで惑うところが少なくないのも、また現実である。
きのう(2024/6/01)久しぶりに奥能登・輪島へ出向く機会があった。
訳あってほんの短時間の滞在に過ぎなかったが、
そこで目にした様子を記録しておきたい。
能登にアクセスする大動脈・自動車専用道路「のと里山海道」は、
地震で道路の一部が崩落するなど大きな被害を受け、一部区間は北行きだけの一方通行。
所々で路面が波打ち、蛇行箇所も多くスピードは出せない。
関係各位の尽力は続いているものの、
大きな半島故、物資・機材が充分に運べていないであろう事が窺える。
傾いた家屋が新たに倒壊するケースは珍しくないと聞く。
応急危険度判定で立ち入りを禁止された「赤判定」の建物は整理撤去も難しい。
仮に公費解体が決まっても、先に述べたように人手・資材が不足しているため、
順番が回ってくるまで時間を要する。
その間、思い出の品や必要なものを残そうと、
自主的に家の片付けを進め続ける方々もいらっしゃるとか。
床面が歪んでいれば作業中に気分が悪くなったり、
倒壊の怖さなどから時間が限られ、思うように進まないという。
無理もないことだ。
これまで石川県では「令和6年能登半島地震」において、
直接死が230人、災害関連死が30人、行方不明3人と発表。
亡くなった状況が分かっている方の大半が「家屋倒壊」。
死者の多かった輪島市と珠洲市では建物の3割が全壊した。
土砂崩れが起きた地点では土や樹木の根がむき出しになり、
家や車が呑み込まれたまま。
脅威の爪痕を生々しく留めている。
仮設住宅は確かに増えた。
残念ながら供給量は需要に追い付いていないという。
ピーク時に比べれば数は減ったが、未だ3千を超える方が避難所で生活しているという。
一方、長期に亘る避難所生活に見切りをつけ、
「安全ではない」と分かりながら、自宅に戻る方も少なくないという。
先月・5月末を区切りに、
全国各地の自治体から派遣されていた応援職員の多くが被災地を離れた。
広域避難所が集約されつつある。
被災地を取り巻く状況は「変化」し始めた。
また季節も巡る。
初夏を迎え田植えが終わった田んぼを何枚も見受けた。
地割れがあるだろうに。
畔や水路が崩れただろうに。
大変な暮らしが続いているだろうに。
それでも早苗が風に揺れているのだ。
和やかな風景の中に、能登の人たちの粘り強さや気概が漂っているように感じた。
帰り道、能登の「内浦」を通る。
地図上で言えば半島の右側にあたり、左側の「外浦」に比べ波静か。
鏡のように穏やかな海面を車窓から見遣る。
実に心地いい。
しかし、地震発生直後は様相一変したと聞く。
局地的な違いはあったが、
住居が海水につかり、船が陸に押し上げられ、津波が牙をむいた地点もあったとか。
ウインドーを開けた時、僕の背筋が震えたのは、
車内で渦を巻く潮風が運んできた冷たさのせいだけじゃないのは、明らかだ。
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