梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

昨日の続き

2014-12-23 11:13:29 | 日記
 Kさん、コメント有難うございます。「喝采」は確かレコード大賞を取った曲ではなかったかと思います。私はこの曲をカラオケで歌ったこともありませんし、好んで聞いたこともありませんが、たった今、何も見ずに今この場でどこまで歌詞を思い出せるか、挑戦してみます。



いつものように幕が開き
恋の歌うたう私に
届いた手紙は
黒い縁取りがありました


あれは三年前
止めるあなた駅に残し
動き始めた汽車に
一人飛び乗った


鄙びた町の昼下がり
教会の前にたたずみ
喪服の私は
祈る言葉さえ無くしてた


   うむ、恐らくこれで完璧ですね。この歌には、「会いたい」とか「寂しい」といった、安っぽい、感情を表現する言葉が全く使われていません。その時の状況を客観的に突き放して描写しているだけです。しかし、聞く者はこれだけで心情的なものまで十分に汲み取ることができます。その意味で、西野カナの歌には、本来あるべき「歌詞」がありません。あれは「詩」でもなければ「詞」でもなく、せいぜい小学生の女の子の日記帳レベルです。彼女はせっかく「声」が広く支持されているのですから、肝心の歌の中身をもっとレベル・アップした方が良いと思います。

   ところで、歌といえば、以前書いたA-PINKというグループ、冷やかしでなく本当に日本進出を始めるようですね。それを告示する映像でも、全員が一人ひとり、日本語を使ってPRしています。KARAが日本上陸を果たした時をしのぐ高い日本語能力をもって、一気に攻め込もうという作戦なのでしょう。KARAと少女時代の中間的な位置づけで、化粧はあくまで薄く清純さが売り物、歌唱力はかなり高いものがあります。この子たちに食われるとしたら、やはりKARAの方でしょうねえ。

   それにしても、声高に反日を叫びながらも、金を稼ぐ場としての日本は絶対に逃がさない韓国人のしたたかさ(せこさとも言います)は大したものです。 
 



最近の歌に思うこと

2014-12-22 15:15:40 | 日記
   私の書く話題はあっちこっちへ飛び脈絡がないので、何かをあてにして訪問された方の期待を裏切ることも多いのではないかと思います。中にはKARAの話題専門に書いているブログもあったり、人により何かに特化している場合が多いように思います。私にも一定の方向性はあるのですが、いまだに「雑学王」と呼ばれているほどなので、話題は多岐に渡ります。本日ははやり歌の歌詞について考えてみました。

   以前ロンドンオリンピックの応援歌をけなして、なんとなく相方から不満そうな気配を感じたことがありますが、最近の歌について、私がかなりの不満を抱いていることは確かです。何しろ、ヒット曲であっても、全く耳に残らず右から左へ通り過ぎてしまって、何も残らない曲が多いのです。スピッツしかり、いきものがかりしかり、ゆずしかり・・・・。中島みゆきやサザンオールスターズなどはしっかり頭に残るのですから、必ずしも私が老いたからという理由だけでは説明がつきません。

   中でも私をとりわけがっかりさせるのは、やたらに必要のない英語を交えた歌詞です。それは日本に限った現象ではなく、韓国でも同じではないかと思います。JYJフリークのおばさまから歌詞の意味を問われることがよくあるのですが、ほとんど意味をなしていません。文法的にも成立していない英語が多いですし、その部分にその単語がなぜ来なければならないのか不審に思うものばかりなのです。

   しかたなく私はおばさまにこう説明します。

   「これは(あ、それからどした!)とか(えんやとっとどっこいしょ)といった合いの手と変わりませんね。英語だからなんとなく意味ありげに見えますけど、あってもなくても同じ気がします。」

   数日前の読売新聞に、音大でイタリア語を指導しているイタリア人が書いたコラムを読む機会を得ました。彼もまた私と全く同じ違和感を抱いていたようです。彼はこう書いています。

   「カラオケで他の人がうたっている時、スクリーンに流れる日本語の歌詞をじっと見るのが好きだ。だが近年、それが楽しめないことが多い。不思議な英語などのフレーズが頻繁に出てくるからだ。しかも、そのほとんどに外国語でなければならない必然性はないような気がする。」

   全くその通りです。その代表がこれ。

   Who are you? 恋人たちの六本木
   Who are you? ・・・・・・・・・・・・・・・
   Who are you? ・・・・・・・・・・・・・・・

