「トップアスリ-ト」たちは、勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからには、金メダルを何が何でも獲らなければ、赦してやらないことにしている。
TVや新聞を私物化したクセに、銀や銅ではフユカイである。
まして......。
南伸坊さんが「狸の夫婦」で、日本のサッカーはどうしたら強くなれるか、を論じている。
選手や国民を煽ったタラレバ評論家は、目を皿にして、「狸の夫婦」を読め。
南伸坊?誰やねん、と一瞥もしないとしたら、料簡も「メヤ(視野のこと)」も狭いぞ。
問題の「強化策」は同書の「日本人と外国人」という項目に書いてある。
頭突きのジダンに関して、伸坊夫人の放送禁止用語連発指摘から始まり、千代大海対露鵬の睨みあいと記者を「ぶっちゃった事件」に言及し、本論に入ります。以下、かいつまんで転記します。
頭に来たジダンは日本人には分りにくい。
露鵬は「礼に始まり礼に終わる」お相撲にはむいてない。
外国人は、日本人よりずっと乱暴に出来ている。っていうか、まァ闘争心が旺盛だ。日本選手が練習で上手なのに試合でダメなのは、サッカーにむいていないからだ。
日本選手はタマがゴールに近付くと、辺りを見回し、何かというとパスする。
まるで、オイオイこんな時俺んとこにタマ寄越されても困るぜ、とまるで厄介な尻でも持ち込まれたようだ。
日本人は「自分」勝手に判断したり、抜け駆けしたりするのは「いかがなものか?」を先ず考えてるのだ。
「和をもって尊し」としてるので、自分ばっかり突出したり、人を押しのけたり、かき分けたり、足を引っ張ったり、ジャージを掴んだり、邪魔立てをしたり、横取りしたり、各自が判断したり、蹴ったりというのは、どうも苦手だ。
ゴール前のパス回し、はつまり「問題の先送り」あるいは「功名の譲り合い」をしているのであって、日本人の一般的行動様式、行動規範である。
一方外国人は、敵に対してペコペコ屈辱的なお辞儀はしないし、負けて口惜しければ睨むし、そういったところは、日本人が思っている以上に違うということだ。
これは戦後教育が「外国人の悪口を言ってはいけない」というのが周知徹底し過ぎ、外国人理解を阻んでいる原因だ。
戦中は「鬼畜米英」と言って極端に悪口を言っていたのが、戦争に負けたら、米英中韓露仏、外国全部がみーんないい国みたいになってしまった。
実はそれぞれズルかったり、コスかったり、賤しかったりもしているのである。休み休み悪口を言ったほうがいいと思う。
ね、見事に核心を突いていますね。
オリンピックは参加することに意義がある、とか、国際親善だ、とか、精一杯燃焼した、とか、存分に楽しんだ、とか、自分にご褒美を上げたい、なんて言ってるのは、自分の職責が分ってない言語道断な「トップアスリ-ト」である。
伸坊さんはサッカーに事寄せて、外国人との戦い方を言ってるけど、これってフフクダ総理やゴメンコウムル外相や、外国人と折衝するキャリア役人にも適用できるお言葉だ、と思います。
センセやキャリアも「狸の夫婦」を読め。
もしかすると、読み違っているかもしれません。
先ず同書114頁から立ち読みをし、ほぼご同感なら、ご購入して下さいね。
ブログネタ満載で、折に触れカンコツダッタイ記事にするつもりです。
挿絵は同書「チクッとしますよ」と「おほほ祭りで笑う」から構成しました。