怠慢主婦 ドイツで同居 

日本食を食べなくなり義両親のしもべと化し、すでに何年になるだろう。遠い目しながら今日も行き抜いてやるぞっ

朝食パーティ

2014年03月06日 | ひとびと
朝食会に招かれた。専業主婦が普通の時代にはこうした習慣があったらしい。午前中に女たちが集まっておしゃべりをするのだ。
専業主婦の存在が疎まれる今の時代は、仕事を持ちにくい外国人主婦が集まって外国生活のストレスを発散するのさ。

皆がそうではないのだが、一般的に欧州人は見た目を美しくすることに長けていると思う。
パン・パンのお供・飲み物だけなのに、この華やかなテーブル。
いや、何だかこれは違うぞ。
汚点のようになってしまったが、おいしいと喜んでもらえた私のおにぎりさ~
 
朝食なのに、デザートがあった。
イチゴのシャーベットにカスタードクリームをかけたもの。
ふわふわのビスケットを添えて食べる。おいしかった。
 
すでに動かなくなってしまった時計が壁を飾る。懐中時計を実際に使っている人を見たことが無い私。
 
この柱時計は150年前にモスクワで買ったものだそう。なんと、いまだに使えるのだとか。
手入れは時計屋に任せることなく自分たちでやっている。
青い缶は50年前の品。イクラが入っていたものらしい。ロシア語でイクラはイクラ、と知ったのはこの日だった。直径20センチ、高さも20センチくらいの大きな缶だったぞ。ちょっと前までロシアはイクラがえらく安かったと聞いてはいたが、本当にそうだったのだろうな。

ロシア産の物資ばかり登場したが、この家の主婦はワルシャワ出身のポーランド人。
いろいろな写真を見せてもらったのだが、一番衝撃的だったのがこの一枚。1953年のワルシャワ。戦後8年を過ぎても完全な復興には至っていない様子に驚いたのだ。
天災は避けがたいとして、戦乱による建築物の破壊は地球環境を守るのとは正反対の行為だな。世界各地の紛争・戦乱が少しでも減ること、これから起こらないことを願う。


私以外の5人は全員ポーランド人。当然ポーランド語会話ばかりだったので、私はゆっくり一人の世界に浸ってウチではめったに口にしない高そうなパンやハム、キャビア、チーズを堪能しようと思った。
が・・・気を利かせてくれる優しい彼女らは、いちいち自分たちの会話のテーマをドイツ語で解説してくれるのでバターを塗る手を止めたり、返事をするために舌の上に載ったキャビアを味わう間もなく飲み込まなくてはならなかった。くぅぅぅぅ~





8 コメント

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興味深い写真です (マイエンフェルト)
2014-03-07 11:23:30
古くからドイツやソビエトに翻弄されたポーランド
戦後8年たってもガレキが。
それにくらべ日本の復興は早かったのですね。
僕が昔ヨーロッパを旅していたころは
まだワレサやゴルバチョフが改革を叫んでいたころ
まだ東ヨーロッパは個人で旅行するには未知の世界
でした。
ベルリンの壁が崩壊した今日
東ヨーロッパに足を運んでみたいものです。
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でしょう? (マイエンフェルトさま、)
2014-03-08 02:31:56
私だけ興味を引いた写真かしら、と思ったら、やはり同じように感じる人がいて嬉しいです。
ドイツ人友人の一人にDDR時代を知っている人がいて、彼女の話はとても面白いです。学校の先生がそれとなく子どもたちが家庭でどんな話をしているか(体制に反対の発言がないかどうか)探りを入れたりなど本当にあったそうですよ。初めて持った車はもちろんトラバント!
義母は東側がある意味西側より豊かな生活をしていて(休暇制度、医療、保育園など資本主義社会より容易だったらしい)そのぜいたくのツケを壁崩壊後に西側が払ったことを忌々しそうに話しています。
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トラバント (マイエンフェルト)
2014-03-08 21:52:15
トラバント懐かしい車です。
僕が旅をしていたころ
ハンガリーのショプロンでヨーロッパピクニックという
事件がありました。
その前後にドイツに行ったことがありますが
アウトバーンには荷物を屋根にいっぱい積んだ
トラバントが息も絶え絶えに
アウトバーンを走っていました。
僕らがアウトバーンを180キロぐらいで
走っているなか、トラバントは時速100キロも
出ないようでまるで走る障害物でした。
その後ベルリンの壁が崩壊して3年ほどして
再びドイツに行きましたがあれほどいた
トラバントは忽然と消えていました。
そういえば鉄道もそのころまだ
DBとDRが混在していました。
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トラバント、見ました。 (マイエンフェルトさま、)
2014-03-08 22:41:52
以前書いたことがあると思って検索したらありました。
http://blog.goo.ne.jp/risu-usagi/e/77dc018f42879088cc75423a0cdd5a3a

マイエンフェルトさん、お忙しいのでしょうけれど、是非またドイツや欧州を旅してくださいね。
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うわ~懐かしい (マイエンフェルト)
2014-03-08 22:59:43
トラバント
しかもDDRナンバーが懐かしい
ボディは強化プラスティックで叩くと
ポコポコという音がします。
エンジンはたしか600cctか800ccぐらいだと思います。
2ストロークエンジンで日本の50ccのスクーターと
構造は同じエンジンなので白煙を出しながら走ります。
ちょうど日本の軽自動車並みです。
ヘッドライトのローとハイの切り替えスイッチが
ヘッドライトに直接付いているので
切り替えるときには車を降りて
切り替えることになります。
当時はトラバントの他、ソビエト製のラダやチェコ製の
シュコダというメーカーの車も見かけました。
たぶん義父様ぐらいなら知って見えるかと思います。
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試乗しました・・・ (マイエンフェルトさま、)
2014-03-09 17:45:58
シュコダもラダも現存するようです。っていうか、数年前夫が車購入を検討していたときに試乗したこともあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3%E3%83%80
義父が船員をしていた頃、シュコダは船舶用機械類(エンジン?)もやっていたそうです。
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戦後処理 (マイエンフェルト)
2014-03-11 10:17:05
僕の母親は広島出身
このログの写真を母親に見せたところ
日本では終戦直後の様子と言っていました。
広島では戦後、進駐軍の指揮のもと
アメリカのトラックやブルドーザーがガレキの処理を
していたそうで当時小学生だった母は学校の
社会見学で工事の様子を見に行ったそうです。

戦後すぐに進駐軍による学校教育や食料の配給など
日本の復興の後押しがあり、日本政府も吉田茂や
それをとりまく白洲次郎などの活躍もあり
日本は復興から間もなくして敗戦国から脱却したのに
ポーランドは立場上戦勝国でありながら
ソビエトにほったらかしにされていたと思うと
だんだんポーランドの現状に至るまでの様子を
知りたくなるばかりです。
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壁のせい? (マイエンフェルトさま、)
2014-03-12 01:02:14
鉄のカーテンが東側の復興を妨げたのでしょうか。
「アメリカのトラックやブルドーザーが瓦礫の処理をしていた」など、初めて知りました。
「ザ・ピアニスト」(「戦場のピアニスト」の原作)に戦時下のワルシャワの様子が詳しく書かれていましたが、その後の復興の様子は記されていません。知りたいですねぇ。

子供時代を冷戦下で育った東側の人たちの話、楽しかった思い出を話してくれるので和むものがあります。
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