   荻野目陽子(洋子?)の往年のヒット曲ですが、この Who are you? は合いの手以外の何物にもなっていません。その妹が歌った歌の 「星屑 lonelyness」も意味不明です。このイタリア人はまた、

   「自分が理解できる言語で歌を聞き、ストーリーを追っている時、よくわからない言語のフレーズが次々と出てくると、「うた」の物語がすっぽりと消えてしまう。」

   とも書いています。正論です。最近の歌は感性が先行して、論旨が不明、「詞」とは呼べないものばかりです。「詞」は「詩」に通じるものであって、日記帳に書いた駄文であってはならないのです。

   英語の話はさておくとしても、最近は日本語の趣を破壊するような歌が人気を博しているような気がします。その代表は西野カナ。愚にもつかないベタなフレーズの羅列に終わっており、こんな歌を素晴らしいと感じてアリーナを埋め尽くす観衆がいるのかと思うと、日本人の感性を破壊するつもりなのかと言いたくなります。この点に関しては、既にマツコ・デラックスが厳しく指摘してくれたようなので、深く追及はしませんが、無意味な英語交じりの歌詞より更に救いようがないと感じています。聞くところによると、女子中学生や女子高生が好きそうなフレーズを収集してつなげて歌詞にしているのだそうです。売れりゃいいってものではないのですよ、全く。

   私は歌詞にはやはり「含み」というものが必要だと思っています。たとえば、有名な宝塚の歌

   「すみれの花咲く頃 初めて君を知りぬ」

   は、どうやら単に顔見知りになったという意味ではなさそうです。一方、

   「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで 壊れて消えた 
    風風吹くな シャボン玉飛ばそ」

   という曲は、生まれて一週間ほどで我が子を亡くした詩人の心情を言いつくした深い歌ですね。

   私は、もっと内容のある歌がヒットする時代が来ることを期待しています。少なくとも、人工的に受けそうな言葉を組み合わせただけの歌や、中途半端な歌詞の後ろを無意味に英語で締める歌を作るのは、ほどほどにしてもらいたいものです。

池上彰は信用できるか

2014-12-20 07:08:52 | 日記
   映画「アバター」の続編が制作されるそうです。あの映画は実に巧妙に仕組まれた「人種差別映画」なのですが、皆さんそのことに気づいているかどうか・・・・。最後にあるのは、少数の白人がそれ以外の人種を導いていくというメッセージなのです。次回作では、どういう展開になるのでしょうかね。

   では、本題に入ります。池上彰氏と、元外務官僚の佐藤優氏の対談をまとめた「新・戦争論」という新書版の本を読んでみました。歌舞伎町まで忘年会に出かけるのに、往復の時間つぶしに駅で買った物です。

   以前にも池上彰氏については批判しましたが、この本を読んで更に彼がしたたかな偽善者であることを改めて感じました。彼はマスコミの海の中で長年生きて来た人物ですが、年齢は私より一歳上なだけです。つまり、彼が生きて来た時代を私もリアル・タイムで生きて来たことになります。そして、私なりに様々な人の主張を読み漁り、それなりの知識を蓄積しています。

   彼は世界情勢や歴史について、客観的に自己の思想を交えずに解説しているように見えますが、実は明らかにマルクス主義の立場に立つ世界観、歴史観を持っていることは明らかに見て取れます。そして、マルクス主義のフィルターを通して日本という国を見つめた場合、自ずと日本と日本人を否定する立場に立つしかなくなってしまうのです。

   彼の解説は極めて冷静で客観的なようでいて、実は最も重要な部分が欠落しています。私は彼がそれを意図的に欠落させているのだと思っています。彼の解説は常に大きな問題について詳しく説明し、そこからの脱却方法をも指南しようとしているのですが、問題のそもそもの発端については一切判断を下していないのです。したがって、外国からの日本に対する非難を説明するにあたっても、その非難が不当であるということについては触れず、どうすれば非難を止めてもらえるか、つまり相手国の言い分を受け入れるという解説しかしようとはしません。中国や韓国の問題についても、中国や韓国を非難したりはしません。真実を知らないほどおバカではないはずですから、意図的にその部分は避けて通っているのです。

   一例として、チベット問題について考えてみます。この本の55パージにはこう書いてあります。

   「チベットに関しては、中国の各省が金と人を出し合って、チベットを助けましょう、という一大運動をやりました。・・・大変な苦労をしながら西部大開発ということで金と人をつぎ込んでいます。」

