世界名作劇場(アニメ)版『赤毛のアン』全50話見終わりました
なるほど、たしかにアンは成長しましたね。
最初の頃の狂ったような妄想弾丸トークも、うわあああああ~と大声で泣き崩れ、「もう一生私は不幸のどん底をさまようんだわ~!!」と根拠なき絶望もしなくなった。
だけど・・・う~む。
言いたいことはいっぱいあるけど、結局アンの性格がどうしても好きになれない理由は、とことん「女っぽい」からです。コンプレックスの持ちようもプライドも、ものすごく身勝手に女っぽい。ギルバートに敵意をむき出しする部分に対して「男勝り」なんて評する人もいるけど、よく「私って男っぽいから~」と言う子にかぎってぜんぜんそんなことないのと同じ印象。
アンファンには申し訳ないけど、私はやっぱりアン・シャーリーに感情移入できない。
あともう一つ私が許せないのは、すぐにご飯が食べられなくなるとこ。せっかく用意してくれたお料理に対して「食べたくないわ」「とっても喉を通りそうにないの」と拒否する。どうでもいい理由で。人が作ってくれた(時代を考えると貴重な)食事より自分の悲しみの方が重要。アンは飢えたことがないのか!?
ああ~ひっぱたいてやりたい。
でも、結局アンが女の子に好まれる理由はそういうところなんだろうな・・・と思います。
そんなリアルな女の子そのものに共感できない人(その代表=宮崎駿=「アンが嫌い」で、途中で作品を降りたと言われている)は、現実の女の子を拒否しているのだ・・・というネットに上がっている文章を読んでひっくり返ってしまった。『未来少年コナン』のラナは男性から見た理想の少女で、リアルな女の子ではないという。
👇このシーンが大好き。
私は弱そうに見えて芯の強いラナが大好きだし、どんな逆境にも弱音を吐かないセーラやペリーヌを尊敬している女の子だよっ!還暦だけど。
アンのキャラクターは横に置いといて、アニメの出来は静止画とナレーションが多くて紙芝居みたいだった。ナレーションは原作通りなのか?妙に文学的で難解な言い回し。当時の子供たちはこれをどんなふうに感じながら見ていたんだろう?(私はもう子供じゃなかった)
時間がなかったゆえとお察ししますが、ハイジだってマルコだって、あの時代の1年に及ぶ過酷な長丁場アニメはどれもちゃんとできてるのに、この作品のとっ散らかり方といったらヒドイ。
高畑勲本人が「とにかく大変だった」と回想している通り、言っちゃなんだけど動画も脚本も完璧な出来ではないこのアニメが、なぜこんなに高い評価を得ているのか?やっぱりどうしても不可解。
なんとか納得したくて『赤毛のアン~グリーンゲイブルズへの道~』(高畑勲が放送10年後に再編集して、そのまた20年後に劇場公開されたアニメ)も見てみました。アンがグリーンゲイブルズに置いてもらえるまでの、物語の超~入り口だけを劇場用に1時間半にまとめたもの。ナレーションを極力減らして再編集したこの作品は、アニメとしては完成度が高くなっていて、全編こんな感じで見たかったな~と、心から思いました。
いずれにしても、私にはどうやっても良さがわからない「アンという少女」のことを理解したくてジタバタしているうちに、ずっと前に感じた何かに似ている・・・と考えて思い出したのは、脚本家の北川悦吏子さんがドラマの中で描く女性像。「半分、青い。」のスズメは当てはまらないのですが、昔の大ヒットドラマのヒロインたちは、みんなとっても「 姫 」。
結局、私の本が売れなかった理由は、その「姫」的な女性を描けなかったことにあるんですよね。
ずっと担当の編集さんに言われ続けました。
「村田さんの描く女性は一人で生きて行けそうなんですよね。読者はヒーローなしでは生きていけない女性に感情移入するんです!!」って。
ああ~そこだ!!
アンは、私には絶対に描けない女の子なんだと・・・思い知りました。