幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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宝塚市長は、相撲が宗教行事だということをご存じか?

2018-04-09 00:13:47 | 時事法談

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京都府舞鶴市で4日に開催された春巡業で、多々見良三市長(67)が倒れた際、救命処置をした女性が、土俵から下りるよう場内放送で促された問題が大きな波紋を広げていて、それは海外にも波及しているようで、ブログ『理想国家日本の条件』にも記事が載っていました。世界が八角理事長にNO! 女人禁制問題、米・英・仏でも報道 「日本でどのように女性が扱われているかを物語った」

加えて、兵庫県宝塚市の女性市長が、「いぜん土俵上でのあいさつを断られた云々」で、もっと話がややこしくなっていて。。。

どうやら国内海外メディアとも、この問題を、男女差別問題ととらえているようで、とても大事なことが抜け落ちていることと、それを当の相撲協会が、きちんと言葉で説明できないのが歯がゆいですね。

これは性差別でとらえるべきではなく、「そもそも、相撲とは何か」という観点がないと、説明できないのです。

相撲の歴史的経緯などは、ねずさんこと、小名木善行(おなぎぜんこう) さんが、御自身のブログで投稿なさっていましたので、まずはご紹介いたしますが、今回はそれとは違った切り口で、「そもそも、相撲とは何ぞや」とうう観点から、私見を述べさせていただきたいと思います。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3720.html

さて、「相撲とは何か」と言って、最も簡単な説明は、「宗教行事である。」ということになります。

そう、相撲はスポーツでも格闘技でもなく神事、つまり、相撲そのものが、宗教の儀式なのです。

そして土俵は、儀式を行う聖域なのですね。

ですから力士は、宗教家でもあるわけで、当然行司も土俵を掃く方も宗教家なわけで、だからこそ相撲では、勝てば良いとか強ければ良いという概念だけでは済まされず、品格が重要視されるわけです。

そして相撲は結局何を行っているかと、塩をまいて清め、土俵で四股(しこ)を踏んで、地下地中の邪気を封じているのです。

四股は本来、醜(しこ)で、四股を踏むは醜(邪気)を踏む、つまり踏みつけて、地上に出ないようにしているわけですね。

つまり相撲は本来、塩を大量に撒いて土俵を清め、四股を踏んで邪気を封じることが相撲の主眼であって、力士の対戦は、あくまで、これまでの精進のお披露目なわけです。

 

土俵は醜(しこ)を踏みつけ、土中に封じ込める聖域ですので、霊域が乱れたら大問題です。

男性霊と女性霊では、霊から出る波動は違いますので、霊域が乱れる可能性もありますし、また相撲の精進をしていない人がみだりに霊域に入ると、邪気に狙われては大変です。

邪気を封じることができなければ、地上にどのような災厄が起こるかわかりません。

だから、女人禁制なのです。

現市長を救命するために土俵に上がったのは看護師さんだそうで、人類を愛し賜う神々は、よもや人命をおろそかにしてまで、女人禁制を優先したりしないでしょうから、看護師さんが土俵に上がったのは当然のことです。

これをとやかく言えば、ユダヤの戒律で決まっている安息日に、人助けをしたイエス・キリストに、「神の法に背いて、安息日に仕事をした。」と難癖をつけた、旧主派の宗教家のことが聖書に記されていますが、それと同じになってしまいます。

しかし宝塚の元市長さんが「女性だからと言って、土俵に上げてもらえないのは、女性差別」というのは、宗教を理解なさっていないのです。

男女が同じ扱いでなければ嫌だとおっしゃるならば、元市長さん、丸裸でふんどし一丁で四股が踏めますか?

こういう方は、そう言われたら、「セクハラだ!」と仰るに違いない。(爆笑)

20180406 大相撲宝塚巡業で女性市長

男性首長は土俵にあがりますけれども、これは、古来よりの習わしではありますけれども、相撲が神事、つまり、相撲自体が宗教行事ということを、心から信じていない為政者ならば、それは即ち、土俵に上がることが「穢れ」となることを知らなければなりません。

そう、今の政治の基本概念でもある政教分離ではなく、日本古来の祭政一致主義でなければ、土俵上では「穢れ」なのです。

無神論の為政者が、神社仏閣や教会の本尊の前で、尊い経文を上げていても、それは神仏からみればどう見えるかを、よくよく考えなければなりません。

神の心を心とし、神の代理人として、心を砕いている、清い心でなければ、神に心は通じません。

「神も仏もあるものか」という、身勝手でこの世的に穢れた心で通じるものは、身勝手で穢れた心の世界でしかありません。

さて、清めの塩と申しますが、塩がなぜ古来より清めのアイテムとして使われているのでしょうか?

それは恐らく、仏教で言われる中道の象徴なのではないでしょうか?