   チベットは一応独立国でした。そこに「農奴解放」を歌った中国が軍隊を送り込んで力ずくで中国の領土としたのは歴史上の事実です。その際にはチベット人の大量虐殺がありました。現在では、もともと産業の乏しかったチベットに大量の中国人が入り込み、全人口に対するチベット人の比率をどんどん減らしつつあります。これはウイグル地区でも行われている手法です。後は「民主的に」、つまり多数の原理で物事を進めていくことが出来るようになるのです。つまりチベット人の主張と権利は着実に奪われていくわけです。それにも拘らず、池上氏はそのことには全く触れていません。それどころか、中国人たちは慣れない高地で大変な苦労をしているなどと、侵略側である中国人の肩を持つような書き方をしています。

   また、日本と日本人を悩ませている、いわゆる従軍慰安婦問題についても、一体どこを向いているのだと叫びたくなるような論調で私たちを言いくるめようとしています。

   「日本は謝罪しているということを(アメリカで慰安婦像を立てている在米韓国人たちに)伝えることから始めるしかありません。慰安婦を強制連行した証拠は見つかっていないとだけ言っていると、謝罪していないと誤解されてしまうのです。」

   つまり池上氏は、日本人がやってもいないことに対して、謝罪しろと言っているのです。そもそもの発端は取りあえず韓国をなだめようとして罠にはめられた政治家たちの責任ではあるのですが、池上氏の言っていることは、そうした愚かな政治家たちと全く同じことなのです。やってもいないことを謝罪しろというのですから、彼には日本を守るために貴重な命を失った人々に対する哀悼の気持ちが無く、もっともらしい口調で韓国や中国の悪巧みに加担しているようにしか見えません。何よりも日本の子供たちが、「凶悪な変態集団の子孫である」と虚偽の教育をすることを奨励していることになるのですから、これは許すわけには行きません。

   これほどの人物が、事実関係を見誤るとは思えません。やはり、悪しきマルクス主義者として、日本そのものを貶めるたくらみに意図的に乗っているのだと考えざるを得ないのです。いずれにしても、彼の解説は現在韓・中が仕掛けている「悪巧み」を、彼らの意図に沿って完遂させようとしているに過ぎません。私たちはこれからも、彼の言動には十分な注意を払い、警戒心を失わず、見かけのスマートさに騙されないようにしていかなければならないと思います。

修学旅行と覗き

2014-12-18 19:25:04 | 日記
  まずは産経新聞の記事をそのまま転載してみます。取扱い注意のテーマではあるのですが。

  修学旅行の引率中に宿泊先の女湯にカメラを仕掛け、生徒たちの着替えを盗撮したとして、京都府警下京署は13日、府迷惑行為防止条例違反(卑わいな行為)の疑いで、青森市の県立高校教諭の男(26)を逮捕した。同署によると、容疑を認めている。

逮捕容疑は12日午後9時半ごろ、京都市下京区にあるホテルの女湯の脱衣場にビデオカメラを置き、引率していた複数の高校2年の女子生徒の着替えを盗撮したとしている。

同署によると、カメラは置き時計型で、ロッカーの上に置かれていた。遠隔操作が可能で、教諭がリモコンを所持していた。 

教諭は引率者として9日夜から生徒らとともにこのホテルに宿泊。同署は、従業員の証言などから、12日以前にも盗撮をしていた可能性があるとみて調べている。 

ホテルの従業員がカメラを発見し、13日、同署に通報。ホテル内の防犯カメラの映像から教諭が浮上し、事情を聴いたところ、犯行を認めたという。

    
一般にこの記事をご覧になった方がお持ちになる感想はどういったものなのでしょうか。聖職者である教師が盗撮とは許しがたい所業である!といったところなのではないでしょうか。私も、教師が聖職者であるかは別問題として、基本的には同じような読後感を抱きます。
   
個人的には、この教師の顔写真が見たかった、というのが正直な感想です。元同業者として、どういう教師がこうした愚行に走るのか、知りたいと思うからです。

  実は、女生徒の下着を見ることは、それほど困難なことではありません。女生徒のスカートが短くなってから久しいのですが、スカートが短くなってからの方が女生徒の警戒心は緩くなっているような気がします。実は教壇の上からでも、女生徒のパンツが丸見えであることが少なからずあるのです。そんな時でも私たちは素知らぬ顔で授業を続けるわけですが、彼女たちが思っているより遙かに高い確率でパンツは見えているのです。

