小学校の同窓会があった。
桃組生徒は5~60人はいたが、集まった人はわずか8人だった。
昔話が弾んだけれど、知らなかったか、覚えていないことが多かった。
同い年のじじばばが羨ましい。
年月が経つと.......。
口惜しかった、悲しかった、恥ずかしかった事など、負の記憶が和らげられます。
いや、むしろ懐かしくなっていることが多い。
時間は全てを美化してくれるようだ。
解決できなかったことが自然に解決するか、消滅している。
まさに「時は妙薬」だと思う。
ようつべにドリス・デイの歌がありました。
老いてなお、老いたからこその、しみじみとした名歌名唱です。
追 憶 (The Way We were)
寂聴尼によると、京都では「日にち薬」というそうです。
101017
同期のなかにそんな熱意を持ってる奴がひとりもいないのだ。
かと思えば、頻繁に開いている期がある。郷里で開いて東京でも開くこともあるらしい。
ある意味、羨ましい。
しかし、同年代の友人も「ついに最後の同窓会だ」と言う人もいる。
ぼちぼち、納めの年代に差し掛かったようですね。
ある意味現実的な言い回しです。京都はまた違うのかしら。
同窓会、熱心に世話をされる人がいるクラスでは、まだやってます。
小学校って、記憶ないです。
参加者が二人減りました
参加者は全員どこかしら故障中です
また逢う時が近くなったので 年貢の納め時かもね
行き先が問題ですが
敗戦とその後の混乱
大変な時代でした
小学校では勉強をしなかった 教科書が無く 算盤の練習だけをしていた
同窓会に出た友だちは 数々の武勇伝を披露してくれたけど 森生はそういう思い出がありません
寂聴さんは阿波の人だから 京都の人々の言い方に敏感だったのではないか と思います