塩で思い出すのは、学校の理科の実験でやった、塩酸と水酸化ナトリウムの実験です。

塩酸液と水酸化ナトリウム液を混ぜると、食塩水ができますけれども、塩酸と言えば酸性の代表で、水酸化ナトリウムと言えば、アルカリ性の代表です。

医学的に言うと、内臓は酸性には比較的強いですが、アルカリ性には滅法弱く、お肌はこれと逆で、アルカリ性には案外強いですが、酸性液には弱いところがあります。

つまり身体を基軸に考えるなら、酸性液は外側を溶かす液で、アルカリ液は内側を溶かす液なわけです。

これが混ざると塩ができるのは、「左右の両極端を去り、中道に入れ」という仏教の修行に通じるものがありますよね。

中道なら、そこに魔は入れないわけですし、塩は海から採れますが、海は万物の親なる存在でもあって、生かしあう象徴でもあります。

そういう古来からの営みや知恵があって、だからこそ塩が、清めの象徴となったのではないかと。

また特に、日本では社会主義系の思想をお持ちの方が、男女差別をとやかく仰る方が多いですが、男女が同じことをすることが、果たして平等にかなうのか、また幸福論的に、それが幸福なことなのかは、一考の余地ありかと思います。

とかく現代文明は、これは日本国内のことではなく、全世界的に見て、社会そのものが、女性が働くようにはできていないところがあります。

特に、子供を持つ女性が働くようには、そもそもできていないのが、現代文明社会ではないかと。

そのような中、男性と同じ原理で、女性が働かなければならないとするならば、それは肉体的にも精神的にも負担増になることはあっても、「幸福」という概念からすれば、成果を求められ、心身を削るだけで、人として消耗するだけではないかと心配です。

男女は平等です。尊さにおいて平等であり、神の子として平等です。それは、我らを創った神は、男女両方の属性をお持ちだからです。

ですけれども、その現れ方は、同じではありません。むしろ、違いを認め合い、補い合うことを求められているのです。

最後に、昨今、相撲界ではスキャンダル続きですけれども、結局は相撲協会が、宗教性をなくしていることが問題なのではないかと思います。

「相撲は、宗教行事なのだ!」と、日本国内外に、堂々と延べ伝えるてこそ、今の苦境を乗り越えて、次世代に伝統の灯を継承できるというものではないかと、高知の一相撲ファンとして思う次第であります。

本日は経典『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)より、男女平等と表れ方の違いについて、大川隆法幸福の科学グループ総裁が述べた部分をご紹介します。

私は関西でこの本公演を拝聴しましたが、「男女の魂が同じであるならば、違った性として現れる必要はない」という言葉、今でも耳に焼き付いています。

              (ばく)

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「男女は魂において平等である」というのは、そのとおりです。しかし、それは、「男性と女性の現れ方に違いがない」ということではありません。

「男女が平等である」ということは、「女性が男性のようになり、男性が女性のようになる」ということではないのです。

そういう考え方は、男女を分けた仏の心に反しています。「仏は何ゆえに男女を創ったか」ということを考えなくてはなりません。

「男女があるのはおかしい。一つの性であるべきだ。一つの種類の生き物であるべきだ」と思うならば、たいへん倣慢な考え方をしていることになります。ここが、実は、大きな間違いの出発点なのです。(中略)

女性のみなさんは、目覚めなければなりません。

「男女が平等である」ということは、「魂において同じ値打ちがある」ということであり、「その現れ方や性質が同じでなければならない」ということではありません。

男女の魂の性質までが同じであるならば、違った性として現れてくる必要はないのです。

たとえば、「コーヒーと紅茶は、その価値において平等である」とした場合、それはどういうことであるかを考えてみてください。

コーヒーを好む人が人類の三分の二であろうが、四分の三であろうが、それは紅茶の値打ちを下げるものではありません。

コーヒーは、深い味わい、香り、コクのなかに、その本質があり、紅茶は、まろやかさ、透明感、軽やかさ、香りに、味わいがあります。好みの差はあっても、「どちらが上で、どちらが下」ということはないのです。

しかし、紅茶のなかにコーヒーを入れてごらんなさい。あるいは、コーヒーのなかに紅茶を入れてごらんなさい。飲めないでしょう。

コーヒーにも紅茶にも、それぞれのよさがあります。それを発揮しなくてはならないのです。男女についても同じです。

そのことを知らないために、間違った考えが生じています。

日本の進歩的女性のなかには、そういう間違った考え方に毒されてきている人が数多くいます。

そういう女性に騙されてはなりません。
『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)P27~32


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ばくちゃん!するどいね (カネゴン)
2018-04-09 09:20:38
相撲はまさに、宗教行事。
悟りを深めないと理解できん(^^)
返信する
相撲は神事 (さうざんと)
2018-04-13 01:07:22
何故、舞鶴市長殿は土俵上で挨拶をしなければならなかったのか?土俵上で倒れるとは。その議論がぽっかり抜け落ちてますね。
返信する
いやいや。 (ばく)
2018-05-04 00:58:39
カネゴンさん、コメントありがとうございます。
いやいや、するどいなんて・・・。もっと褒めて。(爆笑)
いや、まっこと相撲は宗教行事ですし、宗教そのものです。
そもそも、世の中には、男子禁制の場所なんて山と言うほどありますよね。(笑)
ことさら男女差別を訴えても、現状では、女性にとって厳しい世の中になるだけではないかと機具するのです。
返信する
そういえば (ばく)
2018-05-04 01:05:19
さうざんとさん、コメントお返事する時間がなくて、ずいぶん遅くなってごめんなさい。

そういえばそうですよね。
宗教的には、「邪気にやられた」ということになりますが、お医者様ということで、無神論的価値観の市長さんだったのかも知れませんね。
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