  そんな状況に置かれた若い男性教師がどんな心境に至るのか、一人一人に聞いて見たことはないのですが、要は授業中はからずも見えてしまったパンツに触発されて更にその道を究めたい?と思うか、あるいはパンツが見えてしまったことに幻滅を感じてげんなりしてしまうかの、二つに分かれるのではないでしょうか。隠し撮りに走ってしまった男性教諭は、きっとその先を極めたいと思ってしまったのでしょう。

  恐らくこの男性教師は女性と交際した経験がないものと思われます。交際経験があれば、職を賭してまでもがんばるほどのものではないということが自ずとわかるはずだからです。

  この教師は、実に愚かな若者だと思います。ただ、「授業に行き詰って校舎から飛び降り自殺を図ったが死にきれず腰椎骨折の重傷を負った23歳の男性教諭が、めでたく退院したその日に自宅より先に行ったのが風俗の店だった。」などという実話を知っていると、というよりそんな人間が同僚にいたのですが、しょうもない教師は形を変えて他にもいると言わざるを得ないことも事実です。退院したその足で風俗に行った男はその後東京都のカウンセリングの指導者となり、最後は校長にまで昇り詰めています。中には平然と、風俗へ行ったと豪語する先生もいます。この先生は皆さんから
一目も二目も置かれ、貫録もあって、立派な先生という評判です。
   
 先ほど述べた校長にまで昇り詰めた男性教師、私が急性肝炎で長期入院を余儀なくされた時、見舞いに持って来たのは、自分が読み古したエロ週刊誌の束でした。こんな男と逮捕された男性の間にあるのは、ティッシュ一枚程度のきわどい違いだけです。まあその一枚が人生の全てを変えてしまうほどの厚みがあるわけですが。

もしかしたら盗撮に走ったこの男性教諭も、この一線を越えなければ立派に尊敬を集める教師になっていたかも知れません。校長になっていた可能性さえも否定はできないのです。私はこの男性に味方する気はありませんが、人生は紙一重だと、つくづく思います。

至って小心者で品行方正なこの私、盗撮はもちろんしたことがありませんし、風俗も行った経験がありません。一介の生涯平教師でした。先生方で旅行に行った際、呼んだ出張ホステスに対して私が何の関心も示さなかったので、人間として幅がないと先輩講師から皮肉を言われたことがあります。もしかしたら旅先で平気で女性を買えるくらいの器でないと、世の中では通用しないのかもしれません。人として生まれて、表裏が使い分けられないようでは、人望は得られないのでしょう。その点では自分を顧みて納得できるものがあります。人の世は複雑怪奇に出来ているのです。

私は修学旅行を引率中に、2度男子生徒による女子生徒の入浴覗き事件を経験しました。某2年8組は、その結果男子全員が停学となりました。ところがこのクラスは私の長い教師生活の中でも実に模範的なクラスだったのです。世にも珍しいオール5の人格円満な男子がいて、皆その男子の存在を意識して頑張っていました。後にも先にも、教科担当が都合で休んだために自習となった時間に、誰一人おしゃべりもせずにきちんと自習が出来たのはこのクラスだけです。

2度目はクラス単位ではなくクラスの枠を超えた情報網で多くの男子が女湯を覗きに行った事件でした。この時は、自分の息子が女湯を覗いた事実を知らされた母親が、停学の連絡を受けて、それこそスキップするようにニコニコしながらやってきました。実はこの母親はまじめすぎる息子がゲイではないかと密かに疑っていたので、女の子の体に興味を持った正常な男子だったと知って、喜びに溢れていたのでした。

この事件にはおまけの話がついています。私は素行も成績も悪目の女子から信頼が厚い?特殊なタイプだったのですが、この時実は女子も屋根伝いに男湯を覗きに行っていたのです。男子が女湯を覗くと停学ですが、女子が男湯を覗いてもやはり停学にすべきなのか、前代未聞の事例ですね。しかし私は自分に向かって密かに告白されたこの事件を、一切口外しませんでした。恐らく教師では私以外誰も知らなかった事実だと思います。どの学校のどの女子だったかは、墓場まで持っていく秘密です。

梅様少女時代を見る⑦(最終回)

2014-12-16 10:38:28 | 日記
   さて、ここまでは少女時代がKARAを圧倒しているという部分を中心的に見て来ましたが、KARAの方が優っている点ももちろんあるのです。不公平にならないように、その点にもきちんと触れておきます。少女時代は一言でいうなら、完成された極上のプロ集団だといえます。この上なく美しくまとまっています。これに対してKARAはどこまで行っても欠点だらけの未完成のグループに見えます。しかしその分、少女時代は集団としてまとまっているのであって、個々人の個性が突出して見えて来ることはありません。

   KARAの方はといえば、平気で一人一人が別々に突出して個性を発揮してくれます。その分歌唱力の不足なども露呈してしまうのですが、ギュリだ!スンヨンだ!ハラだ!ヨンジだ!と、個々のキャラが際立つのです。メンバーによるソロの時間を取ってあることもその点を際立たせています。観客がメンバーの個人名を連呼するのも、このせいだと考えられます。

   少女時代よりもはっきりと歌唱力において劣る彼女たちがソロで順番に歌うのは、ある意味冒険です。しかし、彼女たちは極めて誠意を込めてソロ・パートをこなし、個々の成長ぶりと個性をアピールしています。たとえばギュリは美人なのに、歌もそこそこうまいのに、真面目にやればやるほどなんとなく笑えてしまいます。スンヨンに対しては、頑張ってるなあ、の一言。ハラに対しては、歌が技巧的な意味でなくうまくなってきている、ヨンジに対しては、思ったよりずっとやるじゃないか!等々。脱退してしまったジヨンなどは、歌が一番へたくそなのに、ひとたびソロで舞台に立てば、全観客を味方につける特技を存分に発揮していた、という具合に。

   彼女たちは自分が不器用で、たいしたことがないということを自覚しているように見えます。その分、舞台の上で、個々の気持ちを込めた言動が、ひしひしとそれぞれの誠意を感じさせるのです。そこが熱烈なファンを引き付けて離さないのだろうと思います。

   少女時代は抜群に歌もダンスも上手なのですが、主観的な意味では、あまり心がこもっているようには見えません。テヨンなど抜群な歌唱力を持ち合わせているものの、うまさを見せる方が優り、それほど気持ちがこもっている感がありません。そんなところが少女時代とKARAの決定的な違いだろうと感じています。少女時代のファンが会場で大騒ぎせず、KARAのファンが度を越しているほど熱烈になってしまう原因も、きっとそこにあるのです。むき出しの自分たちをぶつけてくるKARAと、磨き抜かれた芸を見せつける少女時代のどちらを選ぶかは、まさに究極の選択といえるでしょう。

   この辺で東京ドームに戻りましょう。少女時代のコンサート、彼女たちがいったん楽屋に引っこみ、後はアンコール曲を残すのみとなりました。KARAの場合であれば会場全体に建物が壊れんばかりのアンコール・コールが鳴り響くところですが、やはり静かなものです。なぜか無言のうちに(!)静かなウエーブが始まり、レフトスタンドからライトスタンドへとつながって行きます。それにしても何故に無言なのでしょうか・・・。

やがて数名の観客が、アンコール曲の開始を待たずに席を立ち、帰り始めました。ドームに結集した観客はおよそ5万人。この人数の全てが会場を後にするには、小一時間を要することでしょう。更に水道橋駅の混雑を想像すると・・・・・私も意を決して席を立ちました。途中、学校帰りと見られる高校生の二人連れの話し声が聞こえてきました。
「少女時代終わったかな?」
「終わったんじゃない?音がしないから。」
「電車込むな!」

私は水道橋方面へは向かわず、思い切って逆方向を御徒町まで歩くことにしました。すると途中に昔はなかった大江戸線の駅が・・・・。おかげで御徒町まで歩くことなく帰宅の途に着いたのでした。帰宅後に残ったのは,KARAの時とはまた違った不消化な気持ちでした。少女時代の方が歌唱力においてもダンスの技能においても、歴然とKARAを上回っています。それなのに残るこの消化不良とも言える気分は何なのでしょうか。少女時代が万一来年も日本公演を行うようなら、もう一度行って、その理由を確かめてみたいと思います。

   帰宅してからしみじみ考えました。KARAと少女時代の本当の差は?少女時代のユナやソヨンは小学生の時にS.M.ENTERTAINMENTのオーディションを受けています。その時点から起算すると、いろいろあって活動が中断しがちだったKARAと比べたら、実質的に倍くらいのキャリアがあることになるのです。しかもKARAのメンバーたちは公募があってからデビューまでの期間がとても短かったのですから、少女時代とは基礎の出来方がまるで違うのですね。少女時代の方が完成度の高さにおいてはるかに優るのは当然の事なのでした。

   以上。明日からはまたいつものブログに戻ります。